「第一回 身近な資料で考える近現代史」ー歴史の中で人々はどう生きたのだろうかー2月21日(土)

2026年

 第一回目の「近現代史学習会」を開催しました。18名の参加者があり、学習会終了後の茶話会では、それぞれの近現代史に関する見識や質問などがざっくばらんに飛び交い、面白い時間でした。
 本ブログは、参加者のお一人で、講師の瀬角龍平さんの古い友人の今村久雄さんが、講演内容を文字おこししてくださいました。参加できなかった方にも学習内容を伝えられることができ、大変有難いです。
 また、瀬角さんが、最近出版された本「続・石碑が語る大隅の歴史」からも、本ブログには参考引用させていただいております。(サムネイル画像は、その本の表紙です。一冊1000円で販売中です。)

「身近な資料で考える近現代史」    講師:瀬角龍平氏                    文字起こし【今村久雄】

 本日は、幕末から明治初期にかけての約十年間、すなわち1863年から1874年までの動乱期を、地元に残る石碑や墓碑を手がかりにたどってみたいと思います。大きな政治史や思想史を論じるのではなく、一人ひとりの人生がどのように時代の渦に巻き込まれていったのか、その具体像に触れることが目的です。

この時期、日本は大きく揺れ動いていました。攘夷から開国へ、幕府から新政府へ、そして士族中心の社会から近代国家へと急速に転換していきます。その転換の只中にいたのが、名もなき地方の人々でした。

まずとりあげたいのは、1863年の薩英戦争です。この戦争は前年の生麦事件をきっかけに、イギリス艦隊七隻が鹿児島湾に来航し、三日間にわたり交戦したできごとです。

根占に残る砲台跡や墓碑を読むと、17歳で大砲隊として出陣した若者の名が刻まれています。彼はその後、戊辰戦争にも従軍し、さらに西南戦争にも参加します。敗戦後は巡査となり、晩年には戦役五十年祭に招かれたことまで記されています。

一つの墓碑の中に、攘夷・維新・内乱・近代警察制度の成立までが凝縮されているのです。教科書では数行で済むできごとが、個人の人生に落とし込まれると、これほど重い意味を持つのかと驚かされます。

薩英戦争は、薩摩藩にとって決定的な転換点でした。砲撃の衝撃は大きく、三年後には密かに英国へ留学生を送り出します。攘夷から開国へ、方針は大きく転じました。その政策転換の裏側で、若者たちは砲台に立ち、命を懸けていたのです。

次に戊辰戦争です。鳥羽伏見の戦いから始まり、官軍は東海道・東山道・北陸道の三道に分かれて北上しました。地元の墓地には、30歳で新潟・長岡城下の戦いで戦死した人物の墓があります。

墓誌には、京都を発し北越へ転戦した経緯、そして戦死の様子が漢文で刻まれています。さらに印象的なのは、出征に際して家族に宛てた言葉です。「国に報い、家を辱めぬよう尽くす」。この一文から、当時の武士の倫理観が浮かび上がります。

また、その家の使用人も従軍していたことが墓域から分かります。主人が戦死すると、家臣も後を追うように亡くなっている。戦争とは、家単位で引き受けるできごとであったことが見えてきます。

明治維新は「近代国家の誕生」として語られますが、その実態は国内戦争でした。会津、長岡、各地で激戦があり、多くの命が失われました。その痕跡が、遠く離れた大隅半島の墓地にも刻まれているのです。

そして明治七年、佐賀の乱が起こります。中心人物は江藤新平。明治政府の中枢にいた人物が、不平士族の反乱に身を投じました。

背景には、廃藩置県、徴兵令、地租改正など急速な近代化政策があります。さらに征韓論をめぐる対立が政府を分裂させました。帰国した岩倉使節団と留守政府の対立は深まり、西郷隆盛や江藤らは下野します。

地元の墓碑には、この佐賀の乱を鎮圧する側として出動し、佐賀城攻撃の中で戦死した人物の名が残っています。彼はもともと寺に入り修行していましたが、廃仏毀釈で寺を去り、農業に励み、のち鎮台兵に応募しました。そして反乱鎮圧の戦場で命を落とします。

ここにもまた、時代の変化に翻弄された一人の姿があります。寺の僧から農民へ、そして兵士へ。制度の変化が、そのまま個人の人生の転換点になっているのです。

こうして見ていくと、1863年から1874年の十年間は、戦争と制度改革が連続する激動期でした。

薩英戦争、戊辰戦争、佐賀の乱、さらにその先には西南戦争が控えています。

私たちは歴史を「できごと」として学びます。しかし石碑を読むと、そこには「人生」が刻まれています。生年、改名、出征、戦死、昇進、病、そして死。冷たい石に刻まれた文字が、当時の息遣いを伝えてくれます。

