「”モンゴル抑留”だった父親の話 ②」

2023年

調べてみて、知ったこと

さて、今回、お話をすることに際して、改めて自分も調べ直したり、調べながら改めて知ったことがあったのでそのようなことも話をしたいと思います。

それは、「シベリア抑留者の決死の手紙を握りつぶした男」という内容です。
         (以下、『ウィキペディアの戸叶里子とかのさとこ『野溝勝』から一部引用しています。)

シベリア抑留問題では未だ1,000人余りの未帰還者がいる状況であった1955年、日ソ国交調整開始に伴い、超党派の訪ソ議員団が結成され、このうち社会党左派の議員のみハバロフスクの収容所への訪問がソ連側から許可されました。

野溝勝(社会党書記長・衆・参議院)は、この視察団の団長となりますが、この視察はすべてソ連側が準備したもので、「ソ連は抑留者を人道的に扱っている」と宣伝するためのものでした。

一方、抑留者らは議員の訪問を察知し、営倉入りを覚悟の上でサボタージュを行い、議員との面会にこぎつけました。なお、以前に行われた高良とみ(戦後、日本人として初めてソ連に入った参議院議員)は、モスクワ滞在中に日本人抑留者に会いたい、とソ連に働きかけるも、ソ連側の工作に合い、ハバロフスク21分所の一部の日本人抑留者にしか面会ができず、収容所訪問は不調に終わったのでした。(1952年にソ連に亡命し、行方不明になっていた女優の岡田嘉子さんの生存を確認し、メディアに伝えた。)

議員らに対し、収容所を代表して挨拶を行った尾崎清正元中尉は、決死の覚悟で収容所の実態を伝えるとともに自分たちを犠牲にしてもかまわないので、ソ連の脅しに屈することなく国策の大綱を誤らないでほしい、と訴え、数人がこれに続きました。

これに対して、浅原正基(ソ連内で発行された抑留者向けの新聞「日本しんぶん」の編集委員)は、ソ連からの援助を受け「シベリア天皇」と呼ばれる「アクチブ」(東京帝大卒、上等兵、抑留時“自発的”に民主運動をし、リーダーとなる)が、発言しようとして他の収容者から野次や怒号を浴びました。

視察団は、騒然とした様相に呆然としていましたが、野溝勝は「思想は、思想で戦うようにして、同胞はお互いに仲良くしてください」とお茶を濁しました。

野溝勝は、収容所の売店に立ち寄り、ソ連側所長の中佐から「日本人は賃金をたくさんもらうので、日常こんな品物を自由に買って、生活を楽しんでいる」という説明を受けたが、その場で通訳をした朝鮮人収容者から「みんなデタラメですよ。あなた方によく見せるため昨日運び込んだもので、あなたがたが帰られたら、すぐに持って行ってしまうものです。」と言われました。

日本人抑留者らは、使節団に家族への手紙を託しました。この時、仲間の釈放のための外交努力を求めるとともに、将来の日本の国策のためならばこの途に骨を朽ちさせても悔いはないとする収容者らの決意を認めた国民や議員あての7通の手紙も一緒に手渡されました。しかし、野溝勝らはこれらの7通の手紙を握りつぶし、議員団長である北村徳太郎(保守派の政治家)への報告もしなかったのです。

抑留者らが帰国後、新聞へ投稿したことから虚偽が発覚し、野溝らは、「海外同胞引揚及び遺家族援護に関する調査特別委員会」で追及を受けました。

これに対し、野溝は「発表の技術等の不手際の点についてはお叱りならば、私は大いに反省をいたします。」としながらも他意はなかったと弁解しています。

稲垣武(フリーランスジャーナリスト)は、野溝がこのような破廉恥な行為を敢えてしたのは、公表すれば自分たちに都合が悪いと思ったからであろう、としています。

帰国の途上、野溝は戸叶(とかの)里子(さとこ)社会党衆議院議員は、収容所の炊事場を視察し、大鍋にあったカーシャ(ロシアなどの東欧のおかゆ)を舐めて、「こんな臭い粥を、毎日食べておられるのですか?」と炊事係に小声で聞いたそうです。

しかし、戸叶、野溝両議員は、帰途香港で記者会見を行い、「戦犯たちの待遇は決して悪くない、という印象を受けた。一日、8時間労働で、日曜日は休日となっている。食料は、一日、コメ3百グラムとパンが配給されており、肉、魚、野菜などの副産物も適当に配給されているようで、栄養の点は気が配られているようだった」と、視察で知った事実とは、異なること内容を語ったのでした。

届かなかった抑留者の願いと国への思い

改めて、言いますと、視察団は日本人抑留者から家族への手紙も託されていました。同時に、国民や議員に宛て、同胞への仕打ちに憤慨して、ソ連将校を斧の峰で殴り、営倉に入れられた仲間の釈放のための外交努力と、収容所の窮状を訴えるとともに、将来の日本の国策のためならば、祖国のためにこの地に骨を朽ちさせても悔いはない、とする収容者らの決意を認めた7通の手紙も手渡されていたのにも、かかわらず、社会党議員らはこれらの7通の手紙を握りつぶし、議員団長である北村徳太郎への報告もしなかったという事実があったのです。

これは、日本の国会議員が、ソ連のプロパガンダに応じてしまった、ということがあったようです。

父親もソ連に対しては、忸怩たる思いがあり、好きではなかったようです。しかし、「ソ連も個人的にはいい。」と。しかし、やっぱりなにかしら「いかん。」と言っていました。

私も大人になってその気持ちがわかるんですね。個人的にはいいんですが、国家としては違う、ということがあるんだろうなと。

ロシアとウクライナの戦争が続いていますが、個人的にはどうしてもウクライナに頑張ってほしいなと思ってしまいます。

先週、夜中に、昔のNHKスペシャルをずっと放送していたので見ていました。そうすると、スターリンが日ソ不可侵条約を破ってきたのかなぁと、それもなんとなくわかることがありました。

 最後に、私の父親が亡くなったのは、昭和47年なんです。

政府はシベリア抑留者に対しては、補償も恩給も何もないんですが、平成元年9月1日から、慰労品等贈呈事業が開始され、内閣総理大臣名の賞状及び銀杯を贈呈する事業を開始しました。父は亡くなっていましたが、父の抑留体験を証明することができれば、亡くなった人でも事業請求できる、ということだったので、父の同郷の生きて帰ってきてくれた人が証明書を書いてくれて、亡父もその銀杯をもらったようです。

瀬下さんの話の後、参加者で感想を語りあいました。 ③に続きます。

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