僕が住んでいた琿春で起きたこと。1938年

2022年

昭和11(1936)年、旧満州・琿春で生まれた赤崎雅仁さん。これまでも「戦争を語り継ぐ集い」でお話をしてくださいました。赤崎雅仁さんの記事ブログ

その赤崎さんが、私たちに知ってほしい、と書き留められた資料(A4・2枚)があります。
それを、記録としてここに書き記しておきたいと思います。
※1.作成されている資料に日時の記入はありませんが、おおよそ5年位前だと思います。
※2.各事件・出来事についての出典は、主にウィキペディアを参考に書かれているようです。
   戦死者数などに違いがありますが、他の出典参考資料名は不明ですので、ご了承ください。

引揚げとは?

引揚げとは、一般人は「引揚者」といい、軍人、軍属は、「復員兵」と言った。
敗戦直後、舞鶴港に入港は「雲仙丸」と昭和20年10月7日、釜山から2,100名であるが、何故か復員兵とされている。

軍人、軍属、一般人が海外から引揚げ者は、660万名とされている。
そのうち66万名が舞鶴に、1万6千余柱の遺骨が戻ってきた。

満州開拓移民27万名、引揚げまでに7万8,500名死亡したとされる。
ソ連の襲撃による死亡、集団自決等により多数いた。

満蒙開拓団終戦と虐殺事件

満蒙開拓団終戦前後に虐殺された事件があり、紹介してみます。

1.張鼓峰事件(ちょうこほうじけん)

昭和13(1938)年7月31日 ノモンハン事件の1年前になる。

ここは、僕が住んでいた琿春より70キロにある。

国境をめぐる紛争である。小高い張鼓峰の出来事で資料によると日本軍の戦死者525名、戦傷者913名、ソ連の戦死者717名、戦傷者2752名とされている。

この事件がノモンハン事件に生かされなかったと言われている。

昭和13年6月13日 ソ連のリコンシュコフ大将がポシェットより亡命してきた。

スターリンからの粛清を感じて、その時ソ連が張鼓峰に侵入して、陣地の構築を計画されたことを暴露、日本軍によって奪還を始めたのがきっかけとなった。天皇に上奏したが却下され、当時の琿春に近い朝鮮から軍が単独行動をしたと記してあった。

 ソ連のリコンシュコフ大将はその後どうなったか?

膨大なソ連の軍事機密を持ち込み助けを求めたが、ソ連にいた家族は流刑にされたり、銃殺刑になったりしている。

終戦時に大連にいたようであるが、日本軍によって自害を求められ、拒否したので銃殺されたと言われている。

写真は、張鼓峰事件発生地碑です。
2017年に建立されているようです。

張鼓峰事件記念館もできており、琿春の観光スポットの一つ
として紹介されていました。

満州開拓移民27万人 引揚げまでに7万8500人死亡したとされる。
ソ連の襲撃による死亡、集団自決などに多数いた。

2.葛根廟かっこんびょう 事件

1945年8月14日、葛根廟(現・内モンゴル)において日本人難民約数千百人(9割以上が婦女子)がソ連軍によって攻撃された1000名以上が虐殺された事件。

これによって11日、興安在住の公安省参事官浅野良三の指揮の下、行動隊が組織された。

某放送局で、この事件の生き残りとして鹿児島の方が紹介されていた。

依田照子さん 東京都で生まれ、母の里が出水、お墓には依田さんが刻まれているそうです。
2019年ドキュメンタリー映画 劇場版『葛根廟事件の証言』に出演されているようです。)

葛根廟丘陵付近まで到着したところに、ソ連軍の中型戦車14両とトラック20台に搭乗した歩兵部隊に遭遇、浅野参事官が白旗を揚げたにもかかわらず機関銃などによる攻撃で住民をひき殺してきた。なおも生存者を見つけ次第、次々と射殺された。

大勢の人は自決でした。暴民たちの襲撃も受け、当時日本人の男児は300円、女児は500円で売買されるが一般的であった。残った10数人の婦女子はソ連兵に発見され暴行された。
ここで残留孤児、残留婦人となる、国民学校では、校長夫婦以下児童270人のうち200人が殺害された。戦後ソ連の戦争犯罪として取り上げられている。満州の日本人難民が遭遇した最大の悲劇である。

3.麻山まさん事件(東安省鶏寧県・現 黒竜江省鶏西市)

入植していた開拓団1,300名がソ連の機械化部隊の攻撃を受け、追い詰められた結果、8月12日麻山付近で区400名近くが集団自決したもの。

4.双明子事件(東京荏原開拓団の悲劇)

興安街付近では東京荏原えばら開拓団が匪賊暴民に襲撃されて、約400名が殺害された事件。

仁義佛立講開拓団がソ連の機甲部隊の一斉射撃や暴民の襲撃に遭い、600名以上が殺される事件も起こった。

5.牡丹江ぼたんこう事件 

日本人難民680名がソ連軍機甲師団と難民の襲撃により虐殺された事件。生存者は20名とされている。

塩澤実信著 大橋鎮子と花森安治「暮らしの手帖」二人三脚物語から

紀元2600年を固辞した昭和15年当時の物価を「物価の文化史辞典」森永卓郎監修・展望社から引用すると。。。。。

白米10キロ 3円32銭

牛肉(ロース)375㌘ 1円48銭

緑茶100㌘ 2円50銭

そば(もり・かけ) 15銭

喫茶店コーヒー 15銭

三越食堂和定食 85銭 すし30銭 天丼50銭 たばこゴールデンパット金鵄9銭
 日本酒(上等酒一升)2円70銭 ビール大瓶 39銭

新聞購読料 1ケ月1円20銭

入浴料6銭 鉄道運賃(東京―大阪間三等)5円95銭、

航空運賃(東京―大阪間)30円

この物価を比較してみると、戦場で一番消耗率の高かった1.2等兵は、戦時加棒外がついて10日目ごとに7円80銭だったから、月に23円40銭の棒給に過ぎなかった。

東京帝国大学に学んだ花森安治は、この階級だから、東京から大阪までの航空運賃にも及ばなかったのだ。

この書物によると、花森さんは、軍事教練を拒否したため、1銭5厘の葉書一枚で戦地に送られる羽目になったそうです。
                                     以上 赤崎雅仁氏著

参考資料

1.満蒙開拓のミニ知識 (満蒙開拓平和記念館HPより)
2.終戦前後の満州における悲劇
3.第一部 敗戦 満蒙開拓団の壊滅1

後記

1945年8月15日(終戦)を境として、日本国内では空襲や焼夷弾による身の危険にさらされることはなくなった日の始まりであります。
しかし、大陸へ渡った満蒙開拓団の方々は、8月9日にソ連が満州の国境を越えてきた日から、想像を絶するような悲劇が起こり始めていたことを赤崎さんの資料は教えてくれます。

この資料を書き記す過程で、また多くの惨劇があった事実を知りました。

満州で、終戦後もこのような多くの人が死ななければならなかった戦争の目的とは、
一体、何なのでしょうか?
未来に戦争が起こってしまう時、私たちはこの過去から学び、惨劇を避けることができるのでしょうか?

過去の悲劇を知るほどに、答えは出ず、問い続ける迷路に入っていきます。文責:山下春美

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