私の知人から寄せられた、鹿児島駅空襲にまつわる話です。
1.介護の仕事をしている知人が、仕事先の女性Aさんから聞いた話。
昭和20年、当時12歳だったAさん、鹿児島駅近くに住んでおられたそうです。
7月27日は大元の実家がある牧園町に疎開されていて、鹿児島駅の惨劇は目の当たりにはされなかったそうです。
ただ、牧園の実家すぐそばにあった薬局のご主人が、鹿児島市内に薬の仕入れをするために汽車に乗り、到着してまもなく空襲に遭い、爆死されたそうです。
牧園では「鹿児島駅ん空襲でけ死みやったげな」と、悲しみの声がたくさん聞かれ、亡くなったご主人の息子さんと女性は国民学校の同級生でいらしたそうです。
6月17日の鹿児島大空襲では、鹿児島駅近くの家は、ぎりぎり焼けなかったそうです。
目の前まで焼けて、上町地区の多くはその時は無事でした。
鹿児島駅から少し距離はありますが、今は無き市電上町線線路そば、西郷さん終焉の地すぐ近くに、共同防空壕があり、警報がなる度に、そこによく避難されたそうです🕊️
2.友人Yさんが、父方の親戚Oさん(父のいとこ)から聞いた話。
父のいとこ、Oさんは、戦後小学校の教員をされ、退職後、ピアノ教室の講師として、又神主として活躍された方です。
90歳位で亡くなり、10数年経ちます。
我が家の年忌祭に来られた時に、話してくれました。
(私の記憶違いがあるかもしれませんが、不思議な体験を話してくれました。)
昭和20年7月国分へ行く用事があり、鹿児島駅に着いたら、すでに国分行きの列車が止まっており、多くの人が先をあらそって、ルールを無視して、線路を渡って、列車に飛び乗っていったそうです。
Oさんも遅れてはいけない、と思い、渡ろうとしたとき、背後から首根っこをつかまれ、大声がしたので、後を振り返ったら、誰もいなかったそうです。そして、渡ろうとした時、アメリカ軍の爆撃があり、多くの死傷者が出たそうです。
鹿児島駅構内には、慰霊碑があります。
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