我が身を呈して救おうとする「自己犠牲」の精神

2024年

白村江の戦いと防人制度      瀬下 三留

 自らを「犠牲」にして日本を救った”大伴部博麻(おおともべのはかま)”とは。

 西暦663年、日本は百済を再興するために5,000人の兵を送りますが、白村江の戦いで唐、新羅連合軍に大敗を喫しました。
 白村江の戦いに敗れた日本は唐、新羅の軍隊が侵攻してくる事を恐れ、北九州に防衛のための「水城」(みずき)と呼ばれる土塁と外濠を設置し、「防人」(さきもり)と呼ばれる兵士を配置しました。

 防人の多くは東国の男たちでしたが、彼らは国を守るために、故郷を離れ九州に赴いたのでした。
同時代に編まれた「万葉集」には、防人や彼らを送り出した家族の歌が百首ほど収められており、「防人歌」と呼ばれています。

 白村江の戦いに参加した日本軍の兵士の中に福岡県生まれの「大伴部博麻(おおともべのはかま)」という人物がいました。
 663年、大伴部博麻は唐軍に捕えられ、長安に送られました。その頃長安には、捕虜扱いになっていた遣唐使が4人いました。
 664年、唐が日本侵略を企てているという情報を得た大伴部博麻は、この事を何とか日本に知らせようと考えて、自らを奴隷として売り、その代金を4人の遣唐使に渡して、彼らの帰国資金とさせました。4人は671年に帰国し、大和朝廷に唐の計画を伝えます。

 大和朝廷は大伴部博麻の身を呈して得た情報により、防人制度という防衛を高めた事で唐からの侵略から国を守ったのです。

唐に残された大伴部博麻は奴隷として暮らしていましたが、690年にようやく帰国できました。
捕虜となって27年後の事でした。

「日本書紀」にこういう記述があります。「唐に留学していた三人の僧と大伴部博麻が九州に帰還した」

持統天皇は大伴部博麻の国を思う心と行動に感謝し、彼に勅語を贈ります。
「朕(われ)、その朝(みかど)を尊び、国を愛(おも)い、己を売りて忠を顕(あらわ)すことを喜ぶ」として、沢山のご褒美と共に博麻に贈りました。

 これは、天皇が一般個人に与えた史上初の勅語となりました。
またこの勅語の中にある「愛国」という言葉は、日本文献上に初めて現れたものとなりました。

 1400年ほど前の我々の先人にはこのように「自己犠牲」を呈して愛する者や愛する祖国を守ろうとした人がいたという事は、のちに先の大戦でも命を賭して守るべき者や祖国を守ろうとした行動に通じます。

「自分さえよければいい」というような風潮の現代に、改めて大伴部博麻に思いを致すことは大事です。
「自己犠牲」行動に批判的な意見もありますが、それによって助かる命がある事も事実です。
尊い行いは、尊ばれるべき事だと思います。

参考文献
新版日本国紀
MBC南日本放送「日本の偉人」

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