「100年前のシベリアからの救出劇ー765人のポーランド孤児と日本人物語ー」

ロシア・ウクライナ情勢に寄せて

5月16日(土)に「ウクライナ難民JOYキャンプ」参加報告を大下郁子さんがしてくださいました。
このJOYキャンプは、ウクライナ隣国のポーランドに逃れてきている難民の子供たちと過ごした日々でした。

私には戦争を止める力もありませんが、せめて戦争で被害をうけた人や子供たちを助けることはできるのではないだろうかと考えます。そのため、日本もパレスチナやウクライナの戦争で被害を受けた人々を積極的に受け入れていいと思っています。

なぜなら、かつて日本はそのような前例をもっているからです。
その話を、瀬下三留さんが紹介してくださいます。

「100年前のシベリアからの救出劇ー765人のポーランド孤児と日本人物語ー」      瀬下 三留

洋の東西を問わず、信念のある女性はいつの時代でも輝いている。

看護師がまだ看護婦と呼ばれていた頃、身を尽くしてポーランドの子どもたちに接した若い日本人女性がいた。
当時20歳の松澤フミである。

大正9年6月、日本外務省にウラジオストク在住のポーランド人女性から「せめてシベリアで孤児になっている子どもだけでも日本に助けてもらえないか?」と訴えてきた。

なぜシベリアにポーランド人がいたか、というとロシアに従属することを強いられたポーランド人の中には、そのことを拒否した人々がおり、ロシアは反抗的なポーランド人を流刑に処した、その場所がシベリアだった。

ロシア革命が起こると、ソビエト赤軍と白軍がシベリア各地でも戦い、ポーランド人も巻き込まれていた。
大半のポーランド人が難民となって脱出のための鉄道も燃料不足で立ち往生、600人のポーランド婦女子が凍死するという事件もあった。

このような惨状をウクライナ在住のポーランド人が「ポーランド救済委員会」を設立し、ロシア帝国時代に権益を持っていた米英仏伊に救済を働きかけたが、欧米が支援していたソビエト白軍が劣勢になると、欧米各国はシベリアから兵を撤兵し始め、救済の頼みも聞いてもらえない状況となった。

そこで冒頭の日本外務省への救済依頼となった。
救済委員会のアンナ・ビェルケヴィチ女史は日本外務省に救済を依頼する事になった。

要請を受けた日本政府は日本赤十字社に孤児救済事業を託した。
アンナ女史が来日して17日目に日本による救済が決定した。

孤児救済作戦

大正9年7月22日
痩せ細った青白い顔の16歳から4歳までの孤児たちがウラジオストクから敦賀港に合計375人と付添い者65人が日本に到着。

しかし、シベリアにはまだまだ孤児たちが取り残されていた。
日本もシベリア撤兵が決まる中、特に救助を要する孤児たち390人を保護した。

孤児たちを迎えて

新聞記者たちも孤児たちのもとへ取材に訪れて、さまざまな質問をした中で「パパやママは?」の質問に子どもたちがはらはらと涙する表情に記者たちも「いい記事書こうよ、この子たちの事を世界中が知ってくれるようないい記事を」と報道のあるべき姿を貫いた。

規則正しい生活

まず孤児たちは大半が栄養失調で皮膚病、百日ぜきなどに罹っていたが日々の生活を規則正しいものにした中で、子どもたちは徐々に健康を取り戻していった。

大正10年4月、腸チフスが大流行し孤児たちも22人が罹患した。
医者も看護婦も昼夜の別なく付きっきりで看護した。

その思いは「人は誰でも自分の子どもや兄姉が病に倒れたら自分の身を犠牲にしてでも助けようとするものです。
でもこの子たちには両親も兄弟姉妹もいないのです。
誰かがその代わりをしてあげないと、助けられません。
それならば、私が姉の代わりになりましょう」
そういった看護婦のひとりが”松澤フミ”だった。日本赤十字社WEBミュージアム松澤フミ

惻隠の情(そくいんのじょう)

看護にあたっていた松澤フミは、腸チフスに罹った子どもの側を片時も離れなかった。
当時、腸チフスは完治が難しいと言われていて「この子はもう助からない、それならせめて私の腕の中で死なせてあげたい」と献身的に看護を続けた結果、その子どもは奇跡的に回復した。
この献身的な看病がもとで、松澤フミは自分が腸チフスに感染し、その後亡くなった。

また別の女の子は、
「酷い皮膚病に罹っていた私は、全身に薬を塗られミイラのように白い布に包まれて看護婦さんにベッドに運ばれました。その看護婦さんは、私をベッドに寝かせると布から出ている私の鼻にキスして微笑んでくれました。私はこのキスで生きる勇気を貰い、知らず知らずのうちに泣き出していました。」

驚くべきことに松澤フミの献身的な看病のおかげで重体の子どもは奇跡的に一命を取り留めた。

しかし、松澤フミは腸チフスに罹ってしまい天に召されてしまった。
フミの死を知った孤児たちは最も悲しみ、彼女の死を悼み涙に暮れたという。

松澤フミの23年の生涯は世界に愛を伝えることがの大切さを残していった。

1921年、松澤フミの功績が讃えられポーランド政府から赤十字賞、1929年名誉賞を授与された。

まとめ

この史実を紐解く時、日本政府や外務省も人道主義に時間をかけずに動いている。
また報道記事も社会の木鐸たる気質が表れていて本来の報道の姿が見て取れる。

それはオスカーワイルドの「幸福な王子」にも表れている。
「他者のために自分をどこまで捧げられるか」
「美しい利他の行為は、当事者や協力者への大きな犠牲を伴う」という現実がある。

功利主義が幅をきかせる昨今、松澤フミの功利によらない”自己犠牲”は美しく輝いているものである。

今はこういう「惻隠の情」が失われているのではないだろうか?

参照:シベリアからの子供たち

参考文献

和楽 辻明人

「Onet」日本語訳

致知出版社

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