—-質疑応答–
司会者:お父様が動員された時の状況を教えていただいてよろしいですか。
赤崎さん:父はですね、若い青年が出征する時に、近所の人たちが日の丸の旗をもって、万歳、万歳、と送り出すシーンがあると思いますが、父はそんなことはなく、出掛けて行ったと思います。
それである日ですね、休暇をもらったようで、いきなり帰ってきました。
隊長さんが良かった人なんでしょうね。 帰ってきました。
一晩私を他の兄弟がおったんですけども、私だけ抱いてですね。 長男だからしっかりしなさいというような無言の言葉のような抱き方でした。
それ以外抱かれたことはないんですけど、そうして帰ってきました。
それでうちの父、あの軍刀とかね、刀を所持する癖があったみたいで、その時一番いい軍刀だったと思うんですが、弟兄にあげるんだということで持ってきました。
その後、その軍刀はどうなったかわかりませんけども、そんなことがあって、父と生活したというのはほとんど記憶がないんですけれどもね、非常に厳しいというんですかね、私が悪ガキだったんでしょうかね。
地下の部屋とかに閉じ込められて、助けを求めたら母が出てきて助けてくれた記憶がありますけど、非常に厳しかったというのは、まあ鹿児島生まれの人は全部そんぐらいかと思うんですけど、そんな父でした。
だから、わずか生まれてからの記憶はあんまりないんですけど、終戦前の年ですよね。 記憶にあるのは。 まあ幼稚園とかいうとこ行きましたけども、本当に記憶がない。 母はその代わり戦後数年一緒に住んどったわけですから、記憶がたくさんあります。 ここで語れられないくらいの話はたくさんあるわけですけども、まあそんなふうにして母の記憶というのは非常に残っております。 父はもうほとんど記憶がないといえばない。 まあそういうことですね。
司会者:その後、ご自分でお父さんの軍歴というのを調べられて、どこで亡くなられたかを知ったんですか?
赤崎さん:北朝鮮の横を挟んで咸北北道いうんですかね、あの富寧と書くんです。その富寧というところの、そこの収容所、そこにおった人たちの手記なんか見たことがあるんですけど、なんかね、 1週間分ぐらいの食料が出されたんですけど、その 1週間分の食料というのが、1 日分位しかなかったそうです。 だからほとんど餓死じゃなかったかと思うんですけど、栄養失調ですね。 うちの父なんか、とても剣道八段ぐらいの体格しとったわけですけど、死なないと思うんですけど、やっぱりそういうのには負けてるんだよね。 まあ最後見たことないからわかりませんけど、軍歴にはそう書いてあります。 県庁に行って取ったんですけどね。 軍歴証明中の中には、どこどこでソ連と交戦をして、 それを読んでわかったわけですけども、琿春とか。
北朝鮮はソ連に近かったもんですから、ものすごい勢いで入ってきましたね。
ソ連の戦車を見た時びっくりしました。 日本の戦車なんかもう、ほんとおもちゃのような感じですね。ソ連の戦車なんで、日本の3倍ぐらいあるんですよね。
あんな大きな戦車が入ってくるわけです。 もう日本はたまったもんじゃない。
その頃の将校が 3人ぐらい自決しておりますね。 池田という中尉が自決責任を取ったのでしょう。
私たちが基地から琿春に帰る途中に、日本の兵隊さん、いわゆる捕虜ですね、捕虜にあって、反対の方向に向かってみんな行くんですね。私たちと同じこの方向でいいんじゃろうと思ったんですけど、兵隊さんが私たちは先に内地に帰りますからって言って、いわゆる乾パンですね。 金平糖が入っとったような気がする。 金平糖入りの乾パンの袋を子供たちにみんな投げてくれました。
