深志の戦争② ー終戦から抑留へとー

2022年

収容所を転々と・・・・

左の地図が満州の地図であり、深志が鞍山市から新京警備に召集されて、終戦を知ってか、知らずか公主嶺こうしゅれいに作戦といわれて集結したあと、ウランバートルに移動した足跡である。

抑留時の記録によると、昭和21年1月21日にウランバートルに郊外ボンボトで木材伐採に従事している。

「ボンボト」の位置について調べたところ、ウランバートル西南方33㎞にある。
次に昭和22年6月21日から10月10日までセレべ煉瓦工場に従事とある。

「セレベ」の場所は、ウランバートル市内の東北方3㎞にある。セレベ煉瓦工場では、90名程度の日本人捕虜が強制労働をさせられていた。

ソ連、モンゴル兵の監視の中、厳しいノルマを与えられ、乏しい食料と極寒の中で体力の弱い捕虜たちは次々と亡くなっていった。死んでしまった戦友の死を悲しむのも束の間、すぐ遺体から衣服を脱がせて、我先に奪い合う地獄だった。

昭和22年6月21日には、シャフィーン・トインボンド・バートルト収容所にて取り調べを受けている。

今となっては、シャフィーン・トインボンド・バートルト収容所の正確な所在地がはっきりしていない。

厚労省援護局にあるモンゴル抑留資料も不確実で発音が類似している「ショホイ・ツアガーンボラグ」という埋葬地のあった収容所ではないかというところまでしかわかっていない。

もし、埋葬地が収容所の場所であったとするならば、そこはウランバートルから30㎞東北方である。

妻の死

収容所で受けた取調べ書類によると、召集以前で最後に居住していた場所は、満州の鞍山である。家族についての詳細は、父親名がスエクマ、母親名はトメ、妻はナチエとある。これは、夏江の事である。

しかし、夏江は、既に昭和21年4月6日に鞍山市で死亡している。

その時の死亡届は、このように記載してあった。

『夏江の死亡届』

川内市向田町八拾五番(本来は815番地)

鞍山市南一條二拾四番地

戸主 瀬下深志 妻   (本来は戸主は、深志であるが、出征不在のため残った妻を戸主にしたのだろう)

死亡者  瀬下夏江 29歳無職 大正7年8月10日生と記載してあるが、戸籍では8月20日である。

死亡日 昭和21年4月6日午前2時0分 所在地で死亡

診断書 肺結核 発病 昭和20年3月10日 医師 前田睦朗

届出日 昭和21年4月13日

届出人 居住者 弟 井上政盛 大正10年12月20日生

しかし、次にはこれを斜線で消して「瀬下深志届出」と加筆してあった。

これは、本来ありえないのである。

その頃、深志はウランバートル郊外のボンボトで木材伐採の強制労働に従事させられていたのである。当時同居していたであろう弟の政盛が提出したが、後年深志に書き換えたのであろう。

筆跡も深志本人でないように思われる。昭和20年3月に結核を発病しているということは、当時は死の病である。そのような重病人をおいて5月には召集令状を兵事係から配達され、それを受けての出征である。心情はかなり辛かっただろうと思う。

収容所での調書に話を戻すと、深志は取調べに際して「陛下の兵士」として従事したと述べている。
召集兵とはいえ、日本兵としての矜持(プライド)があったのだろう。

取調べの最後の欄は、1947年6月27日、健康状態として、身長 中背 身体の状況  不良 細い 髪の色 黒 目 眉が黒い、高い鼻、顔 やや丸顔、などと記載されており、栄養状態がかなり悪かったと想像される。そして、本人の署名がある。

