報告①:「知られざる敗戦前後の大地」~今、語らずに死ねるか!~ 5月24日(日)開催 

風化させない記録

5月24日(日)10時20分から正午、鹿児島市「中原別荘 2階大会議室」で開催されました。
主催:鹿児島県日中友好県民の会、戦争を語り継ぐ集い・かごしま

お話は、赤崎雅仁さん 89歳 霧島市在住。

これまで赤崎さんの話は、幾度となく聞いてきました。しかし、毎回会場からの質問で、掘りおこされるように眠っていた記憶が呼びおこされるようにそれまで聞いた事のなかった話が聞けます。今回も、そのような記憶の表出を聞くことができました。

以下、赤崎さんの話言葉をそのまま生かした記録となっています。赤崎さんが、今、目の前で話されているような雰囲気が伝わればいいなぁと思っています。 

※2回にわたって報告します。一回目は、赤崎雅仁さんのお話、 2回目は、参加者からの感想・質疑をまとめたものです。

赤崎雅仁さんの話

私は、昭和11年9月29日、満洲国間島省琿春市新安町まんしゅうこくかんとうしょうこんしゅんしんあんちょう(当時)で生まれました。

終戦となる昭和20年は、妹二人、弟と私と両親合わせて 6人家族で 住んでおりました。 

5月 8日頃だったと思うんですけど、満洲にいた関東軍が、南方戦線の日本軍の補充という名目でみんな南方の方に行ってしまいました。そこで、満洲を守るための兵隊が必要となり、「根こそぎ動員」で30歳を過ぎていた私の父も兵隊にとられてしまいました。

昭和 20年は、小学校3年生になっておりましたけど、もう勉強らしい勉強はしなかったです。ソ満国境に行って、いわゆる戦車を落とすような塹壕掘りというんですかね、対戦車塹壕掘りみたいなことを毎日行っておりました。

10 日ぐらいやったと思います。勉強をした記憶はほとんどありません。

そんなことをしている間に、 8月9日がきました。

ソ連が不可侵条約を破って急に侵攻してきたわけですけれども、ものすごい勢いがあってですね、私たち日本人は1000人以上いたと思うんですけども、全部汽車に乗って、遠く 100 キロぐらい離れている延吉に避難することになりました。

しばらくしたらまた帰ってくるんだから、手荷物ぐらいで乗るんだ、ということで命令があって、みんな身軽でした。

私なんかもう旅行、遠足のような気分で出かけたわけですけども、 着いたらすぐ日本人小学校というのがありまして、ちょうど夏休みでしたから、そこの校舎にみんな収容されました。

 終戦を知ったのは 8月15日なんですけど、その時初めて日本が負けたということが分かったわけです。

それを境に、朝鮮の人がうっぷんを晴らすように略奪が始まりました。

私たちの収容所にも来て、ハサミのような刃物類まで取り上げられたような記憶があります。

日本人にそういう刃物を持たすことは危ないということなんでしょう。

 全部取り上げられました。 そして今度は、夜は夜でソ連兵がやってきて、いわゆる女性狩りですね。 皆さんは、顔に黒い墨を塗ったり、男装のような格好をしたり、しておりました。

終戦になるまでは、校舎に住んでいたんですけども、終戦になった途端に、校舎の下、の地下に住めということになって、やっとかがみながら収容されたわけです。

 だからさすがにソ連の兵隊も中まで入れなかったですね。 背が高いもんですから、そんなこともありました。

 それからしばらくすると、今度はこの間島というところは、日本の兵隊さんが、その時全部捕虜になった人が 100万人は集まっていたという話ですが、食料が極端になくなってきたんですね。

そこで、今度はソ連の人が、現在いる日本人はみんな元のところに帰りなさい、と言われたわけです。

 その時もいろいろありましたけども、うちの母なんか、やっぱり琿春に帰れば自分の家があると。 財産もあるということで、気楽に応じて帰ることになった。
前回避難して来るときは、汽車だったんですけど、今度の帰りはもう汽車とかいうのはありませんから、歩いて帰ることになりました。

現地人の襲撃があるといけないからって言って、昼間は、林の中に隠れて、夜になると歩き出すというような感じで歩きました。

 約 10 日間ぐらいかかったと思うんですが、琿春に帰ってきました。しかし、住んでいた家には、朝鮮の人が住んでおり、住むことが出来ませんでした。日本人が住んでいた家は、全部没収されて、中国人や朝鮮人が住んでおり、もう住めない、そんな状況でした。