大きな歴史の流れの中で、人は無縁ではいられません。命令によって動員され、思想の対立に巻き込まれ、制度の変化に翻弄されます。それでも一人ひとりは、それぞれの覚悟や思いを抱えていました。

墓誌銘の最後には、必ず故人を称える言葉が添えられます。「名を刻み、後世に伝える」と。そこには、せめて名前だけでも永く残したいという願いがあります。

私たちが石碑を読むということは、その願いを受け取ることでもあります。歴史を評価するのではなく、まず知ること。大きな政治史の陰に隠れた、地方の無数の人生に目を向けること。
それが郷土史の役割ではないでしょうか。

幕末維新の動乱は、遠い過去のできごとではありません。石碑は今も静かに立ち続けています。そこに刻まれた文字を読み解くことで、教科書の歴史は、具体的な人間の物語として立ち上がってきます。

本日はその一端として、三つのできごとと三人の足跡をたどりました。歴史の大きな流れの中で、人はどのように関わり、何を思い、どのように生きたのか。そのことを、これからも石碑という身近な資料から探っていきたいと思います。

瀬角龍平氏 プロフィール

鹿児島大学にて東洋史を専攻し、中国史を中心に研究。とくに漢文資料の読解を通じて、東アジアの歴史や思想への理解を深める。日本近現代史や歴史観・国学といった思想史的テーマの専門家ではないが、長年にわたり漢文に親しんできた経験を生かし、地域に残る歴史資料の読み解きにとりくんでいる。

市役所勤務のかたわら、漢文の研鑽を続け、地元に数多く残る石碑や墓碑などの金石文に関心を寄せる。とくに幕末から明治期にかけて建立された漢文碑文を手がかりに、地域の中に息づく歴史や先人たちの思いを掘り起こしてきた。

専門的な大きな歴史理論を語るのではなく、足元にある史料から地域の歴史を見つめ直すことを大切にしている。

薩英戦争(1863年)から佐賀の乱(1874年)まで

池之上清純いけのうえきよずみ之墓 薩英戦争から西南戦争に従軍

墓碑の左面、背面、右面(正面を除いた3面)に、池之上清純氏が薩英戦争・戊辰戦争に従事した後、東京で近衛兵になったことや、西南戦争などに従事し、宮崎の延岡で降伏したことなどが刻まれ、幕末から明治初年にかけての歴史の転換点に立ち会ったことがわかる。また、池之上氏は、西南戦争後は、巡査として勤務、根占の一士族の動向を示す貴重な歴史資料である。

ー南大隅町東漸寺跡墓域ー

石碑の原文

氏ハ弘化四年九月十七日西本玄伯二男二生ル幼名ヲ研蔵ト呼ビ明治五年十月清純卜改名仝十九年池之上ノ家系ヲ継グ 文久三年英艦襲來二際シ大砲隊トシテ小根占濵二出陣ス時二年十七 明治元年八月奥羽追討ノ爲(ため)太守島津忠義公御出馬二付供奉(ぐぶ)仰付(おおせつけ)ラレ鹿屋半隊小根占半隊合シテー隊トナリ仝(どう)二年二月上京近衛兵ニ編入セラル奥羽表(おううおもて)鎮定相(あい)成(なり)島津久光公御下國ニ付警備仰付ラレ、仝年三月帰郷仝五年近衛兵トシテ上京第廿八番小隊二編入セラレ仝六年四月病氣ニ罹(かか)リ帰郷

仝九年二月西郷隆盛設立ノ私學校二入校 同年十二月隆盛上京ニ付隨行仰付ラレ翌十年隆盛ノ軍熊本城攻擊二際シ伍長トナリ仝年一月二日鹿児島發斥候戦ニ從事ス更二横伍(おうご)トナリ兵士廿五名ヲ引率シ敗軍(はいぐん)人吉二引揚ゲ遂二延岡二於テ降服同年八月帰縣

明治十二年四等巡查拝命職務勉励二付縣知事ヨリ賞金五円下(か)賜(し)仝十三年三等巡査二昇進

仝十六年五月眼病ノ為辞職 大正六年藩主島津忠重公鹿児島招魂社二於テ戊辰役戦死者五十年祭御執行二付仝役從軍生存者参拝ノ案内ヲ賜ヒ記念写真帖戊辰役五十年祭典名簿錫盃薩广(すずはいさつま)焼(やき)盃(はい)ノ諸記念品御下賜 大正十二年十一月三十日死去 享年七十八