そんな記憶があります。 それでうちの母はですね、もう金平糖どころじゃないんです。 うちの父がどこかに紛れ込んでやしないかと思って、捕虜の仲間に聞いて歩くんですけど、その姿は見られんかったですね。 もう間島に行くんじゃなくて、北朝鮮の方に回されちったんですね。 だから会うことなかったんだと思います。 そんなことがあります。 それまあ、シベリア抑留の話もよく出ますけど、もう大変でしたね。 50万ぐらい捕虜になって、 5万人ぐらい亡くなったんですね。シベリア抑留体験者の浦門さんっていう人がおりまして、その方からよく聞いたことがあります。
司会者:戦争が始まる前と始まった後で、始まる前は普通の生活を暮らしていらっしゃったと思うんですけど、その時はどういうふうな小学生というか、暮らしでいらっしゃいましたか? 中国人の方との関係とか。
赤崎さん:戦前はですね、琿春というところは、何て言うんですかね、軍隊も一番近くいたと思うんですが、交流はありませんでした。 朝鮮人が住んでいる地域と。 いわゆる満州人って言いました。 満人が住んでる地区と三つぐらい分けてあって、学校もそれぞれあったんじゃないかと思います。 私たちが日本人小学校というのがありまして、日本人ばっかり通う学校ですね。 大きな学校でした。以前、行った時に見てきたんですけど、ありました。 街で商売してる人は、朝鮮人の人よりも中国人たちの方が商売してる方が多かったり。 まあ例えば飲食関係ですね。 中国の人はほとんどそういう中国料理店みたいな飲食店、よく父が連れて行ってくれていました。
司会者:塹壕堀りに出かけたとかいうこと言われていましたが、その塹壕堀りとソ連の戦車の大きさの違いをもう一度教えていただいていいですか。
赤崎さん:塹壕はですね、はしごか何か入れて降りていかなければ入らないぐらいの高さでした。 それは今で言うとシャベルですか、あれをバケツに積んで、こう紐で引き上げて、それをですね・・・大人の人たちは一人もおりませんでした。
全部小学生 3年生以上、全部男の子。 中学はなかったです。 3年生から 6年生まで100人くらいおりました。 そんなふうにして掘っていったんですけどね。 ソ連の戦車なら、軽くあの塹壕は、渡ったんじゃないかと思います。あの戦車の大きさから見てですね。日本の戦車もだいぶ途中でやられているのを帰り道は見たんですけどね。 死体もありました。
この戦争証言集(語らずに死ねるか!証言集・下記画像添付)にちょうど同じような状況の人が一人おりまして、読んでみたら同じようなことが書いてありました。 もうあれじゃ勝てると思わんかったそうです。
その人が言ってますけど、私はよくわからないからですね。 負けたんでそういうことになってますけど、そんな塹壕堀りでしたね。
司会者:どこで日本が戦争に負けた、ということを知った知りましたか?
赤崎さん:わかったのはですね、延吉に行ってから、8月6日に行ったんですね。 1週間かかって、延吉に落ち着いて。 ちょうど鹿児島県伊集院の方だったんですが、その人のご主人が警察官だったようです。 終戦の日たまたまうちが行こうかということになって、そこに連れて行かれて、わかったわけです。防空壕から出てきて、負けたという放送があったと。それを聞いて、ああ、その頃携帯なんか無いわけですから分からないんですけど、そんな話を聞いて、まあ驚いたというか、みんな子供ですから、そんな驚くこともなかったんですけど、もう親たちは本当に泣いておりましたね。
もうそれからです。 略奪がすごかったのは。 あらゆるもの全部取り上げられましてね。 あの辺が一番ひどかったんじゃないかと思います。
司会者:朝鮮人や中国人を虐めた日本人の人が戦後銃殺される場所に連れて行かれて、見たことがあると言われていましたが、そのことを教えていただけますか?
