今回の鹿児島訪問の際に、講演翌日、早朝に鹿児島市を出て、大隅半島にある戦後開拓地「盤山開拓」を駆け足で訪問してきました。
後で詳しく触れますが、ここは前回に取り上げた「与論(輿論)開拓団」からの戦後の国内引き揚げ後に入植した戦後開拓地であり、今回、是非、時間を作ってでも訪問したいと思っていた場所でした。
まずは、この「盤山開拓」に入植した「与論開拓団」の戦後引き揚げの話からとなりますが、同開拓団からの生還者の皆さんは昭和21年(1946年)6月にようやく日本に引き揚げ、その後、鹿児島市伊敷町にあった旧陸軍宿舎、次いで「鴨池収容所」にて過ごす中で、今後の進み方等についての検討を始めます。そして、同団からの引揚者の中の75戸が再び国内開拓の道に進むことを希望したと言います。
これを受けて、入植地探しが始まり、最初は種子島への再入植等の話もある中で、団員の中からは「台風等災害時等に困ることの多い島嶼部ではなく、やはり本土内での入植を」との要望が強く出たのだそうです。
そして、鹿児島県内の本土の中で、霧島、垂水、出水、川内等の候補地が上がった中で、最終的な候補地となったのが、大隅半島の南部にある旧田代町大原地区の稲尾岳(標高959m)の山麓に広がる標高約500m超のこの開拓地でした。
ここが選ばれた大きな理由はこの田代町大原の地が「水と薪が豊富」であったからと言います。それは出身地の与論島でも、また旧満州でも水と薪を確保するのに苦労したからであったのだそうです。
入植地が決定した段階で、75戸のうち21戸は参加を断念、最終的には54戸、165人が田代町の開拓地に入植することとなり、その先遣隊が現地に入植したのは昭和21年7月17日のことであったと言います。
旧満州葫蘆島から引き揚げ、博多港に入港したのが6月2日とのことでしたから、僅か1ヶ月半後のこととなります。入植後、新たな開拓地の地名を付ける際に決まったのが「盤山開拓」。かつて旧満州で共に入植、生活し、多数の仲間を亡くした「盤山」のことを忘れないとの思いから名付けたと言います。
入植当初、やはりここでも大変な苦労の積み重ねであったと言います。以下は錦江町で発行している町広報紙の「こうほう錦江」に掲載されていた当時の体験談からの抜粋となりますが、当時のこの一帯は大きな杉や雑木等の茂る森林地帯で、まずはこの伐採作業に大変苦労したと言います。
伐採した木を下草と一緒に焼き払い、ここを耕作する焼畑農業から始まったのだそうです。しかし、伐採した後の根の掘り起こし(伐根)はとても大変な仕事で、小さな株なら3~4年で伐根できましたが、大きなものになると10年以上経たないと伐根出来なかったと言います。
作業は困難を極め、食糧不足から栄養失調に陥ったこと等もあったそうですが、先遣隊は同年8月までに40アールを開墾し、芋や野菜を植え付けたと言います。そして、その年末には54戸、165人が入植を果たし、戦後の「盤山開拓」がスタートしています。
入植当初は芋、麦、陸稲(おかぼ)、ソバなどなんでも作ったそうです。食事はアザミやクワの葉など食べられるものは石臼でひいて雑炊にして食べたと言います。昭和23年(1948年)には開拓農協を設立し、同24年には自力で水力発電を整備、各戸の電灯や精米、製粉、製材用の電力も賄えるようになったのだそうです。
しかし、鹿児島は台風の通過の多い場所であるだけに、毎年のように台風被害を受け、昭和24年に襲来したデラ台風では、盤山開拓でも死者3名、また2年後のルース台風では住宅5戸が全壊、農作物の被害も甚大で、盤山開拓の存続自体も危機に陥っていたと言います。
しかし、回生策となったのは昭和30年代半ばから導入した茶葉の栽培であったと言います。この盤山地区は標高が高く、良質な茶葉の栽培に適していたことが幸いしたのでそうです。その後の改良等も進められ、後には「田代茶」として農林大臣賞を授賞するまでになり、ようやく生活も安定してきたと言います。
そして、昭和56年(1981年)10月、盤山公民館にて「田代入植35周年記念式典」が挙行され、この時に後でも出てくる「拓魂碑」と「慰亡拓友之碑」を建立しています。この時には、かつての出身地である与論島の町長等も参加し、この盤山開拓のご縁で錦江町(旧田代町は2005年に大根占町と合併して錦江町に)と与論町とは2006年(平成18年)に姉妹締結をしています。
