「平和美術展」と「ナガサキ原爆展」・「鹿児島市の戦災と復興資料・写真展」8月15日

2025年

「平和美術展」

鹿児島市立美術館地下展示ロビーで開催されていた、左記「平和美術展」を見に行きました。8月17日(日)まで開催しています。

これまでは、鹿児島市役所の市民ギャラリーで毎年展示されていましたが、今年初めて鹿児島市立美術館で開催されました。これまでの展示の内容は、下記HPでご覧になれます。
かごしま平和美術愛好家 平和美術展

会員の方々は、作品を製作されるにあたり、各地の戦跡(大隅・出水・奄美・沖縄)を巡り、戦争の実相を肌で感じることをされていることに驚きました。

「戦争を語り継ぐ集い」の有志である
宮元篤司さん(大島紬布絵作家)の桜島を福山町から描いた作品「友達と」は、世界の人が仲良しであることを願う思いが込められた作品だそうです。
(宮元さんの作品は、大島紬の布地を切り、貼り絵の様にして製作された独自の作品です。(9月19日(金)~29日(月)ギャラリー白樺で展示会開催

かごしま平和美術愛好家 代表鈴山市郎さんの作品は、「鹿児島大空襲で燃え上がる市街地の様子や焼け焦がれた死体が累々と連なる様子などを描いてみました。」と書かれていました。鈴山さん自身は戦争体験者ではないので、体験者の話を鹿児島市HPで読み、その時、その場に、自分がいたならば、ということを深く想像して描かれたと聞きました。

鹿児島市ホームページより「本市における戦災の状況より」一部抜粋

昭和20(1945)年6月17日 鹿児島空襲

鹿児島市に投下された、この夜の焼夷弾は13万個(推定)(「鹿児島市史」)とみられ、わずかの時間で鹿児島市内は火の海と化した。

市民は阿鼻叫喚、右往左往して逃げまどった。紅蓮の炎は一晩中燃え続けた。

一夜明けると、鹿児島市は一望千里の焼け野原と化し、余じんがくすぶり、焼けこがれた死体が累々と連なる悲惨な姿になっていた。

見渡す限り、ただ瓦礫の街、電線は焼き切れて垂れ、電車線は折れ曲がり、焼けた電車、自動車が哀れな残骸となり、切断された水道からは水が噴き出ていた。

肉親、知人の姿を求めて、焼け跡を掘る人、ぼう然と死体を焼く人、病院、薬を求めてさまよう人々が痛々しかった。

感想 山下春美 

展示作家さん、お一人お一人の戦争への嫌悪、辛い思い、平和への願いなど、作品となって生み出されている強い思い、訴えを感じました。このような方法で、平和であることの大事さを訴えることができるのだと、感動して、圧倒された感のある展示会でした。    

市立美術館の階下での展示会にて     S・Mさん

空爆音(たまおと)に 防空壕(ガマ)で震えし ハナタレも 八十六歳 平和尊し
この和歌が詠まれてました。
もう八十年過ぎた事の意味を思います。

Don’t Shoot
撃たないで

悲壮感に溢れた大絵画でした。

中央公民館にて

おにぎりをもらって呆然と立つ母子

わが子を胸に救援所を探す父

負傷した弟を背負い、さまよう少年

無辜の多数の市民が理由もなく受ける惨劇。
被害にだけ向かないで、加害にも向き合ってという声があるのも理解するが、やはりこういう実相に接すれば被害に胸が締め付けられます。

「ナガサキ原爆展」と「鹿児島市の戦災と復興資料・写真展」 

鹿児島市中央公民館で、8月11日(月)~17日(日)開催されており、見に行きました。

整理された展示で、とても分かりやすいでしたが、私自身、あまりにも辛くて、胸が痛くなりました。
人間とは、何故こんなにも愚かなことをするのかと、自問自答せずにはおられませんでした。

鹿児島市収蔵の戦災に関する資料展示もありました。貴重な品々ばかりだと思います。
鹿児島市は、「平和都市宣言」をしていますが、戦時中の資料や記録が学術的に整理保存されている場所がないと思います。

今回展示されていた品々を常時見ることのできる施設をぜひともつくってほしい、と思います。

映像で見るコーナーが設置されており、子供たちが数名見ていました。
私は、展示を見ながら、声が聞こえてきたのですが、ちょうど「ながさきの子うま」というアニメだったと思います。
子うまの親子が仲良く過ごしている時に、原爆に遭い、母親の馬が、子うまに「先に逃げなさい、お母さんは後から来るから、心配しなくていいから。」すると、子うまが「ホント、お母さん、必ず来てね。」というセリフが耳にはいりました。

その言葉を聞いただけで、胸が苦しくなり、私は会場を出てしまいました。
戦争を起こしてはいけません。これは、私たち一人一人の問題です。17日午後2時から被爆体験者のお話があるとのことでした。

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