第三章
鉄の町 鞍山(アンシャン)
末廣の弔いを済ませて、慌ただしく役所での住民移動の手続きなどを終わらせた夜、今まで四人だった家族が夏江と母との三人になった寂しさも相まって、狭い我が家の貧相さを感じながら、三人の最後の我が家での質素な晩御飯を食べたのだった。
一人になった母の事は心配ではあったが、2年したら帰ってくると約束して最後の夜を過ごした。
汽車と船を乗り継ぎ、大連に着き、そこからまた満鉄に乗って3時間以上かけてやっとの思いで着いたのが鞍山駅だった。
満州の11月の空気は乾燥していて、寒さは想像以上のもので夏江の寒さへの不安は的中した。そのあまりの寒さに、二人とも言葉が出なかったが、聞いていた住所を頼りに黙々と社宅まで歩みを進めた。
鞍山は大きな町で、聞いていた場所を間違いながらもやっと社宅を探し当て、ここがこれからの住処かと二人で,ほっと一安心した気持ちになった。
その安堵感は、私に半ば無理矢理に連れてこられたような夏江のほうが強かっただろうと思った。
鞍山の社宅に着いて家の中の調度品や生まれて初めて使う暖房器具のペチカなどの,使い方をわからないながらも使えるようにならないといけない、このままでは寒さで凍えてしまいそうと何とか使い方をその日に習得した。
翌日から早速、昭和製鋼所に出勤しなくてはならなかったので、その日はそのまま就寝する事にした。
私が働き始めた昭和製鋼所には、第一製鋼所と新しく増設された第二製鋼所があり、私たち日本人の新人工員は第二製鋼所に割り振られたのだった。
そこでは、高炉で作られた銑鉄をコークス・ガスで加熱した混銑炉に溶銑状態で貯蔵し、製鋼工場で鋼塊に変えてから、分塊工場で鋼片、小鋼片、シートバーの半製品に加工し、これらをさらに各圧延工場で鋼材、薄板等に仕上げていた。
私も最初はこの大きな第二製鋼所の広さに圧倒されながら、初日は職場見学しながらも翌日からは副工場長の岡上さんに仕事の部分部分を学び、昭和製鋼所の特徴技術である鉱石合併法という、銑鉄中の珪素による炉床の傷みを防ぎながら、なおかつ屑鉄の消費量を削減するために採用された製鋼法の指導を受け、その一部を担当する役割も担うことになった。
鉱石合併法の必要性は対米関係悪化により、屑鉄購入条件がこれから窮屈になってくる事で、製鋼原料に必要な屑鉄を社内発生屑で賄えるようにと技術革新してきたのだった。
ここでの仕事を一から教えてくれたのが、副工場長の岡上さんであり岡上さんは第二工場新設稼働の時に入社したと言っていた。
岡上さんは、同じ九州の宮崎県都城出身で、郷里も近く年のころも近いため気が合い、よく昼メシの弁当も一緒に食べることも多かった。
私たち日本人は一年もすると上からの作業指示を、朝鮮人や満州人に伝達する役割も任されていった。
そのような仕事をすると、朝鮮人や満州人の気質も徐々にわかってきて、時にはこちらもはイラつき怒りながらでも個人的にはいい関係が保てるようになってきた。
ある日の昼休みに私は川内で靴の誂えの仕事をしていた話をしたら、岡上さんが自分の話をしてくれた。
「自分は都城で名産の木刀を親父とふたりで作る仕事をしとった。なんで都城が木刀の産地がちゅうと、江戸末期薩摩藩だった都城は薩摩示現流が盛んで森林も多いことから、その関係で木刀作りが盛んじゃったと」
「木刀はどげんして作っていっとですか?」と質問すると、
すぐさま「木材を粗削りして木刀の形にして、そこからカンナでカシャカシャと削って表面を滑らかに仕上ぐっとですよ。そげんするとかつお節を削ったごと足元にカスが散らかっとです。こいが木刀は切っ先三寸が命、まさに木刀の今んごと反りのある形は大正時代に師匠の荒牧さんちゅう人が完成した形です。」と答えてくれた。
その話を聞いて、岡上さんは木刀作りが好きなんだなあ、と思ったりした。
私が、本当は靴屋が好きなように、岡上さんも都城で木刀を作っていたかったんだ、でも事情があって満州で働くことになったのだろうと、優しい岡上さんの目を見て思った。
岡上さんは朝鮮人にも満州人にも、そして私たち日本人にも優しい人だった。
コメント
ブログ、拝見しました。鞍山は戦前は日本人が沢山働いていました。
戦後八路軍支配下でも日本技術者として留用された人が多かったと思います。
理由は中国人には技術不足?
同級生が、親共に鞍山にいました。日本人学校もあり、良かったようです、
わたしは見捨てられた留用者でした。同級生とは、昭和28年、同じ興安丸で、帰ってきました。
帰還船の興安丸は何度も往復してたくさんの引揚者を連れ帰っていますね。
日本の岸壁が見えた時、どんな気持ちになられたかをまた教えてください
鞍山、撫順、本渓湖、阜新(炭鉱)鶴岡など日本の財閥が造り上げた大企業でした。
現在も稼働していると思いますが。撫順露天掘りの炭鉱でしたが30年前に訪中した頃は掘りとってもう終わりだと通訳が言っていました。
私の最後の長春は、政治、金融、日本人町を造り上げた新都市ではなかったでしょうか。人間の条件のドラマは撫順炭鉱ではなかったでしょうか、私の生地は東満 ロシア、北鮮三角地帯と呼ばれた琿春、図們(対岸が南陽・朝鮮)見違えるような発展ぶりです。1992年訪ねたときは汽車で一昼夜かがって行きましたが、現在は新幹線みたいな電車で3時間くらい、ユーチュウブ見ています。
私も一度は、満州と呼ばれていた地に行ってみたいものです。
行ってみたい気持ちですが、健康に自信がありませんね。
もうお友達もいないと思います。長生きしすぎですです。中国人は割と長生きのようですが。粗食が良いのかもしれませんね。