「戦争体験を語り継ぐ  霧島市」

2024年

 4月28日、霧島市国分のメディアセンターで、戦争を語り継ぐイベントがあり、赤崎雅仁さんと山下、で参加しました。

語り手の東和子さん(94歳)は、霧島市国分松木町在住。
当時、県立国分高等女学校(現国分高校)の4年生で15歳だった東さんは、長崎県川棚町の川棚海軍工廠こうしょうに動員されました。

「川の横に、横穴が掘ってあり、その奥でネジを作っていました。人間魚雷をつくっていたそうです。私は、兵隊さんの事務の仕事をしていました。コピーがないので、カーボン紙に力を込めて一生懸命書いていました。」

「動員先で楽しかったことは、一日遠足に行って、じゃがいもを食べながら、一生懸命みんなとおしゃべりをしていたのを覚えています。」

「慰問団が来て、必ず日本は勝つ!という内容の劇をしていました。」
「『男装の麗人』と言われ、人気があった『水の江ターキー』(水の江瀧子)が来て、うれしかったー、という記憶があります。」

「部屋割りは、6、7人から8人の部屋でした。」「枕の中に、入り大豆を入れて、夜にぼりぼり食べていました。(笑)」
「昭和20年、4月になったとき、松木(国分地名)で空襲があり、親友の父親が亡くなりました。叔母の家が航空隊の左側にあり、爆弾が落ちて、叔母の頭にその破片が飛んで、頭が割れたそうです。」

「終戦になり、自分の家に帰ったら、家は焼けており、消し炭で、『和子、姫木に来なさい』と書いてありました。」

「戦後、自衛隊の倉庫に貯めてあった缶詰を取りに行きました。」
「玉音放送は、宿舎の前に集められて聞きました。」
「原爆については、大変な爆弾が落ちた、という情報は入っていました。救護班で、原爆の負傷者を助けにいったんだと思います。」

「三度三度、ご飯を食べられて、空襲がなくて今はいい。孫や子供たちには、こんな思いはさせたくないなぁーと思います。」

編集後記 山下春美

 このイベントは、霧島市の生涯学習講座「隼人学」受講生や「共同参画シティズンシップ霧島」のメンバーでつくる実行委員会が初めて企画されたそうです。
 霧島にも特攻基地があり、太平洋戦争終盤には空襲も数多くあったようです。また、朝鮮から連れて来られた方々が、航空基地の造成に携わっていたという話も聞きます。ぜひ、今後もこのような戦争体験を聞く会を開催していただきたい、と思います。

コメント

  1. 赤崎雅仁 より:

    良くまとめて報告され聞き逃した事柄も記録されとても良かったです。
    川棚の話は他の方からも聞いています。自宅を訪問させていただきました。
    いとこに当たる方とは存じませんでした。爆撃で防空壕の中で母親を亡くなりよく遊びに行くところです。ゆり子さんと同級生です。ありがとうございました。