広島や長崎の原爆、そして、今月6月23日の沖縄慰霊の日ことは、忘れてはならない大切な日のはずなのに、歴史年表の出来事のひとつになってしまって、忘れてしまう、そんな私がいます。
しかし、そのような私に、「語り継ぐ集い」の有志の一人、瀬下三留さんから「沖縄慰霊の日に寄せて」という投稿を頂きました。
自分だけでは忘れてしまいますが、忘れてさせてしまわないように促してくれる人がいることは有難いことだと思います。
「沖縄慰霊の日」に寄せて 瀬下 三留
6月23日の沖縄慰霊の日に向けて、投稿しようと牛島大将、太田実中将に加え新しく八原参謀について調べている矢先に、フェイスブック知り合いの由川さつき氏さんが素晴らしい投稿をしていました。
私が言いたい事そのものでした。
その投稿を集いのブログに上げてもよいか、由川さんへお願いしたところ、「いいです。」との返事でしたので、由川さつき氏のフェイスブックをそのまま転用、投稿します。
毎年6月23日は日本軍の組織的な戦闘が終了した日であり、今や平和への慰霊の日となっています。
沖縄戦については「沖縄は本土の捨て石にされた」という否定的な思いや「沖縄県民かく戦えり後世、沖縄県民に特別のご高配を」などの遺書の言葉が県民を理解する感情が飛び交い、さまざまな思いがあるようです。
いづれにしても歴史は陽もあれば影もあり、一方的ではないと思っています。
【由川さつき氏のフェイスブックへの投稿より】
沖縄慰霊の日🙏
6/23の沖縄について、調べてました。
島唄、ただ好きで、意味も知らずに歌ってた。
無知は、罪だ。
以下、諸々、コピペします。
新聞記事に対して、すごく解りやすく解説してくださっている方があられましたので、許可をいただき、その方のコメントも、コピペさせていただきます🙏
私は、
8/6
8/9
8/15そして忘れてはならないのが、6/23だ
牛島司令官自決の日
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以下コピペ
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🕊️平和の詩🕊️
亀谷琉奈さん(14)
「生きたいと願った証」(全文)
あの日の沖縄には
青い海も
優しい風もなかった
空は黒く
地面は揺れ
人々の叫び声が絶えなかった
爆撃の音が
心まで壊していくまだ若かった曾祖母は
小さな体で必死に走った
血だらけの道を
倒れた人たちの横を
もう動かない人を見ながら
涙を流す暇もなく
ただ生きるために
そして
愛する夫の命を案じながら
「お願い 生きていて」
その想いだけを胸に
足がもつれても
呼吸が苦しくても
転びそうになっても
前へ前へと走った
しかし
その願いは
もう二度と届かなかったその時のことを話す曾祖母の声は
今でもとても優しい
でも 私は知っている
その優しい声の奥に
今も消えない悲しみがあることを
細い足
しわしわの手
小さな背中
長い年月を生きてきたその姿を見るたび
私は戦争の重さを感じる
そして
曾祖母の右足には
今も傷が残っている
それは
戦時中 自分で引っ掻いた傷
灰色の空の下
爆撃の音が鳴り響く
恐怖と不安でいっぱいになり
右手に握った石で
自分の右足を何度も何度も引っ掻く
気づけば手も足も血だらけだった私が真実を知った時
胸が締めつけられた
どれほど怖かっただろう
どれほど苦しかっただろう
生きたい
死にたくない
その想いだけで
曾祖母は必死に生き延びた戦争は人を傷つける
体だけじゃない
心まで壊してしまう
家族と笑う時間
友達と過ごす日々
「また明日ね」と言える幸せ
そんな当たり前を
全て奪ってしまう
でもそれは
当たり前なんかじゃない
血と涙の中を生き抜いた人たちが
命を繋いでくれたから
今の私たちがいる
もし曾祖母が
あの日 走っていなかったら
もし
あの日 命を落としていたら
私はここにいなかった曾祖母の右足の傷は
ただの傷じゃない
「生きたい」と強く願った証
「戦争は二度としてはいけない」
という叫び
私はその想いを
これから先も伝えていく
もう誰にも
血だらけの道を
走ってほしくないから
もう誰にも
愛する人の命が奪われることに
怯えてほしくないから
もう二度と
沖縄の空を戦争で
染めてはいけないから平和は当たり前じゃない
たくさんの人の涙と苦しみと
「生きたい」という願いの上にある
だから私は忘れない
沖縄戦で苦しんだ人たちを