今度、そこで収容されたのは、大きな近代的な日本のホテルでした。そこにみんな収容されまして、相当な人がいたと思いますけど、 3畳ぐらいのところに私たち家族 5人で、囲いを作り、住んでいました。

そうすると、うちの母が身重になって、帰ってきて 10月ちょっと過ぎだったと思うんですが、出産しました。しかし、生まれても母乳も出ないし、食べるものもないしということで、 3 日ぐらいで亡くなってしまいました。 名前だけはつけました。

そして、ソ連が町にあるレンガをトラックに積んで、自国に持っていくんですね。その積み込み作業を、日本人の子供やお年寄りがやっておりました。

日本人は、みんな仕事を一様に失って、日本のお金も使えないわけです。

うちの母が何をしていたかというと、子供を兄弟連れて中国人のうちに回って、タバコを売る、という、そんな生活をしておりました。

そして、冬が来るもんですから、今度は中国人のお寺というのがありまして、そこに行きなさいと言われまして、全部が全部そうじゃなかったみたいですけど、私たちはそのお寺のようなところに行って、長屋みたいなのがありまして、そこにずっと並んで寝るというような形式の部屋に住むことになりました。

その翌年にかけて伝染病が流行って、咳とか息切れとか、そんな症状が出て、もう次から次へみんな亡くなっていきました。 

うちの妹 2人も、昭和21年の1月か2月の末頃に、1週間で2人パタパタっと亡くなりました。

どうしようかな、とお墓なんかつくれるわけはありませんから、10キロぐらい離れた辺りに、大きな穴が掘ってありまして、冬ですから、そこには、死体だけ入れて、凍っていました。そこに、亡くなった人を入れるというよりですね、私の感じでは、「投げ込む」ような感じでした。 今考えれば、そんなことでした。

食べるものもあんまりないしですね、中国人の大きな家に行ったら、お焦げがね、あるんです。

おこげを中国人からもらってきて、それをこう砕いて、雑煮っていうんですか、そんなのを食べて生活しておりました。

ちょうど 7月頃になると、今度は八路軍が入ってきたんですね。ソ連と入れ替わって。 そしてどうなるんだろうかと思ってたら、収容所にやってきて、「ミシンを踏める人はいないか?」と、聞いたんです。日本人のうちの母も含めて、おばさんですね、お母さん、若いお母さんたちは、 みんなほとんど。 ミシンが踏めるんですね。

中国、朝鮮人はミシンを使ったことがないから踏めないんですけども。それで、 20組ぐらいだったと思うんですけど、日本人が手を挙げて採用されたんです。

そうしている間に、みんなミシンを踏めるようになってましてね。

そしたら、今度は日本人は用なしなんです。どこへでも行ってくださいと。

日本人は文句ばかり言ってるから、どっか行ってください、と。

ちょうどたまたま隣に、やっぱり 八路軍経営のたばこ工場がありましてね、そこに日本人6組ぐらい移りまして、そこは、割と待遇が良かったです。そこへ来てからしばらくすると、この工場ごと移動するということになり、図們いうところに移りました。

そこは元の市役所の跡にタバコ工場ができていました。日本人はそんなにいないものですから、学校もありませんでした。日本人に何か仕事をさせたほうが悪いことしないんじゃないだろうかということで、いろんな仕事をしました。

ちょうど工場長という人が、そこでは所長って言っていましたけど。その工場長さんが君はうちの総務の小間使いみたいなことできるから、それをせんかと言われまして。

その前はあまり中国語を知らなかったですけども。 そこに行ってからちゃんと覚えていったんです。

そこのタバコ工場には、朝鮮人、中国人、働く人が 100 人近くいたと思うんですが、まあ。 とてもにぎやかでした。食事も八路軍の兵隊と私たちの一般労働者っていうんですね、同じ食堂で食べて、一緒で平等でした。

