ー歴史の中で人々はどう生きたのだろうかーを副題に、石碑や郷土史の記録から、明治以降の歴史を、大隅・垂水史談会の会長、瀬角龍平さんを講師にお招きして学んでいます。
今回は、産業面から見た鹿児島の近現代史です。産馬、樟脳の生産、発展は、人々の生活を支え、明治以降の殖産興業の役目を果たしていったようです。お話の要点をまとめてみました。
産業 産馬と樟脳
①大隅地域の前田用水(前田正名/正治/雅永、表記揺れあり)と垂水との関係についての話、
②明治期~大正期における馬政(種馬導入・種馬場運用)と樟脳産業(台湾との関係を含む)の話。
前田用水・前田正治(大隅・垂水)
- 地域・時期
- 根占(横別府)一帯で明治34年(1902年)に前田用水が竣工
- 竣工式は1902年4月12日、現在も用水は利用継続
- 事業概要・背景
- 大嶽の浦からの取水で根占側へ通水、地域の長年の渇水問題を改善
- 費用は「用水路に一円札を敷き詰めたほど」と語り継がれる規模感
- 史料・遺物
- 記念碑3基(疏水記念碑、建設経緯碑、前田正治顕彰)と拓本の保存
- 竣工式招待状(「米常村横辺々 一歩園事務所 前田正名」名義、持参者へ粗品進呈の注記)
- 前田からの書簡(例:塩漬け猪肉の礼状など、黎明館で判読)
- 掛軸・和歌の寄贈(川井田家・川端家所蔵の試筆・賛歌が残存)
- 関係者・ネットワーク
- 垂水の豪商(川井田家、川端家)から資金的支援
- 垂水の商店街と前田の交流は、共進会・品評会を通じて拡大
- 前田の方針は「官営大型事業一辺倒」ではなく「地域が名産を育てる」志向
- 研究状況・課題
- 光山の開拓・石碑は未読解で未収録
- 前田人名の表記揺れ(正名/正治/雅永、一歩園/一歩兵)整理が未了
- 垂水側の資金・人的ネットワークの史料裏付け拡充が必要
馬政・種馬場(大隅)
- 方針と目的
- 在来馬(体高130~140cm)を洋種と交配し体高・体力を増強、軍用・生産力向上を図る国家方針
- 年表ハイライト(抜粋)
- 1872年:北海道開拓使が米国産種馬導入開始
- 1874年:陸軍省がアラビア・英国系種馬導入
- 1877年:米国から牝牡23頭導入、配合開始(西南戦争期)
- 1883年:ハンガリーから種牡馬32頭を輸入し各府県へ配分
- 1894年:日清戦争、馬匹調査会設置(改良・奨励方針策定)
- 1896年:九州に種馬牧場を設置し、各県に種馬所を展開した。
- 1897年:陸軍が「馬匹調発事務規則」を発布し、それ以降毎年外国種の馬を導入した。
- 1900年:馬匹禁止令(良馬の海外流出防止)
- 1901年:馬匹去勢法施行、1904年に実施奨励(徹底化)
- 1906年:馬政局設置(局長は陸軍中将が慣例)
- 1907年:鹿児島種馬場設置、同年ベークライト発明(材料革新)
- 1908年:T型フォード発表(戦場の機動化の潮流)
- 1918年:第一次世界大戦終結、以後軍縮へ
- 大隅での配置・名馬・施設
- 柏木号(南部産、体高約165cm)、第7アララギ号(茂木)、轟号(鹿屋)、若葉号(松山町)、第三アルビオン号(末吉)などの配置・種付実績
- 志布志・森山に県営種馬場(牝馬を集約し種付→返す運用)、金谷に競馬場・競市・屠殺場の痕跡(昭和30年代まで機能)
- 制度・運用知見
- 国購入の種牡馬を各県へ貸付し、地域牝馬に種付して改良
- 競馬用途以外は牡馬去勢が主流化、在来牡馬は縮小
- 種付前に卵を飲ませるなどの現場の工夫・栄養付与の慣行
- 社会・文化的側面・逸話
- 女性が馬の世話・牽引を担った記録(明治期までの継続)
- 馬神(石礼)の札、石碑群(例:県営種馬場記念碑、名馬碑)
- 高崎正風と大隅産馬の逸話(殿様馬と競馬、詠歌の伝承)

