内地から弟が・・・
昭和20年7月20日夕方、政盛がわが家にやってきてくれました。
「姉ちゃん!」
「マサちゃん」
私は弱々しく答えるのが精一杯でした。
深志さんが川内に便りを送って三ヶ月近く経っていました。
「深志兄さんから『ナツエが肺の病に罹ってしまっているが、自分が召集されて出兵しなければならない。できることならこちらでナツエの面倒を看てほしい』という便りをもらってびっくりして、すぐ満州行きを準備したけど、なかなか汽車の切符や船の切符がなくて、今になった」
「わざわざ、ありがとう。お父さんお母さんは元気にやってる?」
「お父さん、お母さんは無事にやってるんだけど、エッちゃんが16日の空襲でやられて亡くなったんだ。その頃は、もう竹之馬場が戦時の混乱で商売にならなくて、前の日を最後に辞めて、その日に田崎に帰る途中の事だったらしい」
「エッちゃんが・・・」
私は言葉にならなくて嗚咽するだけでした。
その日の一時過ぎに「料亭万客」を出て川内駅の着いた途端、数機の爆撃機が百キロ爆弾を投下して、二十数名の死傷者があったのです。
その中の一人がエッちゃんでした。
政盛によると、エッちゃんは爆弾の破片を浴びてはいずっていたんだって。
かたわらには、エッちゃんが仕事するようになってはじめて買った三味線とバチが大事そうに抱えられていたって。
「駅から田崎までもう少しじゃない、なんで!」
外地にいて、しかも病に伏せていて、花の一輪もエッちゃんの亡骸に備えることもできない悲しさと悔しさで胸が張り裂けそうでした。
「エッちゃん、エッちゃん・・・」様々な思い出が涙とともに止めどもなく流れ出しました。
幼い日の事、一緒に平佐尋常小学校に通ったこと、キンちゃんと鬼ごっこした事、映画を観たこと、それらが唱歌ふるさとの一節のように、
♫如何にいます父母
恙なしや友がき
雨に風につけても
思ひ出づる故郷♫
まるで昨日のことのように溢れてきたのです。
あまりにも落胆している私を見て疲れるといけないからと、マサちゃんが私を制し床に休めました。
それからは、鞍山も空襲が頻繁になってきたのです。
防空壕に逃げ込む毎日でしたが、私たちは病気がうつるということで、防空壕に逃げ込む事はできませんでした。
そんな中で、志づさんだけが、私たち姉弟に優しい言葉をかけてくれていたのでした。
「防空壕に入ったら身体がきついだけだから、入らないで鉄筋コンクリートの社宅の方が安全だよ。」と気休めとはわかっていたけど、その心遣いが嬉しかったです。
そんなある日、玄関に誰か来た気配があり、マサちゃんが玄関に出向くと誰かとやりとりしている様子でした。
「中国人の子供が姉ちゃんにと言って卵を持ってきたよ」
私はそれが誰なのかすぐわかりました。
紅運《コウウン》と梅花《メイファ》でした。
私の病気が治りますようにと、自分たちもなかなか食べられない大切な卵、自分の家の鶏が生んだ卵のうち三個を2人で私に持ってきてくれたのです。
彼らの食糧は私たちよりもっと貧しいのに、と思いその卵を見て、私はただ涙が溢れ出てきていました。
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