7月27日(日)9時〜10時30分 戦後80年平和学習『鹿児島駅空襲体験を知る・感じる・悼む』散策巡りを開催しました。(場所:鹿児島市民福祉プラザ5階と鹿児島駅構内)
昭和20年7月27日に鹿児島駅で空襲がありました。
空襲時、鹿児島駅構内は列車を利用する人々で賑わっており、国鉄職員を含む多くの人々が犠牲になったそうです。
まず、会場の鹿児島市民福祉プラザにて、当時の体験者が語る鹿児島駅空襲についてのDVDを視聴しました。
視聴後、参加者の中に空襲に関わる体験のある方が2名おられたので、話を聞きました。
母が鹿児島駅空襲で負傷した女性
女性のお母様は勤務中に鹿児島駅空襲に遭い、左上腕に銃弾が貫通する大怪我を負いました。当時冷水町にあった野戦病院へ行きますが、十分な治療を受けることができず、破傷風になってしまったとのことでした。
お母様の左腕には膨隆した傷跡が残り、女性やそのきょうだいは、幼少期に「お母さん、これはなに?」と聞きながらよく触っていたそうです。

上荒田町で空襲の被害を受けた男性(昭和20年6月17日 鹿児島大空襲の体験)
当時小学5年生だったそうです。夜11時頃、空襲警報で目を覚ますと、すぐに爆撃音がしたため寝巻きのまま外へ飛び出し母と逃げたそうです。同居していた82歳の祖母は、この空襲で命を落としました。

その後,鹿児島駅に移動し、参加者で構内にある慰霊碑に花を手向け、お参りをしました。
鹿児島駅周辺の景色はここ数年で大きく様変わりしましたが、80年前の悲劇を決して忘れてはいけないと、慰霊碑を前に強く感じます。
本日は、小学生の方も1名参加してくださいました。夏休みを利用し、未来を担う子どもたちが、1人でも多く戦争について知ることができるような時間を過ごせたらと願うばかりです。
鹿児島駅空襲を体験された東郷京子さんの手記より抜粋した文章を、過去のブログで拝読することができます。https://senthugu-kagoshima.com/987/
報告・記録者:松山 ゆかい
参加者の感想(女性)
91歳の男性の実体験はとても心にしみました。鹿児島駅空襲、映像と体験談、とても印象に残りましたので、実体験の話を映像に残せないかな、と考えました。そして、今、小学生や中学生に聞かせたいです。
慰霊碑

鹿児島駅構内にある慰霊碑は、1番ホームの階段を下り、真っすぐ100mほど歩いた先にあります。昭和52年、33回忌にあたる年に、「殉職者遺族一同、被爆当時の鹿児島駅関係者一同、鹿児島駅職員一同」の方々によって建立されたようです。数年前までは、ご遺族の方が朝早く来られ、手向けられた花が飾ってありましたが、今年はまだありませんでした。

2025年7月28日(月)南日本新聞記事より
感想 山下春美
昭和20年7月27日の空襲からちょうど80年目の日に、参加者16名の方々と一緒に、当時を思い起こす営みをできたことを感慨深く思います。
幸いに、市民福祉プラザから鹿児島駅へ歩く際、予想されていた雨も降らず、参加者同士共に語りながら歩けたことも、気持ちを共有できたようで嬉しいでした。
さらに、嬉しいことがありまして、今回のブログ報告記録は、松山ゆかいさん(20代の女性)が書いてくださいました。
松山ゆかいさんより、今年5月、このブログメッセージへ「戦争体験者が減少してきている実態に危機感を抱いており、風化させることがないよう語り継ぐような活動を今後していきたいと考えています。」と、頂きました。
なんと、力強く、頼もしい言葉でしょう。
私一人ではブログの投稿更新もままならないのですが、これからは松山さんの協力をもらいながら、今の時代を生きている私たちが、どのように戦争というものに向き合っていたのか記録し続けていきたいと思います。
どうぞ、よろしくお願いいたします。
コメント
戦争体験者が減少していく中、あの悲惨だった体験を伝えて継いでいく事の大切さは失ってはいけない事だと思います。
その中で常々感じる事があります。
その悲惨な事態に遭遇し、残念ながらそのまま息絶えた多くの方々はどのように思いながら亡くなっていったのだろう?
後世の我々が、戦争というあってはならない悪夢に向かって突き進んだ事を”反省”するキレイな話に終始する事だけをどのように思っておられるだろうか?
当たり前に使っている”空襲”。
この言葉には加害者がいない、または加害が薄れてしまっている感覚に陥っていないだろうか?
“空爆”、”爆撃”が正確な表現のはず。
ただ被害、被害者だけがとり残されてはいないだろうか?
今や、何も言えないその時、亡くなった人々がどんな思いで臨終を迎えたか深く想う必要があるのではないか、と思います。
繰り返し同じ悲劇に遭わないために。