先日、27日(月)鹿児島駅空襲の日の朝、鹿児島駅一番ホームの一番北側にある慰霊碑にお花を供えに行ってきました。(お花は、毎年吉田葬祭さんより寄贈)
毎年、この日は午前中に「戦争を語り継ぐ集い」を開催し、爆撃のあった時間ちょうど位に、参加者全員で慰霊碑にお参りに行く、ということを恒例にしていたのですが、自分中心の生活を送っている私は、今年はとうとう鹿児島駅空襲の日を忘れてしまっていたのです。このようにして、風化していくことを自分の中に見たことでした。
これまでは、朝早く縁ある方が来られ、慰霊碑にお花が添えられていることもありましたが、ここ数年はそのようなこともなくなっていました。
鹿児島市の空襲等の概況について
しかし、次の日にお供えした花を夕方取りに行った時、(暑さで花がすぐに枯れてしまうので、28日に撤去しに行きました。)お花が一輪、供えてありました。
鹿児島駅の駅員さんに、どなたか来られたのか聞きしましたが、「わかりません。」とのことで、81年経った今、どなたが来られたのか、知りたかったです。
昨年(2025年7月27日)、鹿児島駅空襲の日に開催した『「鹿児島駅空襲体験を知る・感じる・悼む」散策巡り』に参加したMさんという女性から、翌月の8月(2025年8月)にお手紙を頂きました。
一年経ってはおりますが、ブログへの掲載の許可を頂いておりましたので、81年前の7月27日に起こった空襲を、今の私たちの記憶に留めおく手だてとして、「鹿児島駅空襲の体験」を語り聞いたお手紙を掲載させていただきます。
Mさんが聞いた鹿児島駅空襲と戦争のお話
昭和20年7月27日、鹿児島駅前の料亭もしくは、旅館の宴会場で、親戚20名数名ほどが集まり、お祝い事が開かれていたそうです。
丁度、お昼の食事の最中、突如として、米軍の不意打ちとも言える空襲が始まり、皆が一斉に逃げ惑う中、そのうちの12名が犠牲となってしまいました。
当時、5歳だった叔母の紀代子さんは、爆撃の風で一瞬にして、体が吹き飛び、一緒に板祖母は、半狂乱になりながら、「きよこちゃん、きよこちゃん」と泣き叫んで探し回りましたが、必死の捜索を幾度続けても、結局行方はわからないままでした。
私の母は、機銃掃射の弾が、右太ももをかすめ、ただれて患部にはウジがわき、今でも生々しい傷跡がはっきりと残っています。
もし、あと数ミリずれていたら、足は切断しなければならなかったそうです。
上町の清水町で暮らしていた母達は、空襲警報の度、防空壕へ飛び込む生活を続け、時には、若宮神社まで逃げていたとのことです。
祖父のお姉さんは、はだしで逃げる途中、大きな釘を踏んでしまい、破傷風で命を落としました。祖母のお兄さんは、シベリアに抑留され、帰らぬ人となりました。
祖父の甚吉おじいちゃんは、大戦中、インドネシアのジャカルタへ出兵していました。可愛い3人の娘たちの写真を肌身離さず、大事に持っていて、現地の人たちに見せていたそうです。
特に末っ子の紀代子叔母さんの顔を指さして、「この人はお人形さんですか?」と尋ねられるくらい、目鼻立ちの整ったきれいな女の子で、自慢の娘だったようです。
その子を7月27日、一瞬にして目の前で失い、祖母は「戦地にいるお父さんに申し訳が立たない」と泣き崩れました。
祖父は、「もう二度と故郷、鹿児島の土を踏むことはないであろう」という覚悟で激戦地に赴きましたが、幸いにして無地に帰還を果たすことができました。
しかしながら、市街地は、焼野原と化し、大切な我が子や親族を失い、苦難の道を歩むこととなったのは、言うまでもありません。
戦後、普段は気丈に振る舞っていても、晩酌後は、さめざめと泣いて、偲んでいたそうです。
祖父と祖母と母達はそれぞれ様々な悲しみを抱えながら生きてきたのだろうなぁ、と思います。鹿児島駅周辺もきれいに整備され、駅舎も立派に建ち替わり、この地でそんな悲劇が起こったなどとは、想像もつかず、隔世の感があります。
それだけに、鹿児島駅ホームの慰霊碑へのお参りを参加者の皆さんと一緒に行えたことは、とてもありがたく感激でした。
犠牲になられた駅員さんとは、縁もゆかりもございませんが、毎年手を合わせに来ております。
その後は、お花や飲み物、型菓子などを購入し手から、坂元にあるお墓参りに向かい、参拝を済ませ、この日の出来事も報告してきました。
今年は、戦後80年、まもなく終戦記念日もやってきますが、これからも微力ながら、平和への祈りを続けてゆきたいと思います。
令和7年8月5日(火)



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