赤崎さん:終戦になって、琿春東満ホテルにいた時代でしたけどもね。
9月18日頃だったと思うんですが、いわゆる。 朝鮮人の支配の民兵じゃないですけどね、保安隊みたいなのができまして、それがまあ日本人狩りが始まったんです
というのは、当時の憲兵とか憲兵隊長とか、それと警察ですね。 それと校長先生も入ってたって話ですが、全部捕まえまして、いわゆる人民裁判っていうんですよね。
日本人の市長さんと警察署長とか 3人ぐらいですね。 いわゆる川がありまして、そこで銃殺刑ですか、 それをその子供も含めてですけど、みんな見に行くように言われまして、見たくもないと思ってても、子供だから見たい気もありましてですね、見に行きました。
バンバンという同じような戦争でやられると同じような格好で。 それでその日本人以外のいわゆる戦争中日本に協力していた朝鮮人、中国人って言っております。 朝鮮人が多かったみたいですけど、そういう人たちも全部捕まえてきてですね、人民裁判です。 教室の中で、何て言うんですか、ベルトみたいな暑い紐で裸の人の背中を叩くんですね。
鞭打ちのような。 そんなのをね、毎日やってました。 それも見に行くようにして、こう教室の外から見ておりました。
朝鮮の人は、「アイゴー・アイゴー」と、泣きながら。
銃殺までされたなんて聞いたことないんですけど、そういういわゆる戦争協力者たちがですね、多かったですね。 朝鮮人も多かった。 非常に。 まあまあ、それはその当時としてはしょうがないんでしょうね。 協力するということは、協力しない人もいたんでしょうから。
あの地域はですね、いわゆる難しい話ですけど、金日成が率いるパルチザンっていうんですか、ああいう人たちが一緒に住んでたんじゃないですか。それを捕まえるのも仕事で。 時々鉄道の破壊とかもありましてね、うちの家は写真館だったもんだから、父は、軍事用なんでしょうかね、行って、現場の写真を撮って帰ってきたこともあります。 それは覚えています。 そんなのは覚えてますね。 そんな風にして、戦後、戦中、戦前はね、わからなかった。 戦後はもうそういう刺激を受けた記憶がたくさんあります。
司会者:会場からの質問を受けますので、挙手をお願いします。
Q:今おっしゃったその銃殺刑を見に行くようにというのは、どっからの通達ですか?
赤崎さん:どちらの共産党の幹部だと思います。 それは自然的に流れてくるわけですね。 行きなさいというのは。 行くわけですけどね。 まあ共産党の幹部というよりも、今で言えば警察と同じようなもんでしょうね。 行きなさいと。 公安ですね。 行きなさいと、そんな話です。 だから知り合いとそういう話になって行くわけですから、私は全然わからず行ってきたんですけども、そういうことですね。
(参加者の感想)本当に体験者じゃないと、そういうような声を知ることができません。 私はこういう日中友好という会のこういうような活動をされているということを知りませんでした。 新聞で知りまして。今語らずに死ねるかと。 本当にこのエキサイティングな、それこそ目の前にこう襲いかかってくるような。 私は満州といいますと、私は兄弟が 10人もありまして、その中で非常に満州に行っておりまして。 だから満州というと本当にこう、自分は経験はないんですけども、他人事ではないと。 そういうふうに満州というと、それこそ昭和の初期から色々と騒がれておりましたように、満州というところは王道楽土であると、こういうような大きなですね、その標語で、そしていかにして内地から満州にやるか。 