【現代訳】
池之上清純氏は弘化4年(1847年)9月17日、西本玄伯の次男として生まれました。幼名は研蔵といい、明治5年(1872年)10月に清純と改名しました。明治19年に池之上家の家系を継ぎました。

文久3年(1863年)、イギリス艦隊が襲来した際には、17歳で砲兵隊の一員として小根占浜に出陣しました。明治元年(1868年)8月、奥羽追討(戊辰戦争)のため藩主・島津忠義公が出陣した際には、お供を命じられました。鹿屋半隊と小根占半隊が合流して一隊となり、明治2年(1869年)2月に上京して近衛兵に編入されました。奥羽方面が平定されると、島津久光公の帰国にあたり警備を命じられ、同年3月に帰郷しました。

明治5年には再び近衛兵として上京し、第28番小隊に編入されましたが、翌6年4月に病気にかかり帰郷しました。

明治9年(1876年)2月には、西郷隆盛が設立した私学校に入校。同年12月、西郷の上京に随行し、翌明治10年(1877年)、西郷軍が熊本城を攻撃した際には伍長となりました。同年1月2日、鹿児島を出発して斥候戦せっこうせんに従事。その後、横伍となり兵士25名を率いましたが、敗れて人吉へ退き、最終的に延岡で降伏しました。同年8月に帰県しました。

明治12年に四等巡査を拝命し、職務に励んだ功績により県知事から賞金5円を授与されました。翌13年には三等巡査に昇進しました。

明治16年5月、眼病のため辞職しました。大正6年(1917年)、藩主・島津忠重公が鹿児島招魂社で戊辰戦争戦死者五十年祭を執り行った際、従軍生存者として参拝の案内を受け、記念写真帖、名簿、錫盃、薩摩焼の盃などの記念品を授与されました。

大正12年(1923年)11月30日に死去。享年78歳でした。

宇都宮快明うつのみやかいあき之墓  戊辰戦争従軍

快明氏は高山の儒者、宇都宮正直(東太)氏の子。30歳の時に戊辰戦争に従事し、京都を発して、新潟の長岡城の攻防戦に於て没した。また、家僕の竹之下常吉氏も僕卒として従軍したが、氏の没後、自らも切腹して後を追った。碑文は時の藩校造士館の助教、今藤惟宏の撰である。

ー肝付町丸岡墓地内ー

石碑の原文

君、諱(いなみ)は快(かい)明(あき)、多聞院と称す。

宇都宮氏、隅州高山の人なり。慶応三年丁卯八月、兵役を以て京師に往く。

其の明年春正月、前将軍徳川康喜、大阪に拠り謀叛して兵を遣し京師に入らしむ。我が藩及び諸侯の兵、詔を奉じて諸途を扼し之を撃破す。

慶喜、江戸に東走す。是に於て官軍、大挙して東征す。君も亦、焉(これ)に従い、東海道自(よ)り転じて北越に赴く。

時に慶喜、已(すで)に城を下(くだ)り罪に服す。而(しかれど)も会津等の賊、猶お官軍に抗するの声力、頗(すこぶ)る振るう。

七月、軍、長岡城下に抵(いた)るに、賊、鋭を悉(つく)して来攻す。我軍利あらず。君、殊死に戦い終(つい)に陣歿す。時に八月二日なり。年三十。

遺骸を其の地の慈眼寺に葬る。法謚を進明多聞と日う。

既にして報,国に至る。官、金五十両を賜して以て其の葬祭に資せしむ。乃ち招魂塚を米山寺に立つ。

君の為人(ひととなり)や温和、家に居れば孝友、其の親族に於てや亦た甚だ敦睦たり。祖母及び母、時に家事を憂うること或り。心に欝結すること有れば則ち君、百方慰藉して為に其の事を弁じ、必ず其の喜びを致して後已(や)む。一家咸(みな)其の孝友を称(たた)えたり。

京師を発するや、書を父母に遺して日く、此の行、児、将に努力し以て国に報ずべし。苟も以て身家を辱しむるを免(まぬ)かれず、と。其の意、蓋し永決の意を寓すると云う。

父は東太と日う。母は柏原氏。昆弟四人、一男は寉千代と曰(い)う。年纔(わず)かに六歳。東太君、遠く辞を走らせて余に請うらく、以て其の墓に誌(しる)せと。乃ち状を按じて、此れを書す。繋(むず)ぶに銘を以てす。

