「”モンゴル抑留”だった父親の話ー終了後の座談― ③」

2023年
瀬下三留さんのお話の終了後、質問や感想を述べ合いました。

〇モンゴルでの調書を見せてもらったら、1人の人間が生きた歴史というのが、わかる。
私も父の軍歴証明書を取り寄せた。父は南方に出征していて軍の運転手をしていたみたいなんです。そして、帰って来て交通局の運転手になったんです。近年、交通局が取り壊されるときに、父の遺品というわけではないんですが、その一部を入札ということで鹿児島市から頂きました。瀬下さんの行動が私の行動をうごかしてくれる、というのがありますので、人との出会いって大切だあと思っています。

もし、自分の近親者の軍歴証明書を取り寄せたい方は、県庁のくらし保健福祉部 社会福祉課が担当です。

〇モンゴル抑留は、初めて聞きました。昨年末のテレビで、ウランバートルで日本人がつくった国立大学のことなどが放送されていました。日本人は苛酷な環境でも生きる力を常に持ち続けていたことを知りました。

〇シベリア抑留について、どうしてこんなことになったのかな、ということを深く掘り下げていきたい。当時は、関東軍も上層部の人たちはすでに日本へ帰っていたのでしょう。置き去りにされてしまった人たちなのでしょう。ミャンマーもひどかったんではないでしょうか。

〇印象に残ったのは、馬が食べれる草は、人間も食べることができる。馬が食べない草は食べるといけない。

〇三留さんにいっぱい話をしたいことがあったと思います。今日まで苛酷な人生を生きてきたお父さんから特に印象に残る言葉があったら教えてほしいと思います。そこから、お父様の人生が見えてくるように思えます。

≪瀬下さん≫
戦争の話をしたくない、という体験者の方がいる中で、うちの父親は話をしたほうではないかなと思います。残念なことは、子供だったので真剣に父の話に「そいでどうやったの?」とかもっと聞くことをしなかった。

きっと質問をしたら、どんどん話をしてくれたと思う。当時の自分は、父の戦争の話より、「チロリン村」(NHKチロリン村とくるみの木1956~1963)のテレビを見ていたほうがよかったので、父の話が面倒臭くて、あんまり聞いていないんです。だから、今思うと何で聞かんかったのかな、と思うんです。
ただ、大人になって、振り返って思うと、父はアイススケートの話をしていたんです。「スケートの靴には、ショートというのがあって、ロングというのがあって」と。
当時、鹿児島にスケートなんてない時代に、父がスケートの話をすることに何も思わなかったけど、“あぁ、満州にいたから、娯楽でスケートをしていたんだ”と、今思うんです。

そういうことが思い出されます。それと、父は満州で私たち兄弟の母以前に、妻がいたらしいのですが、それは誰も知らなかったんです。

昭和17年に満州に行くんですが、そこで同郷(薩摩川内)の人と結婚して昭和20年の召集されるまでの3年間一緒に住んでいたようです。召集するときに、その奥さんは結核を患っていたらしいのですが、父親が抑留中に奥さんが亡くなっていたことを知っていたのか、知っていなかったのかはわからないんです。

今の母とは、昭和24年に見合いで結婚しています。父親は、函館に引き揚げてきたようで、そこから
薩摩川内市まで帰って来たようです。
それと、ソ連兵から、銃を突き付けられたことがあって、とっさに殺される、と思ったそうです。
人間死ぬと思ったときには、昔のことが走馬灯のように思い出される、と言ったことを思い出しました。

ソ連兵と言い、モンゴル兵とは言っていないので、モンゴルだけにいたわけではなく、ソ連領を転々としていたのかもしれません。しかし、それは資料では出てこないのです。
もっと聞いておけばよかった、と思うことはたくさんあります。  

〇体験者がいなくなっていく中で、体験者と接した方からの話を聞いていくしかない。

〇私は昭和26年生まれで戦争のことは何も知りません。でも、南日本新聞の「証言 語り継ぐ戦争」の連載記事が好きで、読んでいます。しかし、一時期あまりにも悲しすぎて読まない時期がありました。でも、また再開して読んでいるんですが、直接聞いてみたい、と思って参加しています。

でも、聞く中で“すごいなぁ、すごいなぁ、と靴を食べていたんだ、と思って。自分の父親のことを考えていました。私の父からは出征したということは聞いたことはないんです。

父の父、祖父ですが、桜島で満州に行こうとして沖縄に渡っています。そこで、鉄鋼所をつくってなんとか成功をして、父は地元の母と結婚しました。

〇ソ連の人はいいんだけど、国はね~~、ということに乖離がある。今後このような悲劇を起こさないためには、国と国民が一体となっていくことが大事だと思う。

〇親戚の若者が、自衛隊に入っている。この会のことを話して、戦争が始まりそうだから、自衛隊を辞めなさい、と言ってしまった。とても好青年なんです。こんな若い青年が戦争の時は、死んでいったんだよな、と思ったんです。戦争が始まるんだ、と思っている。そうしたら、彼が今年中には辞める、と言ってくれた。

〇父親が小さい頃から、何回も「戦争はやっていかん、戦争はいけない」と言っていた。父親も自分の体験はあまりしゃべらなかった。この会に出て気持ちを新たにして、戦争はいかん、と伝えていきたい。

〇国民の権力者のエゴに巻き込まれている。企業も政府も利益のために施策が進められている。
昔の自衛官の幹部の人たちは、絶対に戦争をしてはいかん、と言っています。戦争をしたい人たちがいる。その人たちを選んでいるのは私たちである。

しかし、投票に行かない人たちがいる。自分たちの未来をいいようにされていいわけがないので、投票に行くように勧めている。

ニュースを見て、一緒に語る、ということが必要。

国民がコントロールされている。

子供たちに戦争だけはしてはいけない、

メディアから政府にもの、申す的な、人たちが、出てこなくなった。

現実に起こっている戦争をテレビで平然と戦争のテレビを見ている自分が、これでいいんだろうか、と思うときがある。平和ボケしているんじゃないかと思う。

年を取ってくると良いことがある。全体像が見えてくる。国会などを見ていても、こういうことなんだろう、

という事がわかってくる。国会などでも、どうしてもっと大事なことがあるのに、と思う。

北朝鮮が何かすると、マスコミも大きく報道する。そんなことは大したことはないのに、ことさら取り上げる。

安倍政権の時は、北朝鮮がミサイルを打つと安倍が喜ぶと言われていた。どうして、そういうことを追求したい。

私もこの会で出たことは、他の所でも話します。そうしないと意味がないわけですよ。

生かされたと言えない。

国会も政党も翼賛政党になりつつある感じがする。

編集後記

映画「ラーゲリより愛を込めて」が上映され、シベリア抑留があった事実を知る人が増えたことを期待するとともに、どうしてそういうことが起こったのか、ということを、じっくり検証していくことが必要だと感じました。もちろん、歴史的に検証されているとは思いますが、そのような悲劇を生み出す源泉は、どこにあるのか、ということは、一人の人間として生きている私たちに決して責任がないわけではないと思っています。

「いのちは尊い」と言われますが、本当に「いのちが尊い」と思っているならば、この現実や過去の歴史は、変わっているはずです。なぜ、「いのちが尊い」ということを現実として、行動していくことができないのか、どうして、ソ連を訪問した議員団の人々は、抑留者の必死の手紙を握りつぶし、虚偽の記者会見をし、苛酷な環境下に置かれた方々を見捨て続けることができたのか?

過去を振り返ることは、疑問だらけですが、その疑問の答えが、未来の私たちの姿として表れてくるのでしょうか。                         文責:山下春美                  

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