『満蒙開拓つれづれ草』~ 鹿児島からの満蒙開拓団など-その③ ~

2022年

前回号でも触れた通り、当方で把握している限りでは、鹿児島県内からは6団の分村・分郷開拓団があり、しかもそのうちの5団は奄美大島や与論島など島嶼部からの開拓団でした。(資料)。なお、鹿児島県からの開拓団の入植位置等は別添の「鹿児島県・入植図」(記念館作成のものより抜粋作成)をご参照ください。

総じてではありますが、満蒙開拓団は地方の農漁山村等からの送出が多く、これも総じて耕地等が少なく、過剰気味の人口を抱え、次男、三男坊以下は外へと出て行かざるを得ない貧しい村等からが多かったのが実際です。長野県でも比較的生活環境等の厳しかった山間山村部等からの渡満が比較的多かったのですが、鹿児島ではやはり耕地等も狭く、生活環境等も大変であった島嶼部からの渡満がかなりを占めていたことになります。

生活環境が厳しかった島嶼部では、満蒙開拓が始まってから、広い大地で農業の出来る満蒙開拓への関心は高かったようで、昭和12年頃には鹿児島県内から満蒙開拓団を送出する「鹿児島村計画」が立案されていますが(実施されず)、これ以降にも、昭和14年から15年にかけて沖縄県と鹿児島県奄美大島からを中心として300戸の開拓団を満州へ送ろうと言う「南海村」構想が立てられています。その背景には、奄美大島の大島郡竜郷村出身であった満州移住協会副参事の太田文義と言う人物の影響があったと言います(『沖縄と満州』(沖縄女性史を考える会編。明石書店。2013年刊)より)。

それらが実際に鹿児島県島嶼部等からの渡満へと結びついていったのは、鹿児島県からの「分村・分郷開拓団」としては最も早い昭和14年(1939年)に渡満となった「伊漢通(いかんつう)開拓団」でした。この「伊漢通開拓団」は沖縄県と鹿児島県奄美大島等よりの混成開拓団で、この年から旧三江省の大河「松花江しょうかこう」の畔に位置する方正県の「伊漢通いかんつう」と言う地区へと入植しています。

この「伊漢通」と言う地名は、多くの満蒙開拓関係者等にとっては忘れられない場所ともなっています。当時は鉄道の整備されていなかった松花江沿岸部では水上交通が移動手段の主流で、この伊漢通にはハルピンや佳木斯ジャムㇲ等へと走る貨客船や、対岸の通河県等へと渡る渡し船が出入りする賑やかな港でもあったと言います。

そして、この辺りには後記通り九州からのいくつかの開拓団も入植していますが、それ以上に開拓団と大きく関わってくるのは、長野県から送出の泰阜村やすおかむら分村開拓団、読書村開拓団等始め多くの開拓団が終戦後にこの方正県を目指して逃避行して来て、そしてこの伊漢通で多くの開拓団員らが終戦の冬を過ごし、多くの犠牲を出した場所でもありました。その犠牲となった多くの開拓団員らの遺骨を後に日本人残留婦人の松井ちゑさんらが拾い集め、やがてはそれが今も現地で奉られる「方正日本人公墓」へと繋がっていきます。この「方正日本人公墓」のある場所はこの伊漢通地区の中になります。

私もこの伊漢通には何回か訪問しています。

写真は、平成26年(2014年)に記念館にて現地訪中した際に訪問した「伊漢通」の、かつては波止場があった辺りになります。大河松花江の遙か遠くに対岸の通河県が遠望出来ます。

(2014.6.15。黒龍江省方正県伊漢通にて)

写真も、この時に撮った伊漢通の古い家並みの集落の様子です。8年ほど前でもまだこんな景色が見られました。


(2014.6.15。黒龍江省方正県伊漢通にて)

話を戻して、この伊漢通に入植した「伊漢通開拓団」は前出の『沖縄と満州』に「伊漢通」の集落(2014.6.15。黒龍江省方正県伊漢通にて)拠れば、総戸数282戸、団員1,042人で、このうち沖縄からが136戸、486人となっており、他県から146戸、556人となっているのは多くは鹿児島県奄美大島等からと言うことになるものと思われます。

しかし、他の資料となる『満州開拓史』に拠れば、この「伊漢通開拓団」の規模は在籍671人、うち死亡・未帰還等の非帰還者502人となっており、帰還は169人、帰還率25.2%と極めて低い帰還率となっています。この在籍数等は前記の数字とはやや異なるものの鹿児島県奄美大島等よりの送出分とみられます。

この「伊漢通開拓団」の団長は奄美大島出身であった安田宗幸と言う方が務めています。この方は奄美大島の笠利村出身で、あの加藤完治の関わっていた日本国民高等学校の出身であると言います(『沖縄と満州』より)。

また、この「伊漢通開拓団」と比較的近い場所に入植していたのが、鹿児島県からの送出では最も遅い昭和19年(1944年)送出の「大羅勒密竜郷村(た-らみ・たつごう・そん)」開拓団で、奄美大島の大島郡竜郷村よりの分村開拓団として、やはり方正県の中の大羅勒密鎮に入植しています。『満州開拓史』に拠れば在籍236人と中規模程度の団で、死亡等非帰還は170人、帰還66人で、ここも帰還率28.0%と犠牲の多かった団のようです。

この大羅勒密(たーらみ)鎮は、私にとってもとても馴染のある村で、平成17、18年と2年続きでかの「松花部隊」の調査等でこの大羅勒密鎮から、泰阜村開拓団などが彷徨った老爺嶺ロウヤレイ山中の踏査に踏み入った起点の場所でもあります。また、前述の記念館として現地調査に入った平成26年(2014年)の際にも、この大羅勒密鎮に入り、現地の古老の聞き取りをしたり、かつての開拓団の跡地、あるいは逃避行する日本人開拓団員らが濁流に呑まれていったと言う大羅勒密川の畔などを訪ねたりしています。

「九州村」開拓団の跡地付近。遠くに万宝山マンポウザンが見える。この山頂に松花江まで届く大砲を据えた日本軍の砲台があったと言う。(2014.6.15。黒龍江省方正県大羅勒密鎮にて)

この時、訪ねた開拓団の跡地と言うのは写真(上)で見る通り、今は一面の畑となっていますが、かつてこの辺りには「九州村」という開拓団が生活していたとのことであり、今も畑の中からは当時の日本人開拓団員が住んでいた住居に使われていたレンガ片などが沢山残されており、私たちもこの畑の中を少し歩いただけで、それと判るレンガ片を広い集めることが出来ました。(写真下2枚)

「九州村」開拓団の跡地付近に広がる畑の中でかつての開拓団の住居跡などを探す。(2014.6.15。黒龍江省方正県大羅勒密鎮にて)

「九州村」開拓団の跡地付近の畑の土中から掘り出されたレンガ片。かつての開拓団の住居のものと言う。(2014.6.15。黒龍江省方正県大羅勒密鎮にて)

この開拓団は正式名称は「大羅勒密(たーらみ)九州村」開拓団と言い、長崎県を除く九州各県からの送出で昭和13年(1938年)の入植、『満州開拓史』に拠れば在籍380人とこれも中規模程度の団で、死亡等非帰還は256人、帰還124人で、ここも帰還率32.6%と犠牲が多い団でした。ここも含め、方正県に入植の各開拓団の帰還率はいずれも20~30%台と低く、この方正県一帯が開拓団の犠牲の多かった地域であることが判ります。

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