こういった「盤山開拓」の歴史等を事前に知る中で、今回の鹿児島訪問の中で何とか、この盤山開拓に是非行ってみたいと思うに至った次第でした。そして、鹿児島での講演を終えた翌日の8月1日、朝3時に起床、4時には前日夕方から借り受けてあったレンタカーにて鹿児島市内のホテルを出発、まだ真っ暗い中、朝4時半に鹿児島県護国神社にある青少年義勇軍の慰霊碑にお参り。その後、錦江町方面へと向かう高速道路に入り、ようやくいくらか空が白み始めてきたのは5時を少し回った頃でした。
鹿児島市内から高速「九州道」の「鹿児島北インター」に入ったのが4時45分頃、それから「東九州道」へと入り、大隅半島を一路南下。鹿屋市内で高速道路は無くなり、一般道路経由にて錦江町方面へと向かい、
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鹿屋市内で高速道路は無くなり、一般道路経由にて錦江町方面へと向かい、今は錦江町の一部となっている旧田代町の町役場、現在は錦江町田代支所に着いたのは朝7時半頃。鹿児島市内を出てから約3時間、鹿児島からの走行距離は120キロを超えていました。
目指す「盤山開拓」はこの旧田代町役場から更に南東方に直線距離で5キロ程度の山間部に位置。事前にパソコン上の地図で調べておいた位置図を便りにその方角へ。事前に、「盤山開拓」の開拓記念碑が「盤山公民館」の敷地内にあると調べてあり、その公民館の住所が「肝属(きもつき)郡錦江町田代麓5166番235」と判っていたので、レンタカーのナビにこれを入れて、その場所へと向かいました。
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やがて、盤山開拓への入口の目安となる
「鵜戸野」バス停を発見、ここからは山間部の狭い道に入っての山道となりました。途中からは全く人家もない山間部の坂道続きで、幅員は取り敢えず4m前後あり、また舗装はしてあるので、それ程の悪路ではありませんでした。
しかし、車には1台も出会わず、人も見かけません。と言うよりも、この盤山開拓に行ってから人の乗った車には1台も出会わず、また人家数軒はあったものの、人影は全く見られませんでした。
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途中、前々日の台風の影響なのか倒木が道路を塞いでいるのを片付けたりしながら、
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「鵜戸野」バス停から約2.5キロほどを走った辺り、少し山道が開けたところに狭い脇道があり、
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そこに「盤山公民館」と書かれた門柱を発見。
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そこへと入ってみると、そこには静かな佇まいの「盤山公民館」がありました。
公民館の周りには倉庫らしき建物があったものの、人家らしき建物等は全く見当たらず、勿論、人影もありませんでした。
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しかし、公民館の少し奥の斜面に目を向けると、そこには盤山開拓の記念碑と数基の石碑等があるのが判りました。
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車を停め、その斜面を少し上がったところに、まず「盤山開拓」の記念碑がありました。
前述の通り、入植35周年の際、昭和56年(1981年)に建立された「拓魂碑」です。正面の下部に刻まれた碑文には下記の通り刻まれていました。
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(盤山開拓「拓魂碑」碑文)
「昭和十九年三月十日、旧満州国錦州省盤山県第十三次輿論開拓団に百四十五戸、六百三十五名が輿論島から分村入植した。敗戦前後の過酷な状況の中で多数の人が犠牲となる。四百三十二人が町清之進氏を団長として肉親の遺骨を抱き、はだか同然で二十一年六月二日引揚げ上陸、内地開拓のため五十四戸、百五十六名が七月十八日、現在地に入植した」