愛する人を守ろうとした想いを
泣きながら生き抜いた人たちを
そして
曾祖母の右足の傷を
「生きたい」と願った証の傷を
平和な未来へと繋いでいくために
ーーーーーーーMinaminaoita Suさんのコメント
【沖縄戦の概要:住民を守ろうとした軍と、犠牲を増やした県庁の逃亡】
沖縄防衛軍は、南部で激戦になることは沖縄戦開始前からわかっていましたから、早くから県庁に住民の北部避難を要請し、貴重な軍の車両や舟艇の提供まで申し出ていました※1、※2
言うまでもなく、住民が無意味に犠牲になるのを避けるためです※3
実際、軍の要請どおり北部に避難した住民は、多くが助かっています
にもかかわらず、住民避難の責任を負う県庁は、北部避難を十分に実行せず、そのため本島南部には多数の避難民が取り残されていました
しかも、県知事は軍の喜屋武撤退を決定当日の5月22日に知らされ、知念半島には撤退しないことをリアルタイムで知っていたにもかかわらず、何の代案もなく反対しただけで、避難民を、軍の撤退する喜屋武半島と反対側の知念半島に誘導することもしませんでした※4、5、6、7
琉球新報は、知事が「南端の水際まで下ることになれば、戦線を拡大することになり、県民の犠牲を大きくする」と言ったと書いてます
しかし、知事が軍の撤退しない知念半島に避難民を誘導していれば戦闘は起きませんから、沖縄防衛軍の喜屋武撤退で避難民が巻き込まれることはなく、軍が撤退しなかったのと同じ状況になります
それゆえ、琉球新報が軍の喜屋武撤退を「多大な犠牲を招く決定」と書いたのはウソで、実際は、県庁が避難民を軍のいない知念半島に誘導しなかったことが、多大な犠牲を招いたのです
そして撤退に反対した当の知事や県庁自身は、軍司令部より3日も早い24日夜に首里から撤退し、自分たちが逃げるだけで何もしませんでした(司令部の撤退は27日夜)
いったい何のために、軍が決定当日に喜屋武撤退を県知事に教えたと思っているのでしょうか
そのため、実際に喜屋武半島に撤退して県庁が住民を避難させていないことを知って驚愕した現場の24師団は、29日に県知事を呼び、危険だからすぐに知念半島に避難させるよう注意しますが既に手遅れ※8
しかも県庁は、軍が喜屋武半島に撤退することを知らされた5月22日に知事が猛反対し、それゆえ知念半島に撤退しないことを知っている記録が残っているのに、「知念半島が安全地帯(=軍の撤退しない場所)とは知らなかった」と、ウソの言い訳までします※9
今の「何もしないで、叱られると逃げるデニー」を見ているようで、本当に腹立たしい限りです
にもかかわらず6月7日、そんな知事に牛島司令官は「貴方らは文官だからここで死ぬことはない」と、優しい言葉をかけています
わかりやすく言うと、「私は軍人だから自決するが、あなたは軍人ではないのだから、知事としての職責を果たした後は逃亡するか投降しなさい」と言っているのです※10
しかし県庁は、避難民誘導の職責をろくに果たさないまま、軍司令官にその言葉をかけてもらった直後の6月9日、沖縄防衛軍や海軍、一部の県民らが必死に防戦する中、喜屋武戦線が全く崩壊していないのに解散し、難民に紛れて逃亡してしまいました※11
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【根拠一覧】※1
政府が戒厳令(今、議論されている非常事態条項)の適用を見送ったため、沖縄は軍政になっておらず、住民の安全確保や疎開は、この段階でも沖縄県庁が責任を負っていましたそのため軍は県庁に住民を避難させるよう命令できず、要請しかできない立場でした
※2
第32軍の高級参謀八原はこれでは不足と考え、より具体化した「南西諸島警備要領」を作成した[384]。(中略)60歳以上の老人、国民学校以下の児童、ならびにこれを世話するに必要な女子は、昭和20年3月までに、戦闘の予期せざる島の北半部に疎開させる。
各部隊は所属自動車、その他の車輌、並びに所属舟艇を以て極力右疎開を援助する。
爾余の住民中、直接戦闘に参加せざる者は、依然戦闘準備作業、農耕その他生業に従事し、戦闘開始直前急速に島の北半部に疎開させる。
県知事は島の北半部に、疎開民のための食糧や居住施設を準備する。(Wikipediaより)
※3
沖縄防衛軍司令部が住民の犠牲を避けようとしていたことから、軍司令部が住民に集団自決を命ずることなどあり得ないこともわかります集団自決させるつもりなら、貴重な車両や舟艇の提供を申し出てまで、県庁に住民の避難を要請する必要などないからです