銘に日く 生有れば、死有り 或いは短、或いは長 群々逐々 一場の如し 独り忠臣有り 其の名、乃ち彰らかなり 維れ君、抗節たりて 以て勤王に死す 貞石、銘を勒みて 千載に芳を流えん

明治紀元戊辰冬十月下浣、府學助教今藤惟宏撰す。

【現代訳】

君の名は快明(かいあき)、また多聞院と称した。宇都宮氏で、隅州(現在の鹿児島県)高山の出身である。

慶応3年(1867年)8月、兵役のため京都へ赴いた。

その翌年、慶応4年(1868年)正月、前将軍・徳川慶喜が大坂に拠って挙兵し、軍勢を京都に進めた。これに対し、わが藩および諸藩の兵は天皇の命を受けて各地を固め、これを撃ち破った。

慶喜は江戸へ退いた。そこで官軍は大軍をもって東国征討に向かった。君もこれに従い、東海道から北越(現在の新潟方面)へ転戦した。

その頃、慶喜はすでに城を出て恭順していたが、会津などの旧幕府勢力はなお官軍に激しく抵抗していた。

7月、官軍が長岡城下に至ると、敵は精鋭を尽くして攻め寄せた。戦況は官軍に不利であった。君は命をかけて奮戦し、ついに戦死した。慶応4年8月2日、享年30であった。

家僕かぼく 竹之下常吉たけのしたつねきちの碑   戊辰戦争

石碑の原文

竹之下常吉は宇都宮家の家僕として、慶応三年、主人の宇都宮快明が京都の警護に当たるや、これに従って上京した。ついで、翌年の戊辰戦争にも共に付き従ったが、快明は長岡城下の戦いに於て、ついに戦死した。そのため常吉も割腹して快明の後を追った。

【現代訳】

慶応3年(1867年)、主人である宇都宮快明が京都の警護にあたることになったため、常吉もこれに従って京都へ上りました。

翌年の戊辰戦争にも引き続き従軍しましたが、主人の快明は長岡城下の戦いで戦死してしまいました。

それを受けて常吉は、主人の死を悼み、自ら割腹してその後を追いました。

柏木重住之墓 佐賀の乱 1874(明治7年)

柏木重住氏はもと出水郷の人で、幼いころ父母に従い垂水の新城に移り住んだ。若くして新城の寺で修行していたが廃仏毀釈により還俗し、熊本鎮台の鹿児島の分営に入り、鎮台兵として勤務している。折から明治七(一八七四)年の佐賀の乱が勃発するや、官軍兵として、江藤新平らの反政府軍と佐賀県庁(佐賀城)の攻防戦を闘い戦死したのである。
 碑文は西南戦争に先立つ、佐賀の乱に関する県内に残る歴史資料として珍しい。しかし、令和二(二〇二〇)年七月、大雨のため墓域の東の山が崩落して墓石も土砂に巻き込まれたが、掘り出して近くに移設してある。

ー垂水市新城、末川家墓地南隣ー

君、諱は重住、本と出水邑の人なり。少くして父母に随ひて新城邑に轉寓し、邑寺の門生と為る。君の人と為りや、穎悟にして能く誦經す。既にして縣内は梵宮・佛閣を癈す。乃ち緇衣を脱ぎて還俗し、新城の士と為る。農暇を以て文を學び、武を講むること孜孜たり。須臾も倦怠せざるなり。

明治五年壬申の春二月、朝廷、鎮臺を府縣に置き、分營を本縣に置き、以て縣内の丁壯を募る。君、其の募に應ず。蓋し慨然として日く、誤ちて空門に入ること、我、深く焉れを慙悔すと。此の行、當に桑弧の志を償ふべきものなり

七年甲戌二月、肥前·佐賀縣に騒擾の事有り。朝、命じて熊本鎮臺第十一大隊を遣して之れを鎮撫せしめんとし、乃ち其隊を二分す。一は陸地従り、一は河舟に乘りて直ちに佐賀縣下に到り城を守る。黎明、賊軍は城北自り火を揚ぐ、

既にして、縣廰を圍み大いに砲銃を廢す。鎮兵は、敢死·勇奮、小銃を連發す。戦爭、漸く時を移すと雖も輸蠃、更に判決せず。両軍交綏するも、官軍必ず賊兵を鏖せんと欲し、策畧を運らして窃かに城を出て賊營を襲ふ。賊軍、潰乱す。

官兵、勝ちに乘じて追撃し、賊の糧蔵を毀ち、兵庫を火きて帰城す。此の日や官軍の死傷は數人に過ぎず、賊兵は勝げて筭ふべからざるなり。賊の勢、猶ほ猖獗し礮墩を築き、砲銃を連發し将に城を燬かんとす。