日本の昭和恐慌が、しかもその鹿児島県も、特にその農民も苦しいと。 まあ農村の土地が痩せているという、そういうようなことで、南へ南へというような、これが昭和の初期から出てきたようなことで、そういうようなことで波に乗って、私の兄弟も兄貴が二人、姉が二人いました。 そして昭和製鋼所、お聞きになったと思いますけど、昭和製鋼所、鞍山と言ってますかね。 それから満鉄、そういうところにつられたと。 いうことで、昭和の 21年、早々と帰ってきました。 その帰ってくる時に、そういうことを今でもはっきりと覚えておりますけども、大きな子供が入りそうなリュックサックを一つそれを背負って帰ってきました。 そういうようなことを思い出しながら、満州というとですね、私の気持ちの中では、本当に今赤崎さんが言われましたけども、赤崎さんが満州と言った時にどういうような思いをされているか。 私はこれは当てはまるかどうかじゃないですけど、 私は間接的にですね、駆り出されているわけです。 それはですね、国民学校 1年生、昭和16年でしたけど、赤崎さんと 1歳違っているようですけど、さっきお聞きしました。 そういう中で小学校じゃなくて、私から国民学校と。 こういうような名称で入りました。 その時に物もない、食べ物もない。 戦前のことではありますけど、その時に満州の姉や兄貴から送ってもらったランドセル、それから洋服、帽子、編み上げ靴、これをですね、送ってくれたわけですね。 もう内地では何もないわけですから。 ランドセルなど何もないわけです。 そういう中でですね、見た時に、なんと満州というところにはいろんなものがあるんだろうかと。 子供心にですね、はっきりと覚えています。だから恩讐というか、敗戦のですね、この時のまたいろんなその状況、まあソ連軍、こういった連中が家の中に入り込んでくる。 それから女性も本当に大変なことを経験されたということを聞いたりもいたしますけど、そういう中でですね、赤崎さんが言葉で言えばどういう思いだろうかと。
Q:それでは、吉留さんのご質問は、赤崎さんにとって満州とはどういうことを感じられますか?ということでよろしいですか。
満州国自体は私なんか記憶がないんですけどね、戦前はまあ日本人はどっちかと言うと威張っとったですね。 確かにもう物は持ってるし、お金は持ってるしね。 お金はどんどん稼げる時代ですかね。しかし、開拓団の人たちはそうでもなかったみたいですね。 もううちの辺りにも 3ヶ所に開拓団がおりましたけどね。 本当に貧しい生活しとったみたいですね。 うちによく来られましたよ。 なんか余った洋服はないかとか、そんな物をもらいに来るんですね。
Q:自分が生まれたところがここは日本ではなくて、占領している地域なんだっていうことが意識的に知ることになったのはいつですか?
戦前はですね、そんな感じじゃありません。 戦後になって初めて満州の中国の地で負けたんだということは実感したのは当たり前ですね。 戦前は全然そんなありません。 もう戦後ですよ。 惨めに思い出したのは。 もう乞食と同じですから、毎日がですよ。 その日その日に生きていくのが大変だったですね。私はたまたま生き残ったんですけども、みんなゴロゴロ死んでいきましたね。 あの頃ね、私なんかのところで、子供たちは大人も含めて 2000人ぐらい亡くなったという話は聞いておりますよね。
Q:赤崎さんは戦後、中国を訪問されていますが、やっぱり懐かしいなって、やっぱり自分のふるさとだなって感じることってありますか?