※4
長野(作戦参謀)に軍最後の陣地を計画立案するように命じた。…概要以下のとおり1、喜屋武半島に後退
2、知念半島に後退
3、首里複郭陣地に拠る…5月22日、夜幕おりるとともに、各参謀長ならびにこれに準ずる人々は、砲爆の間断を利用して参集した。
…私は三つの案に対する率直な意見を求めた
《「沖縄決戦 高級参謀の手記」(八原博通/中公文庫) 323-330頁》※5
第32軍は首里防衛線の崩壊の懸念が高まると、持久戦を行うには一番条件がいい沖縄南部の喜屋武に撤退し戦略持久作戦をとることとした
《吉田俊雄 2013, p. 280.》※6
5月末の軍団長会議に同席した島田は、撤退の方針を知らされ、「軍が武器弾薬もあり装備も整った首里で玉砕せずに摩文仁に撤退し、住民を道連れにするのは愚策である。」と憤慨。そのとき牛島満司令官は、「第32軍の使命は本土作戦を一日たりとも有利に導くことだ。」と説いて会議を締め括った
《大田昌秀著「これが沖縄戦だ」》※7
南部撤退決定後の5月22日に島田叡知事に知らされ、首里近辺の非戦闘員の南部島尻地区への撤収が指示された。
《戦史叢書11 1968, p. 621》※8
第24師団から島田知事のもとへ「軍民協議会を開きたい」との緊急連絡が届いたのは、5月29日である。… 軍は「地方人(軍隊用語で言う民間人)がこの地域にいては作戦の邪魔になる。そこで早急に彼らを安全地帯の知念、玉城方面へ立ち退かせて欲しい」という要求だった。
《「沖縄の島守 内務閣僚かく戦えり」(田村洋三/中央公論新社) 350-351頁》※9
「(5月29日に)初めて、県民を戦禍から救うために知念、玉城方面が安全地帯として指定されたことを知らされた」
(「沖縄の島守 内務閣僚かく戦えり」(田村洋三/中央公論新社) 350-351頁より)※10
島田と沖縄県警察部長荒井退造は6月7日前後に牛島のもとに訪れている。アメリカ軍上陸後は、住民保護の件で対立することの多かった牛島ら第32軍司令部と島田・荒井らの沖縄の行政の責任者であったが、牛島は憔悴しきっていた島田らに「貴方らは文官だからここで死ぬことはない」という言葉をかけている[7]。(Wikipediaより)※11
戦史叢書11 1968, p. 620ーーーーーーー
【慰霊祭:牛島司令官自決の状況】
6日23日は沖縄を守るために命の限り尽力した牛島司令官が自決した日で、沖縄では毎年、総理を招いて大規模な慰霊祭が行われています。それゆえ自決前後の状況を、以下、少し詳しく書きます
6月18日、部隊間の通信が殆ど途絶しようとしていたため、牛島司令官は最後の命令として、参謀らを含む残存部隊に対し、遊撃戦に移行するなどして生き延びて戦うよう、海軍司令官と同様の命令を出し、大本営等に決別と辞世の句を打電
その命令に基づき若手参謀、鉄血勤王隊員の大田昌秀(当時20歳。後の沖縄県知事)らは19日夜、司令部壕を脱出(八原高級参謀は軍司令官らの自決を見届けるため、危険を覚悟で残留)
これにより大田青年は生き延びます
そして、21日に来た決別電の返電により司令部は初めて米軍司令官の戦死を知り、敵の司令官を先に討ち取ったことに狂喜しますが、牛島司令官は喜ぶことなく静かに米軍司令官の死を悼みました
それを見た八原らも改めて襟を正します
そして22日、司令部壕直上の山頂を米軍に奪われ、牛島司令官は翌23日黎明での自決を決意。22日は泥水で煮た握り飯1つで最後の晩餐
参謀長は八原に、司令官の自決を見届けなくていいから手遅れにならないうちに脱出するよう勧め、
「お前とは、大東亜戦争の起こる直前、サイゴンでよく飲んだね。あのホテル・マゼスティックの横の映画館で見た『ダニューブの漣波』というのは美しい映画だった。」
・・と、戦前における海外駐在時代の思い出を語ります
そして「俺は着任の当初から、決してお前をこの島では殺さぬと言っていたが、その約束を果たし得て満足だ。お前の戦線突破は必ず成功する。一気呵成は禁物だ。1日かかるところは3日かけてやれ」と八原を気遣います
八原高級参謀は涙をこらえ、参謀室に戻りました
そして翌23日午前4時半頃、牛島司令官と参謀長が司令部壕海岸出口付近で自決。八原らはそれを見届けてから、夜、命令どおり壕を脱出しました
八原の任務は難民に偽装するなどして何とか戦線を突破し、大本営に戦訓報告をし、本土決戦に参加することでした※4