食べるものがコーリャンです。 もう全くお米なんて見たことないです。

そこでコーリャンを食べたりしておりました。 しばらくすると八路軍が、いわゆる蒋介石の国民党をどんどん西へ西へと追っ払っていって、

いわゆる全国が共産党の支配下に入るわけですけどもね。

その時ちょうどいわゆる中華人民共和国が 10月の1 日に成立をするわけですね。

翌年、今度は朝鮮戦争が始まりましたね、昭和 24年に。それで あの頃、最初は良かったんですけど、あとから米軍が入ってきましたから、 介入してきて、もう一度空襲を受けるんじゃないだろうかということで、軍そのもの工場が今は長春と言ってますが、 戦前、新京ですね。 そこのいわゆる専売公社に大勢を移すことになりまして、またみんなで移動しました。

 現地人の人はほとんど移動しなかった。 私たち日本人はついていくしかないものですから、やっぱり一緒に連れて行かれました。

その頃、だんだんと、中国ではタバコを小学校の子供たちも吸うぐらいですからね、たばこの生産量というのが相当ありました。そのため、二交代ぐらいで仕事しておりました。

私はどこに行くんだろうかと思ったら、やっぱり総務課に配属されまして、いろんなことをしました。

冬は自転車なんですけどね、もう氷が張ってひっくり返ったり、怪我をしたりということがありました。新京中央郵便局というのは、戦前は新京中央郵便局、今、長春ってな

ってましたけどね。 そこに毎日郵便物が私書箱に入るんですね。 それはもう 1 日に相当の数が入ります。

個人個人宛の郵便物まで全部全部入るものですから、取りに行って、帰ってきて、合い間を見て、ガリを切ってくれんかとか、そこから初めてガリなんて切りました。

いろんな小間使いをさせられておりました。 その間に母がちょっと体がおかしいなと思っていたんですけどもいわゆる結核という病気にかかっていることが分かりまして、結局、母は、休職、退職ということになりました。

でも働き手は私一人しかいないわけですから、そのままずっと働いて。 弟は長春市内には日本人がかなりいたみたいで、小学校みたいなのができておりました。

複式学級だったと思うんですけど 5、 6キロ離れていたと思うんですけど、毎日学校に行っておりました。

私は、私の収入で賄わないといけないわけですから、働きました。

だからそこの学校にも行きたかったんですけどもとうとう学校どころじゃなくて、まあ夜間、中国人と交じって、いわゆる夜間学校っていうんですね、中国語で教えられるんですけど、特に数学はわかりませんでした。

そんなふうにしている間に、昭和27年の10月頃、新聞を毎日私が綴る仕事をしておりましたが、

ふっと見たら「日本に帰りたい人がいれば、日赤を通じて帰すから申し出なさい。」というような記事が 10行が 20行ぐらいに出ておりました。

これを見て、これは帰れるんだというふうになりまして。 日本人はたくさんおりましたからね。 私が日本人に告げて歩きました。

 まあ、そんなふうにしておりました。  それから帰る時になって、公安局ですね、日本で言えば警察なんですよね。

そこから手紙が来て、遺骨がある者は、公安局に検査をするから持ってきなさいというお触れが来まして、遺骨なんてなかったんですけど、箱らしきものを持って公安局に行ったんです。

そしたらその公安局の係長が知っとって、「あら、君は日本人だったのか?」「はい、日本人でした。」そしたら「ちょっと言葉がおかしいねと思ってたよ。」って言われました。

そんなこと言って、結局開けなくて、すぐ封印してくれました。 全然検査もなくて、もうこれでいいよって封印をしてくれて、そんな思い出があります。

 それからようやく帰る段になってから、 送別会をしてくれました。幹部職員だったんです。 大きなホールに100人近く集まってくれたんじゃないでしょうか。

みんなで送別会をしてくれまして、所長、副所長という人が 一寸日本語ができる人だったもんですから、とても親切に取り計らってくれて、まあわずかでしたけどね。 慰労金、退職金ももらいました。

それで母が死ぬ前の話なんですけど。 もう何て言うんですかね、結核という病気はもう今なら治るんですけども、当時は薬がないから もうやせ細ってギリギリガリガリのような体になっておりまして。

弟も一緒に助け助け合っていたわけですけどもね。 それと、何て言うんですかね、晩になるとよく涙を流しておりましたね。 寝たきりになってからですけどね。 うちの母がずっと涙を流してるもんだから、何だろうかと思って聞いてみたら。