まあ懐かしいちゅうのはありますけど、自分のところがどうなってるだろうか、行ってみたいなということもありますね。 それでまあ行って、母かなんか想像もつきませんけどね。 共同墓地がなくなって工場になってるとか、そんなのは中国はいたるところにありますね。 戦後ですよ。 戦前なら残ってるんでしょうけど、戦後はそういう地域でしたからね。 まあ国内発展でああいうふうになってきたんですけど、まあ厳しいですね。
Q:中国語ももちろんこう喋れるようになって、生活されたというふうに聞いたんですけど、今ここで赤崎さんが中国語で当時現地の日本人以外とやりとりした会話を何でもいいですけど、私たちに生の当時の会話の記憶を伝えていただければありがたいなと思います。 よろしくお願いいたします。
非常にありがたい話なんですけどね。 帰ってきてからは良く覚えていたんですけどね。 全部忘れました。 まあ向こうの手紙が来るなら読むことはできますよ。 話すことはできません。 もうすっかり忘れています。 すいません。
聞くのはできるわけですね。
ダメです。半分は。
はい、ありがとうございます。
Q:赤崎さんは中国で共産党のたばこ工場で働いている時に、皆さんからは何て呼ばれていたんですか?日本人だから赤崎と呼ばないんですね。
中国語で、ツーチーと、呼ぶんです。また、年寄りからは、小ハイっていうか、少年ですね。 少年ちょっと来いとかっていうような話ですね。
そんなことして会話は問題なかったんですよ。 うちに帰っても、弟と私の二人は母ちゃんがいても日本語では話さずに、中国語で話しておりましたから、その方が早いんですよ。
(感想と質問)中国と日本ってすごく隣り合わせで大事な国同士だと思いますけど、私の周りの人とか家族の親戚なんかと中国の話が出てくると、あんまりいいことを言う人はいないんですね。 日常に揶揄したりとか、ちょっと軽蔑的な言葉で喋る人がいて、声が大きくてうるさいとかね、そんなレベルの話なんですけど、そういうふうに、あれ怖いとかね、そういうことなんですけど、一方によって、その赤崎さんが満州、東北地方にいて、政府同士は別にして、日本の根っこを持つ赤崎さんに対して、一般の人たちがですね、例えば日本のいろんなことをしてきたことで、怒りとか憎しみとかぶつけられることはあったのかどうかとか。 あるいはむしろ中国政府は悪くても人民は悪くないっていう立場を取ってたっていうことだというふうには聞くんですけど、実際はどうだったのかっていうのも聞かせていただければと思います。
戦後、赤崎さんは中国の方々からいじめられたこと、そういう何かそういうことはありましたかと。自分たちがその戦前、日本がしたことに対して、戦後中国の人たちからいじめられたり、何かこう。
赤崎さん)直接直接いじめられたという記憶はありませんね。
Q:でも小鬼って小さい鬼って呼ばれたことがあるんですよね?
戦後ですね。 中国の人が日本人に向かって、戦前の日本人は大日本人って言いましたね。ダーイルベレンって言ったんですけども、戦後は小さい字がつくようになりまして、小さな日本人ということですかね。そしたら、負けたら、鬼の子、と言うんですね。 クイズ、クイズって中国で言えばクイズなんですけど、子供たちは小がつくんです。 小クイズ(小鬼子)言われ、それは一時言われたことありますよ。 終戦直後の話ですけど、それ以降はあんまりそういう差別的なことはあんまり、いわゆる共産党が実際に支配するようになってからはあんまり聞かなかったですね。
私なんかも大切にしてもらったほうだと思います。平等に扱ってくれて、不安になったことはありません。 終戦後、すぐ大日本が小日本になったわけですから。 そして小日本ならまだいいですけど、鬼の子になったわけですからね。 だから文化大革命の時には私は全然遭遇してないんですが、あの頃日本人だった子供たちがいじめられてますよね。 よく好きな書見ますけども、あの頃生きてれば、もしひょっとしたらもうやられてるかもしれないんですけどね。 そういう境遇に遭わなかっただけで。
司会者)個人的に赤崎さんとしてはいじめられたことはないということで。で、赤崎さんも小さな共産党の軍服というのを着て街を歩いた時はとても誇らしかったというようなことを聞いたんですけど。
