物語「約束の地」ー戦争を経験した父の人生ー【最終回】

2024年
国家からの銀杯

  父が亡くなって・・・ 

戦後強制抑留者慰労事業  

 元号が、昭和から平成に変わった年の夏に、向田本町むこうだほんまちの松崎さんがやってきた。

 松崎さんは、父、深志と一緒にシベリアから帰って来た人である。私たちは、松崎さんを知らなかったので、母に応対してもらった。父が生前、松崎さんのことを母によく話していたようだった。

「奥さん、国がシベリア抑留者に慰労金を出すてゆうちょる。深志さんも対象になるはずじゃっど。」

「松崎さん、そりゃ何ですか?私は戦後一緒になったので、戦争時代の話はようわからんのですよ、またうちの主人はもう死んでおらんとですよ。」

「シベリア抑留で難儀なんぎな思いをした兵隊さんたちにむくいるちゅう事じゃっと。そいで、その請求を国に提出せなならんとですが、抑留者の物故者もその対象じゃっと。ただし物故者については、抑留の事実や引揚げてきた船の名前や、いろいろ証言する人が必要じゃっち。そこ辺はわしが証人になるから、一緒に請求を出しましょう。」と、松崎さんの尽力で、平成元年12月11日に「戦後強制抑留者慰労金請求書」が仕上がった。

 松崎さんが上陸年月日や引揚げ船名のほか、出航地、上陸地まで記憶していてくれたおかげで、国に請求出来た。

 宛先は”内閣総理大臣”だった。

 しばらくしてから、平和祈念事業特別基金から「銀杯」一客と10万円分の旅行券が送られてきた。

 さよ子が、「とうちゃん、あなたが戦禍の中を生き抜いて、戦後あの過酷なシベリア抑留という地獄の日々を送りながらも生き抜いてくれたからこそ、今私たちもこうやって子育て出来ています。

 今では、あなたが見ることが出来なかった孫が8人もいるんですよ。」と、銀杯に向かって話をしていた。

 真一たちも、「お父さんよ、あんたが立派にシベリアから生きて帰ってくれたことに感謝もするし、立派な生き方を誇りに思うよ。」と、敬意の念を表した。

 ただ、伝えられていなかった「夏江さん」の事を私たち、4人の子どもが知るのは、この時から二十数年後の事だった。

    (了)

参考文献

「黒パン俘虜記」 
胡桃沢耕史

「命の嘆願書(モンゴル•シベリア抑留日本人の知られざる物語を追って)」  
井手裕彦

 平和祈念展示資料館
「根こそぎ動員より引揚げまで」  
佐藤令一

「モンゴル抑留記」  
益田繁美

「終戦よりウランバートルまで」   
真山 基

「無情の世界 シベリア抑留手記」  
片桐 勲

「旧満州方面実体験記」  
岸川 満

「私の五年三ヶ月の青春」     
西納鷹雄

「終戦を知らず北満で戦った第百七師団歩兵第百七十七連隊」」    
小林謙一

「満ソ国境の戦闘と抑留」     
大塩義武

「シベリア抑留を顧みて」  
尾上敏雄

「薩摩川内•出水•阿久根•さつまの今昔」  
郷土出版社

厚生労働省 社会•援護局援護•業務課•調査資料室

コメント

  1. 春光 より:

    連載、読ませて頂きました。国のために戦うことを強要され、従ってきた結果が、敗戦、そしてシベリア抑留。戦後のシベリアでの体験は、言葉で表現することなどできないほど過酷で地獄のような日々だったと思います。それにも関わらず、戦後の慰労金事業というのは、なんとおそまつなもんだったかということを知りました。お金で解決できることではありませんが、このような形でしかシベリア抑留者への対処はできなかったのでしょうか?一体、あの戦争は何だったのでしょうか?