また碑文の横には町清之進団長以下、当初入植54戸の戸主の名前が刻まれていました。その中にはかつて旧満州での同開拓団の初代団長を務めながらも、「根こそぎ動員」で出征、シベリア抑留を経て引き揚げてきていた伊藤佐江吉元団長のお名前もありました。
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また、この「拓魂碑」から少し上がった奥には「慰亡拓友之碑」と刻まれた石碑がありました。
旧満州で、またここへの再入植後に亡くなられた同志の皆さんの慰霊碑であると思います。
碑の脇には「昭和五十六年七月建立」と刻まれていましたが、裏面は厚い苔で覆われ、文字が刻んであるのかも確認することは出来ませんでした。
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また、それより少し下のところには「入植50周年記念碑」と刻まれた記念碑もありました。こちらは「平成八年七月十八日建立」と刻まれていました。その頃にはまだ地区内の戸数も多かったでしょうか。それからもうもう四半世紀が過ぎています。
それぞれの記念碑等に手を合わせ、改めて周辺を見渡しながら、この人家もほとんど見られない山中の開拓地が、あの南の島・与論から広い旧満州の開拓地へと渡った「輿論開拓団」の人々が戦後の再出発の地として入り苦闘した場所なのかと思うと極めて感慨深いものがあり、その労苦等を思うと立ち去りがたい思いも湧きましたが、時間の都合もあり、少し周りの様子等を見るために、この盤山公民館を後にしました。
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しかし、公民館を出て、周辺の山間部を少し回ってみたものの、人家はバラバラと散って建つ5~6軒程度が見受けられた程度で、その中には無人家屋らしきものもあり、少しばかり生活の匂いがする住宅等の周りには人影も全く見られませんでした。
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事前に得ていた情報では、この辺りは「田代茶」として知られる名産茶の生産地とのことだったので、もっと茶畑の広がる景色を想像していたのですが、盤山公民館の周辺では茶畑は全く見当たりませんでした。
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少し離れた高台に上がった辺りにようやく茶畑が見られるようになりましたが、正直なところ余り手入れは行き届いていない感じもあり、その中を走る道路も草が伸び、通行にも支障のあるような状況でした。
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しかし、盤山開拓から地区中心部である旧田代町役場方面に戻る途中では立派な茶畑が広がっているのを目にすることが出来ました。
盤山地区内の山中を少し走ってみたものの、まとまった集落等は見当たらず、また午後の早い時間の飛行機に乗るために鹿児島空港まで戻る必要もあり、それ以上の探索は諦めることにしました。
しかし、当初、54戸もの入植があったとのことから、もっと集落的なものが形成されているのではと推測していただけに、この人家の少なさはとても気になるところでした。そのこともあり、帰路、錦江町の田代支所に立ち寄り、お聞きしてみたところ、盤山地区には今は19戸が残っているのみとのことでした。
当初入植54戸の約35%、3分の1しか今は残っていないことになります。全国共通としての傾向でもある戦後開拓地の過疎化の進行はここでもやはり同じであったことに、時代の変遷を思いつつ、この戦後開拓地・田代の地を後にしてきました。
※.以上にて、鹿児島訪問レポートは終わりとさせて頂きます。今回の鹿児島訪問で大変お世話になった皆様方に厚く御礼申し上げると共に、この「つれづれ草」でのレポート等も調査不十分等で足らないところ等多々あるかと思いますがご容赦賜りたいものと思います。
(満蒙開拓平和記念館 館長 寺沢秀文)
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