なお牛島軍司令官自決後も、沖縄防衛軍は北郷大佐率いる31連隊が国吉台丘陵(「平和の礎」のある糸満市郊外)に健在で組織的戦闘を継続しており、8月の終戦まで最終陣地を守り抜くことに成功します※2、3
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【根拠一覧】※2
日本第32軍の歩兵第32連隊(山形)が中心となって、米軍の食料などの物資、多数の自動小銃や軽機関銃などの兵器を奪取して国吉台(現、沖縄県糸満市)の洞窟陣地を堅持し、完全な指揮系統を保って遊撃戦を展開。昭和20年8月29日の沖縄戦終結時点でも連隊長の北郷格郎大佐以下、約300人が残存しており、組織的戦闘を継続中でした
https://ja.m.wikipedia.org/wikiなお、終戦時点での沖縄防衛軍最高指揮官である北郷大佐は、8月28日の連隊旗奉焼の際、連隊旗手の斎藤中二郎中尉が手榴弾で自決しようと決意しているのを察して、「斎藤、勝手な行動は許さんぞ、連隊の行動すべての責任は自分にある。軍旗も同様だ、旗手たるお前ももちろんのことだ」と厳しく諫めました。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E9%83%B7%E6%A0%BC%E9%83%8E※3
8月25日、(第1大隊長の)伊東大尉は北郷連隊長に確認結果を報告し、伊東大尉が武装解除の交渉を一任された[6]。
翌26日、伊東大尉は再び米軍司令部に赴き、
①「武装解除は8月29日」
②「27日から29日まで、連隊陣地周辺の約2平方キロメートルの地域での昼夜を問わず自由行動を認める」
③「自由行動地域の周りに米軍が歩哨を配置して、自由行動地域内への米兵の侵入を防ぐ」
・・の3条件で合意した[6]。歩兵第32連隊は8月28日に軍旗を奉焼し、翌29日に武装解除した[6]。この時点での残存将兵は約300名であった(配属部隊を含む)[6]。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A9%E5%85%B5%E7%AC%AC32%E9%80%A3%E9%9A%8A※4
「沖縄決戦 高級参謀の手記」(八原博通/中公文庫)ーーーーーーー
新聞記事コピペ
↓↓↓沖縄タイムス+プラス ニュース
社会・くらし
【全文】沖縄慰霊の日「平和の詩」朗読した14歳 曽祖母の「生きたいと願った証」を未来へ平和の詩を読み上げる亀谷琉奈さん=23日、沖縄県糸満市の平和祈念公園(銘苅一哲撮影)
平和の詩を読み上げる亀谷琉奈さん=23日、沖縄県糸満市の平和祈念公園(銘苅一哲撮影)
【全文】沖縄慰霊の日「平和の詩」朗読した14歳 曽祖母の「生きたいと願った証」を未来へ
公開日:2026年6月23日 12:44
更新日:2026年6月23日 12:46
社会・くらし
はてなブックマーク慰霊の日
沖縄戦
平和の詩
戦後81年
戦後81年の「慰霊の日」の23日、沖縄県内各地は鎮魂と平和の祈りに包まれた。沖縄戦最後の激戦地となった糸満市摩文仁の平和祈念公園では、沖縄全戦没者追悼式(主催・県、県議会)が行われ、疎開先で爆撃の中を「生きたい」と強く願い生き延びた体験者のひ孫が、平和の詩を朗読した。
今年、「生きたいと願った証」と題した詩を朗読したのは豊見城市立豊崎中学校2年の亀谷琉奈(るな)さん(14)。曽祖母から戦争の話を聞いたのは5歳の頃。右太ももに「戦争で生き抜いた証し」の傷痕が残っていた。曽祖母は戦時中、石垣島から北マリアナ諸島のロタ島を経由して台湾に疎開した。
灰色の空の下、空襲から逃げ、倒れて動かない人たちが横たわる道を「生きたい、死にたくない」と懸命に走った。恐怖と不安でいっぱいになり、気が付けば右手に持った石で自身の右足を何度も引っかき血だらけになっていたという。
極限の状態でも生きることを諦めずに生き延びた曽祖母。亀谷さんが戦争の話を聞いたのは、その一度きりだった。いつもの明るい笑顔は消え、曽祖母が流した涙が忘れられない。
亀谷さんは「曽祖母が命をつないでくれて、今の私がいる」と語る。詩を通して「一人一人、戦争に対する思いや記憶が違う中で、平和について考えるきっかけになってほしい」と思いを込めた。平和の詩の応募は846件あった。(社会部・屋比久賢太)

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