「鞍山(アンシャン)」~私の知らない父の妻、ナツエさんに捧げる物語~ ⑪

2024年

赤紙の嵐

昭和二十年の年が明けた頃、その頃の在満日本人には徴兵検査で甲種合格のみならず、乙種にまで召集令状が送られてくるようになりました。近いうちに深志さんにも召集令状がきっと来るでしょう。

年齢が三十才で新兵になることは年齢が達しているとはいえ、社宅の丙種の人まで召集令状が来たというのですから、甲種の深志さんにも必ず赤紙が来るでしょう。

深志さんに、製鋼所の人に赤紙が届いているのか聞いても、何も答えてくれませんでした。でも私はそこ覚悟が必要だと思っていました。

結核の発病

その頃から私は、少しずつ咳き込むようになりました。
最初は、ただの風邪だろうということで対して気にも留めなかったのですが、時々微熱が出て、身体がだるくなり始めました。

そのうち起きているのも、辛い状況になっていたのでした。
街は治安も悪く、しょっちゅう空襲警報が発令されるので、そのたびに不衛生な防空壕へ逃げ込まなければなりません。

家で療養していても、体調が改善する事は全くなかったのです。
3月10日、ますます咳はひどくなってきたので、深志さんから「三笠街」にほど近い小高い丘の上にそびえ立つ立派な昭和製鋼所附属病院に行くように勧められ、そこで診断を受けました。

その結果、「結核」と告げられ、そのまま隔離のため、入院することになったのでした。
しかし、もうその頃は、附属病院も米軍からの攻撃に加え、国民党と八路軍の内戦に巻き込まれ、医療体制はどうしようもない状態でした。

しばらく入院したのですが、附属病院も昭和製鋼所と同じように、米軍が爆撃の対象だと言う噂もあったので、結局自宅で療養することになったのでした。結核は不治の病です。 
近所の人々も感染を恐れて家の前を避けるように、通り過ぎていくようになりました。

でも、田所志づさんだけはありがたいことに面倒を見てくれました。
時々、私の様子を伺いに来て、「ここに置いとくね。」と言って、煮物を玄関口に置いてくれたりしていました。

私が床に伏せっていた時に、コウウンとメイファが訪ねてきたのでした。
私は玄関先まで這うようにして行って「病気がうつるから来たらダメだよ。」と、やっと言葉にしたのでした。二人は心配そうな顔をして帰っていきました。

家でも結核がうつってはいけないので、食器も部屋も深志さんとは別々にして生活し、私が起きられないくらい体調が悪く寝込んでしまう日には、家事は深志さんがするようになっていました。

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