「シベリア抑留体験者の話を聞く 2回目」2016年6月11日(土)

2016年

 前回からのUさんの話の続きです。(4月18日(月)の記事と重複する部分があるかもしれませんが、ご了承ください。)

Uさん

昭和19(1944)年10月、関東軍、広島で2週間の準備、満州の石頭へ。第一機動砲兵部隊、
実は戦車部隊、終戦でロシアの重戦車に驚く、日本のものは軽自動車並み。
幹部候補教育部隊、満州全体から3600人。

7月から訓練、ロシアの戦車を止めるため国境へ。岸壁の母のモデルとなった息子で、立教大学から学徒動員で来た人がいた。
4月、関東軍が南方へ この時の母子が、後の多くの残留孤児になった。
自分は、命令で残され、毎日、モロッコに爆弾を積んで戦車に飛び込む訓練、任官予定。

8月9日、夜明けの歩哨、変な音、ロシアの飛行機、「戦闘状態に入れ」の命令があった。
戦車編成に。私は、徒歩で十文字山、両脇にタコつぼ、ロシア軍は来ずに、それで終わり。

昭和20(1945)年、8月14日 敦化(トンカ)で武装解除に。丸腰になる。
         8月21日 作業大隊編成、254大隊所属 日本の食料2年分をロシア軍より、貨車へ
              積み込み作業をさせられる。

        11月20日 シベリア ゴーリン75収容所 500~1000人単位
昭和21(1946)年 4月 ホルマリ205収容所へ
          7月 沿海州へ
         11月 405へ

昭和23(1948)年 12月 ライチハ19へ
昭和24(1949)年 8月  ナホトカへ     関東軍50万人が2000ヶ所に4年間
         9月20日 舞鶴へ

抑留中の生活

収容所は木造のバラック1ケ所に500名から1,000名が収容されていた。
①食事は、1日1回の300gの黒パンとコーリャンのスープ。1人に飯盒3分の1,薄めて大量にしている者もいた。大きな窯にサケ・マスを入れ、何時間も煮て溶かしたスープにしたこともあった。

②作業は場所によって異なるが、伐採。2~3日走る、囚人の建物であるバラックが多く、それを修理して入った。建築、レンガ積み、セメントは使わない。鉄道の路盤工事、シベリア鉄道、ツンドラの山を崩し、石を路盤にする。穴を開け爆破、広げるのが日課、炭鉱、露天掘り、ダイナマイトで爆破。
1人にノルマがある。査定する。隊長として小屋に入れられて寒くて、足踏みをしていないと、ノルマ100%はできない。

③民主化運動について  ロシアの政治指導部のもとに日本新聞という新聞が発行され、収容所に配布され、戦後の日本の国内状況やロシアの復興の様子が宣伝されていた。
さらには、日本新聞編集委員の名で日本新聞友の会に「集まれ」の呼びかけが行われていた。

④民主化運動の講習会の開催 反ファシスト講習会の名のもとに、長期は3ヶ月、短期は20日間の日程で、各収容所から選抜された日本人を講習会に呼び、講習が終了した者は収容所に帰して、それぞれの収容所で活動していた。

⑤健康管理について 私はある日、突然40度位の熱を出して、ゴーリンの病院に緊急入院させられた。
病院に着いたら、丸裸にされ、40度の高熱があるのにシャワーを浴びせられたのにはビックリした。
入院してから薬もなく、1ヵ月程、毎日寝ていたが不思議に熱が下がり、退院した。
医者がいない。薬も一回も飲まなかった。毎日、体温計の測定、その程度の医者、看護婦が尻をつまみ、たるんでいると軽作業班にまわされる。

参加者の感想

・「戦争はよくない」「記録として残さなければならない」は、大事だか、『なぜ、戦争になったか』
の根源に迫ることが大事、「戦争の哲学」とでも言える。

・日清戦争、日露戦争を通じて軍国主義が醸成され、「モノがなくても勝てる」などの非科学的な精神主義で無茶な戦争で多大な戦争を払った。「ナコヨカ、ヒットベ」の鹿児島の格言がその象徴、明治政府を主導した薩摩、8公2民の重税、奄美の砂糖の搾取、その犠牲の上に英国留学や明治維新が出来たこと、酷な大名を名君と持ち上げ、それを強調することが定番になっている鹿児島の風土、今でのアナクロニズム的なことをやっていたりする。

・生徒の感想文に「今は自由に話せる」とあったが、秘密保護法など、気付かないように少しづつ変え、「気付いた時にはどうすることもできない状況になっていた、というのが戦後の反省である。おかしな芽は、小さいうちに気づいて対応しなければならない。

・満州にでは爆弾よりもロシア人が怖かった。

・大豆カスをフライパンで炒って食べた。

・中国や満州にいた日本人は、中国人や満州人を「満人(マンジン)」、朝鮮人を「鮮人(センジン)」と言っていた。

まとめ

参加者の口から、南京虫、「露輔」(ロスケ)、「マダム、ダワイ」などの単語が出ていました。
その中にいて感じたことは、蔑視しながらも、服従せずには生きていけない土地に居合わせた時代を生きてきた人たちなのだということでした。    協力:記録メモ 田頭壽雄さん 筆責:山下春美

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