それはですね、図們では私も一応は工場の労働者ですから、八路軍の軍服ですね。 これを着せられて歩きました。 ちょうど子供に、私の体に合うように作ってくれてありました。 それは一般の人は違ったんですけどね。 私たち日本人の留用者の子供たちはね、みんなそういう待遇を受けました。 大切にしてもらったのではないんでしょうけど、そういうことがありました。 だから街を歩いていても、日本人だということわからなかったんですよね。 多分一般の人は そんな生活でした。 その頃はまあまだ。 その後になると、もう日本人の子とか鬼の子なんていう言葉は使わなかったですね。
司会者)軍服着ていると、周りの人がちょっと一目置く、という印象があった、とお聞きしたことがありますが。
そういうことがあったようですね。 普通に中国のいわゆる昔の服ですね。 あれ着せられましたから。 満服と言ったら、ボタンがこう続いたのがね。 なんていうか、そんな風になる上着ですからね。 まあその辺は一応職員としての、なんていうんですか、待遇、待遇というのか、給料はもらってもらわないかわからんようなですね。 朝鮮に行ってからはっきり分かりました。 お金の給料の差がですね、朝鮮では結構もらいました。 まあ大体家族を養えるぐらいの給料をもらってたわけですからね。 それはそれは良かったですよ。
Q:赤崎さんが小さかったからそうあれだったんですけど、例えばもっと大人の人がですね、例えば人が満州国の中で日本が威張ってたというかですね、そういう人たちに対してはどうだったのかなっていうのも気になって。
司会者:補足)赤崎さん個人にはいじめられることはなかったけれども、周りの日本人の人たちがいじめられている様子とかを見たことはありますか?様子とか雰囲気とか。
もう日本人そのものが少なかったからですね。 良くは覚えてないんですけど、うちに働いている人たちは一応技術者優遇で、文句なくずっと良かったですね。 日本人だからっていうことはなかったみたいですね、ソ連に行かなくて済んだ人たちがね、逃げ隠れして八路軍の方に入っとった人が多かったみたいですね。 戦争が終わったのがわかったのが20 日後だったっていう話も聞きますから、北のところはみんな逃げ回っとったんですね。 そんな人結構いました。 みんな戦前一応技術を持ってて兵隊に取られたりする多いわけですから。 だから徴用されとったみたいですね。
司会者)それでは、赤崎さんの周りでは、そういうふうないじめられているという、大人の人たちも差別的なことを受けたというのはあまり感じられていないということみたいです。
Q*あの貴重なお話をいただきました。 えっと、ちょっと教えてもらいたいのは、あの赤崎さんがちょうど戦後、ソ連が入ってきたり、八路軍が入ってきたり、その前に国民党がおったり、もうごちゃごちゃですよね。 その軍隊のその感覚ですね。八路軍はこういう性格を持ってるとか、ソ連軍はこういう感覚を持ってるとか、そういう感覚的なものはどうですとか。
赤崎さん)うちの、いわゆるその延吉周辺のところは、最初はソ連が入ってきて、 6ヶ月ぐらいで撤退をして、そして八路軍が入ってきて、国民党はね、入る地域じゃなかったんです。 全然。 まあドンパチをしているということは聞いておりましたけどね。 入ってこなかったです。
司会者)ソ連軍が入ってきてソ連軍に対する印象はどうでしたか?
もうソ連軍はですね、あまりよくないですね。 私、子供の心の中で思っています。 今でも思うんですけどね。 もう何て言うんですかね、囚人の兵隊だったと聞きますけどもね。 それはもう大変でしたよ。 特に女の人ね、もう大変でした。 普通に歩いとって悪いことはしないんですけどね。 そういうのだけ一生懸命。 それからあの、いわゆる資源ですね。レンガですよ。 日本陸軍の監視はレンガ造りですからね。 あれを外してソ連に持って帰るんですよ。 その仕事をね、もう子供ながらさせられました。
司会者)八路軍はそんなことなかった。
八路軍に入った時はですね、もう一応安定してるというか、なかったですね。ソ連はもう全部持って帰ってましたから。 その作業した下の残りをうちの母たちが貨車に積むわけですよ。 それはもう毎日のように行きよります。 私たちは子供はレンガを削り、あれ簡単に削れるんですね。 レンガは。 正面でこう立って積んでるわけですから、それを積んでね、持っていかないと。 それを毎日でした。
司会者)国民党の印象はありますか?
