深志の戦争③ ー抑留から帰還へー

2022年

シベリア抑留とは何か?

それではなぜシベリア抑留という残酷な歴史が発生したのか?

それは日本軍兵士だけでなく、在満州一般人にまで及んでいた。そして、その流れで、中国残留孤児という不幸まで起こったのだ。

ポツダム宣言に日ソ中立条約の継続中ということで、ソ連は共同宣言から外れていた。そこで、スターリンは共同宣言に署名しないままのうちに、一方的に日ソ中立条約を破棄して満州に侵攻。

日本軍武装解除後の処遇について定めたポツダム宣言9条「日本軍は武装解除後は、各自の家庭に復帰し、平和的な生活を営む機会を得られる」との、条項を無視し、ソ連はシベリア抑留を行った。結果として、終戦時の夏服で、シベリア地域の越冬をよぎなくされた日本国民が多かった。

すでに武装解除され、日本に帰りたいと多くの日本兵が考えたが、実行されたことは、武装解除した日本兵をシベリア方面の開発の労働力としての強制労働だった。

このアイデアは、昭和20年4月から5月、ナチス・ドイツが敗れ、ソ連が本格的にナチス式の「合理的」な強制収容所の計画と実行ノウハウを知り、それを模倣して行ったものである。

シベリアへの抑留をソ連が提案してきたことに対して、当時大本営、朝枝参謀名にて「関東軍方面停戦状況に関する実視報告書」1945年8月26日として、「内地に於ける食料事情及び思想経済事情により考ふるに規定方針通り大陸方面に於いては、在留邦人及び武装解除後の軍人はソ連の庇護下に満鮮に土着せしめて生活を営む如くソ連側に依頼するを可とす」。

「満鮮に土着するものは、日本国籍を離るるも支障なきものとす」。

「貴軍(ソ連軍)の経営に協力せしめ其の他は逐次内地に帰還せしめられ度いと存じます。右帰還迄の間に於きましては極力貴軍の経営に協力する如くお使い願いいと思います。」

このようにスターリンに対して「どうぞソ連の再建のために日本人をお使いください」と日本人の許可なく差し出しているのである。日本国によって日本人が棄てられた瞬間の事実である。

終戦後、一斉に外地から国民が帰還してしまうと、ただでさえ悪い国内の食料事情がさらに悪化することが予想されるとはいえ、あまりにも理不尽が扱いである。

抑留から日本へ

約2年の抑留生活を耐え抜いて生き残った深志達は、昭和22年10月10日にモンゴルの収容所を出て、やっとの思いでナホトカへ帰国の旅路についた。

ナホトカを11月5日に、英彦山丸で出航した。その時の英彦山丸は、約2,000人の復員兵、及び日本軍属たちを乗せて函館港に向かった。舞鶴港へ帰る帰還船が多い中、英彦山丸は函館港に帰港するというのだ。やっとの思いで日本に帰りついたら、今度は北海道から九州までの日本縦断の熾烈(しれつ)な旅が待っていた。ナホトカから3日間かけて函館港に着いた。

その時の所持品は、背嚢(リュック)、雑嚢(肩掛けカバン)、水筒、飯盒(米炊き容器)。これだけで極寒のシベリアから生還したのだ。港の桟橋には家族の帰還を待ちわびる「岸壁の母」「岸壁の親子」などがひしめくように集まっていた。

 岸壁の母のモデルである、端野(はしの)イセさんは帰ってこない息子、新二さんを舞鶴港で待ち続けたのだが、新二さんは帰ってこなかった。のちに新二さんは上海で生存していたという情報があった。

しかし、新二さんと同じ石頭せきとう予備士官学校の同期で戦友だった高﨑氏に取材してわかったことがある。指揮班長として活躍していた新二さんは、夜陰やいんに乗じて戦車肉薄攻撃せんしゃにくはくこうげき(ランドセル位の急造爆弾きゅうぞうばくだんに点火させた爆薬をかかえたまま全力疾走で戦車に突っ込む作戦)に出たまま行方不明となり、あの状況ではまずは生きてはいなかっただろう、との見解だった。