 母が自分は夢を見ていた。 子供たちが輪になって遊んでいて、母さんを呼んでいるの。洋子、美智子がいたよと。 寂しいよねと言って話しておりました。

アメリカの特効薬だったと思うんですが、 一カ月分給料では、とても高価な薬でしたけどもね。 そんなふうにして逝きました。 最後に遺書みたいな手紙が残っておりました。

【参加者の一人、赤崎さんの友人の女性が手紙を朗読】

行きたがっていた学校にもやれず、本当に苦労をかけてすまなかったね。雅仁さんは働き始めて五年もたつね。雅仁さんたちの成長を楽しみに生きてきましたが、病気には勝つことができません。 不幸ばかり続くことはないでしょう。

大ちゃんと助け合って内地に帰る日まで、どんなに苦しいことがあっても負けてはなりません。 もし母さんの知り合いがいたなら、どんなに内地を恋しがって死んだかお話ししてね。 最後に二人の健康を祈って安心して死ねます。

今、読んでいただきました通りです。

そして 昭和28年の1953年の3月にとうとう日本に帰ることになりまして、泰皇島からです。この頃になると、葫蘆島からではなく、泰皇島しんこうとうからの帰国でした。

日本は、初めてじゃなかったんですけど、初めて見るような日本の港でした。両親がもうすでにいなくなってるもんですから、身元引受人という人がおらず、加治木の叔父で、うちの父の弟に当たるんですけど、そこを頼って帰ってきました。

そしたら、叔父の家に役場から父の戦死公報が届いていました。

昭和21年に北朝鮮の富寧というところなんですけども、そこの収容所で戦病死とありました。 もう食べ物がなかったというお話でした。

その時、私は16歳になっておりましたが、学校のことがありまして、加治木中学校に 4つ年上の差で入学。昭和31年に無事卒業させていただきました。

そして、昭和34年の4月に加治木郵便局に採用され、国分に移り、平成7年に一応退職しました。

 それから自治会の役員、それから民生委員九年、それと退職者会の事務局の仕事もしました。

 その間、平成二年にどうしても中国に行きたいということで、 1991年ですけれども、行きました。 その頃なかなかまだ難しい頃でした。

 でもやっと許可が出て行ったわけですけども、その時長春を中心に琿春、生まれた故郷まで向こうの人のお世話で行ってきました。

もう見る影もないぐらい街全体が発展しちゃって変わっておりましたけどもね。 もうどこがどうなっているかわからんぐらいわからないような街になっておりました。

 そして長春では母のいわゆる共同墓地だったんですけども、そこに連れて行ってもらったんですけど、そこがもう全部工場のような町になっておりまして、共同墓地というのはどこか移転されてるんだと思いますけども、白木だからもう十年も腐れているんでしょうか、わかりませんが。 それで工場の当時の工場長さんや副工場さんやら皆さんみんな集まっていただきまして、歓迎していただきました。

 そんなふうにしてよかった、よかったです。  まあ戦後考えればいろんなことがありました。 もう楽しいこともあったり、苦労したこともあったり、いろんなことがありまして。 まあ戦争を語る会に参加して、10年近くになるんだろうと思います。

昨年九月には東京の一ツ橋ホールで発表会がありまして、行きました。多くの方がお集まりいただきました。

10月には和光中学校のスマホ対話というのをしました。

11月になって国分の家の近くに西小学校というのがあるんですが、そこで 四十五分間授業から来てください、ということで行きました。

大きな学校ですから、100人近くおられたわけですが、感想文もたくさん寄せられまして。

悲しいことに六年前に妻を亡くして、八十四歳になっていました。

広島にいた弟も亡くなりました。もう最後、私が一人になってしまいました。

最近軍事基地の話も出ましたけど、大島とか久米島とか非常に強化されてきておりますね。 今度鹿屋に今度ミサイルかなんかというのを新聞で読みましたけど、自治体に落とされる大きな資金援助というんですか、やっぱり魅力なんでしょうね。

西之表市10億円ぐらいのお金が入るとか言っていますけど、いざ戦争になれば真っ先に攻撃されるんじゃないかなと思ったりします。

本当に危惧をしております。いつまでも平和であってほしいんです、そう願いたいんです。

私も残された人生をわずかですが、平和を訴え続けて、皆さんと一緒に頑張りたいと思っております。  今日は本当にお忙しい中、色々たくさん集まっていただいてありがとうございました。 一応私の話はこれで終わります。 ありがとうございました。

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