これが当時の直筆による署名である。

しかしながら、ソ連でなくモンゴルに抑留されたことは、不幸中の幸いだったかもしれない。ソ連の影響下にあったモンゴルは、スターリンから戦時中の論功行賞で捕虜の譲渡をもちかけられ、自国のインフラの構築が急務だったため、一も二もなくその提案に乗ったのである。特に日本に悪意をもっていたわけでもなく国内の必要な整備がほぼ終了した2年で捕虜を送還している。シベリア抑留に比べて比較的短期間で抑留が終了している。さらにソ連と違って、捕虜の共産化教育が徹底していなかったのである。

それでも有名な「暁に祈る」事件は、モンゴル抑留での凄惨な事件である。やなり苛酷であったことには違いない。同時期に、ほぼ同じ場所で抑留されていたのではないかと思われる、岩手県の阿部宥蔵氏の手記がある。少し引用させていただく。

「戦後モンゴルに抑留されて」 一部抜粋

昭和20年11月26日、満州黒河からソ連領に入り、ブラゴエ駅で貨車に乗せられ、行先はわからず列車は走り出した。着いたところは、外蒙(モンゴル)国境ナウスキ駅であった。寒さも零下20度はあったろう。駅で列車を下車し、雪の広野の中をどことも知れず歩かなければならなかった。あとで誰かが行先は、スフバートルと言っていた。

そこから、昭和21年正月ころ、移動命令が出て行先は、よくわからなかったが、大型トラックに乗せられて雪の広野を走り出した。運ばれて着いた所は、ウランバートル近郊の煉瓦工場である収容所だった。食事は、一日二食だったり、三食だったり。

多分モンゴルに、日本軍捕虜が何万人も入ったことにより、食糧事情が悪くなったのだろう。煉瓦は、造って、日干しして、それを冬期にかまどで焼き上げて製品とするが、造るには先ず、用土を掘り出す、断崖の下を掘り下げ、石のない粘土(用土)を採取し、ふるいにかけ、それを平地まで運び上げ、水を入れ、よく練り合わせたものを、ダンゴにして型の木箱に投げ入れて、それを砂をまいた平らな所に持っていって、あいまよくひっくりかえす、そして箱を取り上げ、うまく出来ればよいが、なかなかどうして、うまくできない、ろくな食事も与えられない。栄養失調の身で煉瓦造りは大変な重労働であった。

用土を掘り出す、ふるいにかける、運搬するだけでも午後までかかる。その用土を小山のように積んで、真中に穴をあけ、水を入れ、足で踏んで練り合わせる、よく練り合わせないとよいダンゴができない。練るのに足で踏むが、子供の頃、我が家で「ミソ」を造るとき大豆をよく煮て、それを大きい樽に入れ、「ワラジ」をはいて、足で踏んで、ねりつぶしてミソ玉を造った。

そんな感じで用土を練る、小さい用土の山に一時間もかかる。それを大きいダンゴに一つ造って型箱に入れる。力強く入れないと箱のすみによく入らない。箱は二個入るようになっている。そして、ひっくりかえして矩形の煉瓦の生ができるが、そううまくいかない。それを並べる、二列となる、一日の「ノルマ」は一人二十個であったが、三十個にと増やされた。

「ノルマ」を達成しないと夕方まで宿舎に帰れない。

できた組は、できない組の応援をしてその達成を支援した。夕方暗くなると、今度はモンゴルの歩哨が早く帰りたいので、銃剣をチラつかせ、ダワイ、ダワイ(早く、早く)と怒鳴りつけるのだった。

                      以上 「戦後モンゴルに抑留されてより」一部抜粋

抑留者の仕事

深志もおそらく同じ煉瓦工場だったと思われる。このような状況下で耐えて生き抜いたのだ。ほかにも抑留者は様々な労働に従事した。
ウランバートルの国会議事堂、オペラハウス、外務省、中央図書館、国立大学、映画館、ホテルなど公共施設の建設や建物の基礎工事などは、抑留者の仕事である。

強制労働とはいえその丁寧な仕事ぶりは称賛されている。その壁づくりに深志たちの造った煉瓦が使用されているのである。                         つづく・・・・

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