国民党は、全然知らないですよ。後から聞いた話ですけどね。国民党も快進撃をして、だいぶ詰め込んできたんですけど、うちのところは全然見てないですね。
感想と質問)今日はありがとうございました。 私、祖父が戦死をしていて、中国大陸にも行っています。 沖縄に送られる時に、あの豊間丸という船で、あの漂流してしまって、戦死をしました。 6月の 29日がその亡くなった日なんですが、祖父は知りません。 ですが、やはりあの中国に行って何をしたのか。 私は教職員を 定年退職して今学校で支援をしているんですけれども、あの子供たちに戦争のことを語ることが、学校の中でなんかスムーズにできなかった。 私自身がなんかとらわれていました。 今とてもなんか厳しい時代になってきていて、政府の方はその戦争をなんか、いかにも進めていくような政策になってきているけれども、私たち市民はそれを止めることができないというか、おかしいと思いながら、また同じことを繰り返すんだろうかというような思いになります。 で、学校の中でやっぱりそういうことに何かこう制限があるような、子供たちに話すことは、このなんか沖縄の船の事故なんかのことも環境と国のこと、なんか学校の方針であったりとか、結局いろんなことが起こった時に色がついているというか、なんかそんな風にとらわれているんですけども、結局私自身が本当に戦争が起これば人を殺さなければならない、もちろん殺されて、本当に苦しい思いをさせて、私の母などは小さくてあまり記憶小さかったんですけれども、やはり今同じことを繰り返したらいけないよねって話をするけど、あまりピンとこない部分もあって、苦労したことは覚えているけれども、日本がしたことに対する反省っていうのは、やはり本当に反省してきて、私自身が本当に今自分に子供たちに教えていく立場でありながらできていなかったのじゃないのかって、そういうのをすごく思うので、赤崎さん、本当に苦しい思いをなされてきていると思うので、今私たちにできることはどんなことだと思う? 同じことを繰り返さないためには、どんなことをしていけばいいのか。 反対運動を起こしても、なんかそのなんかこう、そこが止まっている中、市民がどう動くのかっていうところをどう考えるか、ちょっとお話を聞けたらいいなと思ってきました。 よろしくお願いいたします。
司会者)赤崎さんから今私たちに対して本当にどうしていけばいいかなっていうふうなアドバイスをいただけないでしょうか。とか、ご意見というか。
赤崎さん)それはちょっと難しいですね。 まあ現在、何て言うんですか、平和教育というのが実際に学校で行われていないんじゃないかと思いますね。 それが痛いんじゃないかと。 長崎辺りはやっぱりやってるようなふうですね。 平和教育っていうのは差が出てきたのかなと思って。 やっぱり世間全体がもう何て言うんですか、反中国みたいなことになってしまって、習近平氏が悪いとか、まあ私もそれ出てあんま好きじゃないんですけどもね。 当時の中国の指導者というのは立派でしたよね。 毛沢東があんなに悪いことしたっていうけど、あの人でなければ中国はなかったという話ですから。 まあよかったですね。 まあ本当、平和教育というのは大事だなあと思って。 そんな時間が今あるんだろうかなと思ったり。 それが一番心配ですね。 子供たちは知らないことが多すぎるんですね。 テレビなんかで悪いことばっかり見て、テレビを見ているわけですから、そんなことどうなのかなと思ったり、そんな心配してはいますが。
Q:司会者が先ほど聞かれた満州にその後行かれたということについてですね。 やっぱりそこで満州で日本がどんなことをしたのかということを含めて、知ったのはいつごろかという質問があったと思うんですよ。 そこのところをもう少し聞かせてほしいのは、実は台湾の方も朝鮮の人も、あの敗戦のあの 8月15日を境にガラッと変わるわけです。 お互いの立場が。 で、先ほど出たあのシベリア抑留とも絡むんですけれども、私たちの地域におられる方のシベリア抑留体験が、まさに赤崎さんのその列車がどっちに向かっていくかという場面と重なって聞いてるんです。 つまり、日本に帰れると言われて汽車に乗せられたのが、なんか南に行くんじゃなくて北に行った。 そしてシベリアで苦労した話を聞かせていただいてるんですけれども、そういう戦争の前と後のあそこで国が変わって、そして今まで満州開拓に行った人たちも逃げ惑う。 そして戦争が終わってみたら、今度は日本人が責められる。 そういう状況が戦争なんですね、やっぱり。 そのところを赤崎さんがいつ気づかれたのかという司会者の質問を私は興味深く待ってたわけですが、いかがでしょうか。 満州にも一度行かれた時に、周りの人々がどんな目で自分を見るだろうかと。
赤崎さん)どうなんですかね。 まあ、日本人は日本人だけの社会で暮らしていたわけですからね。 そういう中国とか朝鮮とかっていう人たちの交わる機会といいますか、あまりありません。 でも、うちの使用人はですね、全部朝鮮人でした。 うちで働いている人は。
Q;赤崎さん自身が、満州で日本人がそういう所業をしていた、残虐なというか、虐げていた、差別的なことをしていたことをしていたんだということを知ったのはいつですか。
赤崎さん)それはですね。終戦後の話です。
Q:終戦後のいつ頃ですか?
