女性たちの記録集「それぞれの100年」から No.6 『空襲の最中に生まれて』

2024年

 空襲の最中に生まれて  西薗 典子

 今、世界のあちこちで戦闘、虐殺、紛争・・等、心を痛めることがなんと多いのだろう。

ウクライナの侵攻を期せずして、イスラエル・ガザの現状は・・・・。それまでもたくさんあった。

 どんな正義の理屈があっても殺人と破壊はとどまるところを知らず、憎しみ、恨み、悲しみ、苦しみ、痛みは大きくなるのみ。人間の愚かさは果てしない。日本もかつて自らの理屈で戦争を起こしたことがある。

 私の年齢は78.5歳。昭和20年5月末に金沢で生まれた。金沢は結果的に空襲を免れたが、空を覆うB29の大戦隊に、空襲警報サイレンの最中、私の母は恐怖のあまり、月を待たずに産気づいたという。13歳年上の兄が、近所のおばさんを呼んできて、取り上げてくれた。未熟児だったという。

「こんな時代の、こんな時に、こんな形で生まれてきても」と、とりあえずの処置をして放置されていたという。そして、空襲警報がおさまり、落ち着いたとき「もう死んでいても仕方がない」と、産み落とされたままの私を見ると、素人処理の臍からの出血で、小さな体半分は、紫色になりながらも、私は生きていたという。

 母は、その小さな体半分紫色になりながらも生きていた私につい、乳をくわえさせると「こっくん、こっくん」と、その小さな命でおっぱいを飲んだという。
 「あぁ、この子は生きる子なのだ」と、思い、育ててくれたという。

 私の戦争の記憶は、終戦後、舞鶴港での引き揚げ者や尋ね人のラジオ放送を今も覚えている。また、近くの配給所で母に手を引かれて配給を待っていたのを覚えている。郷里の鹿児島に帰っても、父と母は食糧難の苦しさをよく口にしていた。同時に私が生まれた時の苦労や私の命がいかに風前の灯であったかを私に話してくれた。

 その時、幼い私はいつも「お母さんは私が死んでもいいと思ったの?」と尋ねたものだった。すると必ず、「日本国中、どこもかしこも空襲でやられ、たくさんの人が死んで負けるのは眼に見えていた。そんな時代に生まれてきてもしょうがないとみんな思っていた。仕方なかったんだよ。」と、いつも悲しそうに答えたものだった。

 日本人も「平和ボケしている。」とついこの間までよく言われていた。平和ボケだったからころ、こんな私でも生きてこれたんだ。そんな誕生のせいか、生まれる前に「エラ」が首に残り、心臓の奇形など人並みな生き方も子供も産むこともできないと医者に言われた華奢(きゃしゃ)な弱弱しい子ども時代を過ごした。 

 でもこうして、80歳を前にするまで命長らえ、4人の子も授かった。一度は死んでもおかしくない人生だった。この世に生きながらえることができた平和にこそ感謝せざるを得ないのだ。そして、平和の日々を心から大切にと祈る日々である。

 正義とは何か?戦争はどんな大義をもってしても無意味で馬鹿げて破壊的なものはない。私たちは人間がそれほど愚かであるとは思いたくはない。 

 人間の愚かさから、人の英知が活かされる道を心から願いたい。互いを慈しむ心、互いに許し合う心、互いに尊重し合う気持ちを心から願ってやまない。

コメント