戦争を語り継ぐ遺児の会
2023年10月16日(月)「戦争を語り継ぐ遺児の会」代表の吉見文一さんにお話を伺いました。
吉見文一さん(82歳・昭和16(1941)年1月18日生)の父・元明さんは吉見さんが生まれてすぐに出征。佐世保鎮守府第5特別陸戦隊に所属、パプアニューギニア・サラモアでの連合軍との戦闘で、昭和18(1943)年に32歳で亡くなられたそうです。
戦後は、母・玄さんが郵便局で働きながら生計を支え、二人で暮らしてこられました。
そのお母さんも13年前に93歳で亡くなられたそうですが、お父さんの遺留品は大切に保管されていたそうです。
戦地から届いた父の遺書
「その中に父が戦地で身に着けていたという乳児の頃の自分のモノクロの写真がありました。
そして、父が所属していた中隊長からの手紙があり、それには父の最後の様子が記されていました。」
『八月十七日早朝、吉見兵曹ハ見張ノ任務遂行中、腹部ニ一弾ヲ受ケ、直チニ病室ニ収容手当ニ務メタルモ約一時間後遂ニ戦死セラレタリ」「実ニ惜シイ人物ダツタト言フノ外小官ノ気持ヲ表ハス手ハアリマセン』
母親から父親のことをほとんど聞くこともなく育った吉見さん。大学生になった頃、お母さんから父親の遺書を手渡されました。
『文一
コレガオ前に出ス父ノ始テノペンデアリ始テノ便リナンダガ。(中略)大キクナッテモネ、自分ニハ父ガ無イト悲観スル事ハ一ツモ無イ。オ前ニハ立派ナ父ガアル。(中略)何時モ文一ノ将来ヲ見守テイルノダカラ。』
後に、お母さんへの遺書も目にされました。
『私ハ笑テ立派ナ戦死ヲスル。タダ一つ最後ニオ前ニオ願ヒヲスル。文一ノ事ダ。文一ノ事ダ。(中略)文一ニ悲観ヲ感ジサセナイ様ニシテクレ。(中略)タトエドンナ事ガアツテモ、僕ハオ前ト文一親子ノ幸福ヲ神トナリ見守テ居ルノダ。』
初めて呼んだ 「お父さん」
2011年、70歳を迎えた吉見さんは、お父さんが亡くなったパプアニューギニアに初めて行くことができました。
お父さんが生きていた、その地で初めて大きく声に出して、呼んだ、
「お父さん――。」
これまで、父親のことを話すことをためらってきた吉見さんですが、数年前のお盆の時、自宅に遊びにきていた孫たちが父の遺書や遺留品を興味深く見ている様子を目にしました。
その後、当時15歳だったお孫さんが、スピーチコンテストに出場し、吉見さんのことを話されたそうです。
「『お父さん』このたった5文字は、私の祖父にとって言いたくても言えなかった大切な言葉です。—―――――」
戦争を語り継ぐ遺児の会 結成 ・・・・その想い・・・・
お孫さんのスピーチに胸を打たれた吉見さんは、昨年10月、鹿児島市内の高校で平和講演会を行い、「戦争を語り継ぐ遺児の会」の活動を始めました。
本年、9月13日(水)も鹿児島大学で「世代間で共有する戦争遺児の体験談」の発表や自治会での集まりで体験談をお話する活動を積極的にされているそうです。
吉見さんが若い人たちに伝えたいことは、
「家族が一緒に居たり、旅行したり、お父さんと言えば、反応してくれる人がいることは、ごくごく当たり前の日常生活だと思う。戦争はこうしたあたり前のことが、あたり前でなくなる。あたり前のことに感謝する気持ちを持ちましょう。あたり前の生活がいかに大事であるか、気付いてほしい。そんな平和の大切さを次の世代に語っていくことが、遺児の会の使命だと思っています。」
参考資料:リビング新聞2022年11月12月号/南海日日新聞2022年11月23日
編集後記
吉見さんのお話を聞きながら、何故、このように悲しい思いをしなければならない人をつくりだしていくのか。戦争に対する私の中の熾(おき)がカッと赤みを帯びました。
吉見さんのお父さんが、お母さんへ書かれていた遺書には、
「(中略)ただ一つ、最後にお前にお願いをする。文一の事だ。文一の事だ。—---」
と2回も繰り返し書いておられました。
どんなに死にたくなかったことかと、心残りであったろうかと、その心中を思うと胸が苦しくなります。こんな思いをしながら、多くの方々が亡くなっていかれたのでしょう・・・・・・・・・。
そんな悲しいことしか生み出さない戦争とは、一体何なのでしょうか・・・・
ウクライナとロシアの戦争が終わらない中、イスラエルでの戦闘が起こり、戦争によって両親を、兄妹を、友人を、と大事な人を失っていく惨状が止まりません。
戦乱と飢饉と地震の時代を生きた親鸞聖人の「とても地獄は一定、すみかぞかし」(歎異抄)のお言葉が思い起されます。南無阿弥陀仏 筆責:山下春美
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