城中に硝丸乏しく糧食少し。衆皆な圖るも支ふべからず。或ひは髪を截り以て親友に托し、或ひは絶命之詞を作り以て天明を待てり。乃ち城を出て、切歯憤怒す。砲戦時を移して煙焰は天に漲り、弾丸は地に进る。宛も雷霆の震ふが如し。

遂に官軍散乱し、或ひは陷伏して擒るる者有り。或ひは屠腹して死する者有り。蓋し君も此日に戦没するならん。實に明治七年甲戌二月十八日なり。享年二十七、

嗚呼三年、心骨を竭すも、有待の身を以て一朝、不測の難に死す。其の志悲しむべし。然りと雖も君の歿後、未だ幾くならずして賊魁、天誅に伏し、獄門に梟首せらる。

父の柏木重安君、將に墓を建てんとして日有り。余に銘を請ふ。余、不文にして以て不朽に垂るるに足らずと雖も譾陋を顧みず、畧ぼ其の顛末を叙し以てえれが爲に銘す。銘に日く、

於戯、男兒は 王事の為に歿す

悠悠たる千載も 芳名は竭きず

【現代訳】

君の名は重住(しげずみ)といい、もとは出水村の出身であった。幼いころに両親とともに新城村へ移り住み、村の寺に入り門弟となった。

彼は聡明で、経文をよく暗唱したという。

やがて県内で寺院や仏堂が廃止される(廃仏毀釈)と、僧衣を脱いで還俗し、新城の士族となった。その後は農作業の合間にも学問と武芸の修練に励み、少しの間も怠ることがなかった。

明治5年(1872年)2月、政府は各府県に鎮台を設置し、この県にも分営を置いて壮年男子を募集した。君はその募集に応じた。彼は「誤って仏門に入ったことを深く悔いている。今度こそ武士としての志を果たしたい」と語ったという。

明治7年(1874年)2月、肥前・佐賀県で反乱(佐賀の乱)が起きた。政府は熊本鎮台第十一大隊を派遣し、鎮圧にあたらせた。部隊は二手に分かれ、一隊は陸路で、一隊は船で佐賀へ向かい、城を守備した。

夜明け、反乱軍は城の北側から火を上げ、やがて県庁を包囲して激しく砲撃した。官軍も決死の覚悟で小銃を撃ち続けたが、戦いは長引き、勝敗はなかなか決しなかった。

やがて官軍は策を用い、ひそかに城を出て敵陣を急襲した。反乱軍は混乱し、官軍は追撃して敵の兵糧庫を破壊し、武器庫に火を放って城へ戻った。この日の官軍の死傷者はわずかであったが、反乱軍の損害は数えきれないほどであった。

しかし反乱軍の勢いはなお衰えず、砲台を築いて城を激しく攻撃した。城内では弾薬や食料が乏しくなり、もはや支えきれない状況となった。ある者は髪を切って形見として親友に託し、ある者は辞世の言葉を書いて夜明けを待った。

やがて城を出て決戦となり、砲煙は空を覆い、弾丸は地を走り、まるで雷鳴のようであった。ついに官軍は散り散りとなり、捕らえられる者、自刃する者も出た。君もこの日の戦いで戦死したのであろう。明治7年2月18日、享年27であった。

ああ、三年間、心身を尽くして励みながら、これからという時に不慮の戦難に倒れた。その志は実に悲しいものである。しかし君の死後まもなく、反乱の首謀者は処刑され、さらし首となった。

父・柏木重安は墓を建てようとして、私に墓銘を依頼した。私は拙い文ながら、その経緯を記して銘を作った。

銘にはこうある。

「ああ、男子たるものは国家のために命を捧げる。

千年の後までも、その名は尽きることなく伝わるであろう。」

感想 山下春美

 薩英戦争や戊辰戦争などを直接体験した人から話を聞くことなど、到底不可能なことであり、自分においては、日清・日露・アジア・太平洋戦争以前の戦争については、物語のようにしか思えずにいました。
 しかし、本日、石碑に刻まれている碑文から、薩英戦争・戊辰戦争・西南戦争、それらの戦争が、勉強として習う歴史ではなく、そこに従事し、生きていた人として、私の目の前に現れてきました。碑文からその時代の背景や人々の動向などがわかり、とても好奇心が湧き立てられました。
  先人たちの動きを知り、学ぶことが、今の自分たちの立ち位置を俯瞰できればいいなぁと思います。

 

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