樟脳産業(台湾・大隅)
- 用途と医療史
- 防虫・防腐、花火点火、外用薬(鎮痛・消炎・清涼)、セルロイド可塑剤
- 歴史的に「カンフル剤」として注射的に用いられたが現在は代替薬に置換
- 製造技術・工程(口述証言と図解ベース)
- クスノキの幹・根をチップ化→大型せいろで蒸留→竹筒・水冷槽3段で樟脳結晶と樟脳油を回収(焼酎蒸留と同原理)
- 現場体制は6人体制(掘り出し2、搬出2、製造2)+夜間の火番、17~30日で満樽
- 樽の隙間を粘土で密閉、根材優先で効率化した工夫事例
- 史的展開と事件
- 日清戦争後の台湾割譲でプランテーション化、日本は世界最大級の生産国に
- 1906年イリ(ウイリ)事件:樟脳現場の賃金トラブルを契機に日本人25名殺害(山田海三含む、タロコ族との衝突)
- 駒木少平:田代村長を経て台湾総督府の要請で樟脳事業に従事(約2年で帰郷)
- 1920年代:化学合成樟脳・プラスチック台頭で需要減
- 専売は1902年に開始し1962年に廃止。大隅では昭和36年頃が実質的終期(村山鉄郎氏の証言、太平洋側からの樟脳・油輸送の逸話)
- 牧と馬文化(鹿児島)
- 放牧と年中行事:
- 昔は自然放牧し、年1回(主に6月)に「オロ」と呼ぶ囲いへ太鼓などで追い込み、二歳馬を選別・引き抜く実践があった(危険を伴うことも)。
- 子どもの行事との関係として、垂水川の「オロ米」など、馬の追い込みと二歳馬の選抜を人間の遊戯へと置換した風習が語られた。
- 主な地点と痕跡:
- 吉野・村岡(村岡ニュータウン周辺)に牧跡が残存。寺山ふるさと公園には馬の石像があり、放牧地の名残が公園化。
- 「切れ」の市施設周辺にも関連史跡があり、かつて競馬が行われていたと伝わる。
- 福山牧・吉野牧は大型の自然繁殖牧として機能。
- 宿駅・物流と馬:
- 南薩から物資を運ぶ宿駅制度では役馬の常置が義務で、「仲馬」などの仕組みがあった。
- 馬耕は牛耕より効率的で、地域各所に馬頭観音が建つ背景となった。
- 戦時の馬供出:
- 若者の赤紙同様、馬にも「青紙」による徴発があり、家族同然の馬の供出は戦後も語り継がれる深い痛みとして共有された。
- 放牧と年中行事:
- 馬頭観音と語の整理・事例
- 表記と誤読:
- 馬頭観音は「馬の頭」。福山にある島津忠正の墓所では「島津馬頭」を「馬の髪」と誤解する伝承例がある。
- スポット情報:
- 池田湖の崖の馬頭観音、臼杵の神社境内の碑、吉野・村岡周辺の碑・観音像などが挙がった。
- 文化的背景:
- 役馬の安全や供養、交通・農耕を支えた馬への感謝として信仰が広がった。
- 馬喰(ばくろう)/馬賊の説明:
- 家畜商としての馬喰の実態に触れ、宮本常一『土佐源氏』に見られる周縁の生業・逸話が紹介された。
- 表記と誤読:
- 樟脳(商脳)の歴史と薩摩の関与
- 基本事実と再発見:
- 樟脳は1962年(昭和37年)まで専売。台湾が主産地だが鹿児島の関与が大きく、参加者の中には専売制を今回初めて認識したとの声。
- 美山(宮窯)と製法:
- 鹿児島での樟脳製造発祥地として大きな石碑がある。現在は陳寿官氏が製造を再開しており、従来の薫蒸法とは異なる付着法を採用。
- 冷水の縦窯跡付近に樟脳関連地が多く、薩摩焼との地理的近接性が指摘された。
- 関連地と政策:
- 坊津の工場跡の存在が共有。薩摩藩は各地で樟脳生産を奨励(例: 加茂町など)。
- 調所広郷(図書昌左衛門)期の財政再建と樟脳の収入との具体的な接点は未調査で、今後の検証課題。
- 基本事実と再発見:

樟脳の作り方
- 石碑・拓本アーカイブと文化財保全
- 目的と必要性:
- 墓じまい・撤去・自然劣化により石碑情報が消える前に記録化する。拓本は写真や目視で読めない文字を可視化し、歴史叙述の精度を高める。
- 手法(実務フロー):
- 石面清掃→障子紙を当て霧吹きで密着→タオルで圧着→遊墨を含ませたタンポで叩打し陰陽を出す(彫部は白、平面は黒)。墨は石面へ浸透しない遊墨を使用。
- 誤伝の是正事例:
- 「天皇の馬」伝承や「人柱」看板の記述など、拓本で一次史料を読み直すと齟齬が判明するケースを共有。
- 現状の課題:
- 草刈り機(金属刃)の使用で石碑の要所の文字が損傷する事例(興国寺墓地など)。保全配慮の周知が必要。
- 目的と必要性:
- 参加者の所感・学び
- 地元の生活史が石碑・牧跡・信仰を通じて立体的に見えたとの声。解説のない石碑も、拓本や調査で意味が開かれる実感が共有された。
後日談

参加者のお一人から「近所に馬頭観音の石碑がありました。」と写真が送ってきました。これは、馬の形をした馬頭観音で、私(山下)は、初めて見ました。それ以降、しばらく新聞やあらゆる場面で、「馬」に関連した出来事に遭遇した面白い日々でした。

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