深志の戦争① ー満州で働く、終戦、そしてシベリアへー

2022年

今年(2022年)の1月15日の「集い」のテーマ、「戦争体験を話さなかった親を通して感じたこと、考えたこと」で(ブログ記事:https://senthugu-kagoshima.com/5/話をしてくださった瀬下三留させしたみつるんは、「瀬下」の姓のルーツから現在に至るまでの「瀬下家、ファミリーヒストリー」版冊子を書いておられます。

その冊子の中から父親・深志さんの戦争体験に関わる部分を抜粋して3回にわたり、掲載していきます。

満州で暮らす

瀬下 深志せした ふかし 大正4年 7月10日 薩摩川内市東郷町に生まれる。

深志は、27歳の時に、最初の妻である、「夏江なつえ」と結婚している。

「夏江」は、川内市(せんだいし)(なが)(とし)(ちょう)井上(いのうえ)(せい)太郎(たろう)、カヲの長女として、大正7年8月20日に現在のタイヨー永利店あたりで誕生している。夏の盛りに生まれたので、「夏江」と命名したのだろう。

夏江24歳、深志27歳の3歳違いの夫婦として、昭和17年11月9日に入籍している。

しかし、深志はそのことを子どもたちには話してはいなかった。まさしくそのことは、誰も知らなかったのである。仮に「瀬下」のルーツに関心を持たずにいたならば、「夏江さん」の存在が消えてしまうところであった。

結婚後、二人は当時日本の支配下にあり、開拓の希望の地となっていた「満州国」の遼東りょうとう半島はんとうに渡っている。

地図引用・旅のともZen Tech

当時の住所は、中華(ちゅうか)民国(みんこく)(りょう)寧省(ねいしょう)鞍山市(あんざんし)南一條(みなみいちじょう)24番となっている。満州時代の鞍山(あんざん)は、線路をはさんで西側と(てつ)西(にし)、東側を(てつ)(ひがし)と呼んでいた。

鉄西には、工業地帯と中国人、朝鮮人街、鉄東には、駅前に商業地区と官庁街。その東側に日本人街があった。

深志と夏江は、この日本人街で生活していたのだ。現在も鉄西、鉄東は地名として残っている。鉄東の南側には市役所、北には警察署があり、これを結ぶ道路を一条と呼び、それに並行して二条、三条と東側へ並び十二条まである。南一条町は、一条通りの東側エリアであると思われる。推測ではあるが、鞍山市南一條は現在の鉄東一道街、しかも駅前目抜き通りの二百十九路の南側あたりという事になる。

 現在の「鉄東一道街24」が当時の南一條町24に該当する。地図と照らし合わせてみると愛民街あいみんがい烈士山道街れっしさんどうかいの間に位置するブロックの真中である。この場所で今から70数年前に二人で生活していたのである。

当時、南一條は基本的には終戦までは「昭和製鋼所」。昭和製鋼所の前は満鉄「鞍山製鉄」の社員家族が住んでいた。南一條の住民の半数以上が「昭和製鋼所」の関係者だったという事である。そこから推測するに深志も「昭和製鋼所」の工員として鞍山で二人で生活していたのだろう。

写真:Power-Factoryさん2012年「遼寧省旅行記」ブログより。
遠くに見えるのは鉄工所のコンビナート。満州国時代には昭和鉄鋼の製鉄所があった場所

モンゴル抑留時の収容所での調書と照合してみた時、「徴兵以前に最後に居住していた場所」の問いに「満州ヘセシャン市(鞍山市)」と答えている。さらに、「入隊以前のすべての活動内容と状況を記入」に対しては「1922年(大正11年7歳~昭和6年16歳)にかけて工場、

1931年~1945年(昭和20年30歳)7月まで労働者」と記入している。まさしく、鞍山の昭和製鋼所で働いていたと思われるのである。

しかし、若かった二人にも楽しい生活があったはずである。その証拠に深志はなぜかスケートについて詳しかった。

なぜ詳しいか深く考えもみなかったが、今考えてみると満州に住んでいたので娯楽としてスケートを楽しんでいたのだ。満州に住んでいたことも我々は知らなかったのだ。

戦争がやってくる・・・そして、召集

時代は、日中戦争、太平洋戦争へと突き進んで行った。

深志のいとこで同じ年齢の「瀬下民三」が昭和14年1月13日、日中戦争の山西省の地で24歳の若さで戦死した。深志の軍歴によると、昭和20年5月15日に入隊している。

当時戦局悪化に伴い、関東軍は南方で米軍と戦っている戦場に関東軍の先鋭部隊を送り込んでいた。

満州防衛と南方戦線との二方面戦争を強いられた日本軍は不足している兵力を補うため、昭和20年1月16日残存兵力の再編成を行った。

17歳から45歳まで召集年齢の拡大、いわゆる「根こそぎ動員」の始まりである。次の写真が復員当時の身上申告書、並びに所属部隊の名簿と表紙である。

そこで在満州邦人の配置先として歩兵125連隊に召集されたのである。深志30歳の入隊だった。

30歳という二等兵(最下兵)としては、盛りは過ぎている。日本軍隊の価値基準では、天皇陛下より賜ったということで、兵士より武器、軍馬の方が大切にされていたのである。

当時の戦局は、相当逼迫しており、同年8月9日、突然に150万人の大軍でソ連が満州に侵攻してきたのだ。のちの歴史研究によると、ソ連は日ソ中立条約を結びながら同時に、モンゴルの満州国境に大掛かりな基地を三か所も準備していたのである。

終戦、武装解除

その翌日の8月10日、深志達の部隊は新京(満州国の首都、現在の長春)警備に配属された。敗戦間際である。もうすでにその頃の関東軍には戦闘能力はなかったと思われる。

そして、8月18日武装解除を命じられている。しかし、その時点では日本は内地では陛下の玉音放送があり、日本は敗北したはずであるが、その後不思議な行動をとらされている。

8月20日に作戦ノタメ公主嶺(新京の西に位置する日本軍事重要地)に集結という命令を受けている。何のための作戦だったのか、なぜ武装解除してから集結させたのかわからない。

おそらく、捕虜にするためのソ連による連行に関東軍が同意し、命令したのではないかと思われる。深志が戦場でのことを話していたことがある。戦地では、食料がなく、部隊の馬が食べる野草は食べられるとわかり、食料にしたとか、ベルトや靴の革はうまかったとか。

おそらく、死亡した戦友のベルトや靴を食料にしたのだろう。ほかにもある夜、宿営地だろうと思われる水辺に行き、水を飲み、水筒にも水を補給した。翌朝、出発する時にその水辺の様子が明らかになった。

そこには、死体がゴロゴロ浮かんでいた。

満州からシベリアへ

8月21日、公主嶺で捕虜になり、10月9日公主嶺を出発し、さらに西への12月8日、満州とソ連の国境の街、黒河(アムール川)を経由してブラゴエからモンゴルのウランバートルに到着した。

これからが過酷なシベリア抑留、空襲、原爆などの火の武器に比較して、氷の武器と言われるソ連によるシベリア地域での強制労働との生死を賭けた戦いの始まりである。

深志の話では、抑留中にソ連兵から銃を突きつけられて「死」を覚悟したことがあった。そういう場に遭遇すると走馬灯のように頭の中をよぎった、とかの話をしてくれた。   
                                  つづく・・・・・

コメント