また、歌にこそならなかったが、鹿児島の婦人は満州で別れた獣医のご主人を待ちわびて26回も舞鶴へやってきて、桟橋に立っていた「岸壁の妻」として話題になった。

 その当時の厚生省援護局の記録によれば、函館に上陸した引揚者を最初に待っていたのは、殺虫剤のDDTの粉を頭からかけられ全身真っ白にされる作業であった。その後、市内に設けられた「援護寮」に移り、下着やタオル、石鹸、歯ブラシ等の支給を受けた。

目的地までの旅費の支給、帰還輸送、これは鉄道乗車券の交付のことである。そして、携行食料交付、当時は弁当購入や食堂での食事などできるはずはなく握り飯や乾パン等の支給であった。このような状況の中、函館から川内(せんだい)(現:鹿児島県薩摩(さつま)川内(せんだい)市)までの生還の旅に着いたのだった。

そして、待つ人のもとへ

 川内せんだいに着いた我が子を見た深志の母、トメは、「幽霊かと思った」と深志につぶやいたという。年少のころ、その話を聞いたときには、おそらくボロボロの姿で帰ってきた様子がまさしく、幽霊のような「いでたち」だったのだろうと思っていた。

しかし、子供を育てた今、それは深い母心だったのではないか、戦地で死んでしまうかもしれない我が子に「立派に死んでこい」などと思って送り出すわけがない。

たとえ、幽霊でもいい、会いたいと思っていたのだろう。その幽霊が目の前に現れて、しかも幽霊ではなかった。ひとり息子が生きて帰ってきたのだ。

本当に嬉しかったに違いない。

それから、昭和23年9月28日、深志は、私たち兄弟姉妹の母となる芳子と祝言を挙げている。

                              【完】 著:瀬下三留せしたみつる 氏

 

映画『ラーゲリより愛を込めて』2022年12月9日 公開

瀬下さんの記事をつなぐように、明日から「ラーゲリより愛を込めて」の映画が始まります。
「ラーゲリより愛を込めて」公式サイト
原作は、ノンフィクション作家 辺見じゅんさんの「収容所ラーゲリから来た遺書」という本です。

これまで、「戦争を語り継ぐ集い」でシベリア抑留体験者の浦門さんから聞いた話やその話に
基づいて書かれた絵画展などの情景が、映像となって写しだされるのです。

配給された黒パンを均等に分け合う様子や日本人が上官から「つるし上げ」など。そして、抑留者と一緒に暮らし、舞鶴に引き揚げた犬クロも登場するようです。
(参照:京都新聞11月30日記事より)

早速、原作を読まれた方より感想をメールで頂きました。

「収容所からきた遺書」読了しました。

一文です。

甲板では人びとが遠ざかるナホトカをじっと見つめている。みな声もない。

興安丸は港口をでると、しだいに速力をあげた。沿海州の陸の影が水平線に低くなると、興安丸の後方からついてきたソ連の海防艦が、「安全なる航海を祈る」と信号旗を掲げて反転した。

すると、日の丸の旗が興安丸のマストに掲げられた。

うおっという歓声があたりからあがった。

もうここはソ連の領海ではない。二度とラーゲリへつれ戻されることはないのだという喜びがみんなの胸につきあげた。

経済企画庁が「経済白書」で「もはや戦後ではない」と日本の発展ぶりを謳っているころです。

私が生まれた年まで抑留されて、11年ぶりに日の丸の旗を見て、いかに祖国というものが有難いか、よく考えなければならないと思いました。

ナホトカから帰還船に乗り込む

サムネイル画像は、ソ連のナホトカから帰還船に乗り込むために抑留者であふれた様子を浦門さんの話と他の抑留者の方が描かれた絵をもとに田中さん(集いの有志)が描いた水彩画です。

先日(12月7日)、厚生労働者がシベリア地域とモンゴル地域での抑留死亡者のうち、個人を特定できたとして、11名の方の漢字の名前と出身地を公表していました。

約6万人の人が亡くなったとされるシベリア抑留の事実。
『敗戦後、どうして、その人たちは日本に帰れず、シベリア、モンゴルの地で亡くならなければならなかったのか?』

その問いの答えは、映画を観ることで見つかるのだろうか・・・・・

鹿児島市内での上映館は以下です。

天文館シネマパラダイス

ミッテ10

TOHOシネマズ与次郎

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