アーティスト6名と聞く「戦争体験者の歩み」

2022年

4月20日(水)鹿児島市サンエールで鹿児島在住の若手アーティスト(美術作家)6名の方々が、「赤崎雅仁さんの話を聞く会」を開いてくださいました。

現在の「語り継ぐ集い」の活動は、告知をして、関心のある方が参加する、という形をとっていますが、今回は、“戦争体験者の話を聞きたい”という方々の集まりに、お招き頂くという形でした。

赤崎さんの話

赤崎雅仁さんは、1936(昭和11)年、旧満州で生まれ、1953(昭和28)年、加治木の伯父さんのところへ弟さんと二人で帰ってきた、戦争と共にあった幼少時代を資料に沿って話をされました。

赤崎さんの当日配布資料です。青文字の上でクリックすると資料が読めます。

自分の歩み①
自分の歩み②

1時間ほど、赤崎さんの話を聞いた後に、参加者からの質問や感想を頂きました。

≪質問≫

・「満州でずっと暮らしていて、誰も知っている人のいないところへ帰ることは不安ではありませんでしたか?」

  「いいえ、ホッとした、という気持ちでした」

・「戦後、中国へ何度も行かれているのは、やはり自分のルーツを知りたい、
というお気持ちからですか?」

   「はい、そうですね」

・「お母さんは、妊娠している体で、歩いて移動をされたんですか?」
  (終戦末期、疎開するために一週間ほどかけて他都市へ移動したという話から)

  「そうです。そのため生まれた妹は数日後に亡くなりました。母も弱っていて母乳が出なかったからでしょう。」
   

≪参加者の声≫


・自分の祖父も特攻基地の近くに住んでいたと思うんですが、あまり空襲の話など聞いたことがないんです。

・故郷というのは、自分が知っている人がいて、安心する場所というイメージがあるんですが、誰も知らない場所に故郷として、帰っていく、ということはどういう気持ちだったのかな、と思いました。

・祖母も朝鮮にいたようなんですが、あまり詳しく話を聞いていないんです。

・子供を産んでから、戦争というものを身近に感じるようになりました。

感想

今回の参加者は、30代、40代の女性の方々でした。戦争体験者の話を聞いて、どんなことに関心を持たれるのだろかと思い、聞いていました。

女性として、母親として、赤崎さんのお母さんについて質問があったことに、″妊娠中に徒歩での移動を余儀なくされ、当時の過酷な状況で女性がどのように生きたのか興味があったのだと思います。自分に重ねたのかもですね。”と、主催者の方から私に頂いた感想が、身に沁みました。赤崎さんのお母さんのことを、我が事、として聞いてくださっていたのだと。

私自身が、体験者の話を聞くことに慣れてしまい、先入観でしか聞き入れなくなっています。
自分と違うフィールドを持っている方々と出会い、意見を聞かせてもらえた貴重な体験でした。6名のアーティストの方々に感謝します。

そして、赤崎さんの配布資料の最後に書かれていた文章を、共に忘れないでいたいと思います。

『戦争の悲惨さを後世に語り継ぐことが大切であると同時に被害者でもあり、また加害者でもあったことも忘れてはならない。先の戦争で犠牲者310万人と言われ、シベリア抑留60万人の内6万人が死亡している。過去の歴史をしっかりと学ぶことも忘れてはならない、と思っている。』

『私の歩み 1936(昭和11)年 9月29日 』赤崎雅仁

筆責:山下春美

※赤崎雅仁さんには、3月16日、「戦争を語り継ぐ集い」でも「引き上げ」の話をしてもらいました。

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