県内各地で慰霊祭が行われているようです。南日本新聞の記事を参考に紹介しています。
これらの記事から、終戦末期の日本軍の状況や特攻基地があった場所、亡くなっていかれた方々、その家族、友人知人の語られざる思いを知ることができるのではないでしょうか。
4月2日(土)第65回 旧鹿屋航空基地特別攻撃隊戦没者追悼式
鹿屋市今坂町 小塚公園慰霊塔前広場で、遺族や自衛隊関係者など約200人が参加。
鹿屋市によると、遺族の方の参加は、県内外29組71人、だったとのこと。
6歳上の兄を亡くされた男性は、「特攻隊という不条理な考え方がまかり通っていた事実を反省し、二度と繰り返してはならない。ロシアのウクライナ侵攻は外国の話ではない。私たちの過去にも同じことが起きていたことを知ってほしい」と書かれてありました。
戦時中、鹿屋には3つの海軍の飛行場(笠野原・鹿屋・串良)があり、鹿屋基地からは
日本で最も多い908名の特別攻撃隊が出撃し、戦死されているそうです。
詳細は、↓をクリックしてください。
『鹿屋と戦争の歴史を知る』
4月6日(水)都城市特別攻撃隊戦没者慰霊祭
都城市 都島公園内 旧陸軍墓地であり、市長ら9人が献花。
都城陸軍飛行隊 第一陣が飛び立った4月6日に毎年、援護隊や戦没者も含めた慰霊祭を行っている。
市によると、旧陸軍の都城西、都城東飛行場からは特攻隊が出撃した。特攻隊員79人や誘導などに当たった掩護(えんご)隊員ら計149人が亡くなった。(参考:朝日デジタル記事)
中学校3年生の生徒が、「戦争は起こってはいけないし、起こしてはいけない」とメッセージを述べた」と書かれてありました。
都城特攻基地を発進した特攻機は全部で10隊、79名であった。これは九州方面から出撃した陸軍特攻隊数の約10%に過ぎなかったが、ここでは際立った特色が2つあった。それは編成人員に対して特攻戦没者の率が高いこと、使用機種が全て当時の最新鋭機とされた四式戦(疾風)で
あったことの2点である。ウィキペディア
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都城東・西飛行場
4月7日(木) 戦艦大和と護衛艦戦没者慰霊の日
枕崎市 火之神公園内 平和祈念展望台
昭和20年4月7日に戦艦大和が坊ノ岬沖海戦で沈没した日に、慰霊のために集まられるようです。
10年前から慰霊祭は行わず、自主参拝にしているとのこと。それでも、毎年多くの方が来られると、書かれてありました。
地元のNPO法人・平和祈念展望台奉賛会が献花用の花台を用意、全国から集まった遺族の方々が献花されたそうです。
4月7日(木)第55回 戦艦大和を旗艦とする特攻艦隊戦没将士慰霊祭
徳之島伊仙町犬田布岬 (イヌタブミサキ)
戦没者3737人 1968年に慰霊塔が完成し、今年で55回目の慰霊祭。
昭和20年4月7日、徳之島北西の東シナ海で沈没した午後2時23分に、黙とうをささげる。
80代男性、「遺族も高齢となり、来島が難しくなった。地元の私たちが遺族やその家族の代わりに慰霊に努め、平和への思いをつなぎたい」と書かれてありました。
4月10日(日)南さつま・万世特別攻撃隊戦没者慰霊祭
南さつま市 万世特攻平和祈念館 全国の遺族や若者ら200人が参加。
中学3年生が、「平和はいつ壊れるか分からず、はかなくもろい」「これからの未来をつくる
私たちには戦争を後世へ伝え、平和を尊ぶ使命がある」と誓いを述べた、と書かれてありました。
万世飛行場は、わずか4ヶ月しか使われず、17歳の少年飛行兵を含め200人近い特攻隊員がここから沖縄の空へと飛び立っていったそうです。
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