もう終戦になって。 そうですね、仕事を始めた頃ですね。 それでよくですね、内話でなんですけども、朝鮮の人といわゆる中国人ですね、喧嘩する場面がよくありまして、私も中国語を聞いていたらこんなことを言い合っているんですね。
朝鮮は日本の支配になって 四十何年ですか、あの条約で行けば確か四十何年ですよね。 満州はたった十四年間だって。 その中国の人は威張ってるんですよ。 それ本当に聞いたことあるんです。 中国語でしたけどね。 それでまあお前たちは四十何年も日本の支配下にあったんだけど、俺たちはたった十四年だったって、そんな話を聞いたことがあります。 まあそのぐらいでしょうかね。
司会者)それではそろそろ時間ですので、皆さんのお手元にシンガーソングライター小椋佳さんの「返りみれば」という歌詞があると思うのですが、これは赤崎さんがご自分の人生はこういうもんだということで、ちょうどラジオで聞かれた小椋佳さんの歌詞を今日皆様にお渡しをさせていただきました。この歌詞こそが今の気持ちが込められているそうです。
ありがとうございました。赤崎さんが家族を亡くされて、本当に孤児として引き取られて、本当に辛い思いをされたんだなということを改めて知ることになりました。 赤崎さんのさっきの資料の説明があったんですけども、赤崎さんの言葉の中にですね、こういうこともありましたの。 戦争は絶対にあってはならないし、日本は加害者であったということも忘れてはならないということも資料の中に書いてございます。 そういう意味で、私たちは単に日本は被害者というだけではなくて、加害者であったということも忘れてはならないというふうに思います。 また、今、最近、首相の台湾有事の発言によりまして、中国と緊迫もしておりますけれども、台湾有事にならないように知恵を出し合っていく。 そして平和をしっかり守って、私たちは中国との友好も深めていきたいと思って活動しております。 国と国ではうまく行かないことはありますけども、それぞれの中国の民間の方とは、やはりここにお集まりの皆さんと同じように、心のつながる温かい心を持った中国がたくさんいらっしゃいます。 その方たちと一緒に交流を深めていきたいなと思っております。 本日はこちらに約八十名ほどお集まりいただいております。 本当にお忙しい中足を運んでいただきまして、このトークショーに参加していただき、本当にありがとうございました。 本当に雨のことも心配しておりましたが、無事に開催できて本当に喜んでおります。 なお、こちらの準備局のちょっとミスがありまして、若干今先ほど歌の資料の説明がありましたけど、お手元に資料がない方もいらっしゃったのではないかなと思っております。 若干資料が足りませんで、ご迷惑をおかけしましたことをお詫び申し上げます。 この後、交通安全に気をつけてお帰りいただけると思います。 本日は本当にありがとうございました。
ありがとうございました。



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