終戦
8月に入ると満州はさらに治安が悪くなっていきました。
聞いた話によると、関東軍は満州から南方に転戦して満州警備は手薄になったらしいとの事でした。
深志さんは新京に出征したらしいのですが、その後何処へ行ったのか。
どのようにしているのか。
また無事でいるのか全く様子も分かりません。心配で心配でたまりませんでした。
マサちゃんが汗を拭き拭き「姉ちゃん、いま天皇陛下の話がラヂオであった。聞いていたけど分からなかったので、周りの人に聞いたら日本が負けたと」
まさか・・・・・、日本が戦争に負けるなんてことはないはず。日本は神国だから負けるわけがない。
何かの間違いだと思ったのです。
戦争に負けるとはどういう事なんだろう?
私たちは米英の奴隷になるのでしょうか?
8月18日には満州国も消滅した、と聞きました。
いよいよ満州にいる私たちはどうなるのでしょうか?
もう戦争なんてこりごりだわ。
私はこれからの不安にさいなまれていたけど、戦(いくさ)が終わってホッとした自分の気持ちに罪悪感を感じていました。
それでも3ヶ月前に出征したたくさんの満州召集の兵隊さんたちはどうなるのよ。
深志さんは戦争するために鞍山に来たのじゃないのよ。
いろんな思いが,脳裏をよぎりました。
満州では、本当の戦争の悲劇は終戦から始まったのです。
敗戦と同時に、満州は大連、旅順もソ連軍の支配下に置かれたのです。
日本人の多くは、家を没収され共同生活を余儀なくされました。
私と政盛も同じような状況でしたが、かかりつけの石川病院の前田睦朗先生のおかげで病人で隔離が必要と言うことをソ連軍に交渉してもらって、その惨状からは逃れられました。
石川病院の石川義助院長先生は、戦争直後の混乱期に医者として日本人居留民や八路軍、国民党軍の傷病兵の診察に当たったばかりでなく、居留民会の代表として逮捕された日本人の釈放運動に奔走し、軍人や脱走日本兵をかくまうことに対しても、度々命がけの行動をとられた立派なお医者様でした。
そんな石川病院でも突然、病室の外が騒がしくなってきました。
ソ連兵らが「ジェーンシチナ、ジェーンシチナ」と女を求めて入り込んできたのです。
私は怖くなって、布団をかぶって息を殺していました。
私にも、ソ連兵の毒牙が及ぼうとする中、前田先生がロシア語で「・・・」何か叫んでいました。
そうして、しばらくすると、ソ連兵の声はしなくなりました。
金子婦長さんがやってきて、「先生はドイツに留学していた頃、ロシア人学生と親しくなっていて、ロシア語も話せるんです。そこで『その患者は結核でお前ら、感染するぞ!感染したら、お前ら死ぬしかないぞ。』と怖い口調でソ連兵を追い払ってくださったの。」
私は、寝台の上で先生に手を合わせて感謝しました。
ソ連兵が女を求めて、病院にも乗り込んでくるので、若い看護婦は内地へ引き揚げていて、年配の看護婦長の金子さんがひとり残っていて、看護をしてくれていたのです。
終戦当初の鞍山の街は、ロスケ(ソ連兵)が占拠していましたが、のちには八路軍が入れ替わりに街を支配していきました。
八路軍は国民党軍と内戦をしながら鞍山の街を徐々に支配していったのです。
その頃の私の病状は、一進一退で決して改善している方向にはありませんでした。
ソ連軍の支配下では女は暴行、陵辱から逃れるために髪を短くし、顔をススなどで汚して男の振りをして過ごさなければなりませんでした。もうその頃の石川病院は、日本人の患者は、私と数名になっていたのです。
八路軍の兵士の方が、患者としての数は多くなっていました。
深志さんはきっと無事に生きているに違いないと思っています。
なぜなら、戦死公報が来ていないのですから。
でも、話によると、満州にいた関東軍兵士たちはシベリアへ送られたと言うことを聞き、深志さんもシベリアへ送られたのではないかと心配でどうしていいかわかりませんでした。
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