報告:「語り継ぐことの大切さを語る」10月12日(土)①

2024年

鹿屋市から山下幹雄さんをお迎えしてお話を伺いました。

場所:鹿児島市市民福祉プラザ 5階小会議室1
参加者:13名

山下幹雄さんが、南日本新聞の「ひろば」欄に投稿された「高齢者は生きた時代の語り部に」という文章に感銘をうけた方から、「ぜひ、この方の話を聞きたい」という声が寄せられました。そこで、鹿屋市の小手川清隆さん(元鹿屋市平和学習ガイド)にお願いをして、一緒に鹿児島市内まで同行をしていただき、お話を聞くことが実現しました。

当日は、レジュメに沿って、話をしてくださいました。
(以下記事は、お話から抜粋して掲載してあります。)

1.自己紹介

山下幹雄 93歳 鹿屋市在住・旧佐多町 辺塚生れ。教員退職後、鹿屋市の教育委員会や町内会会長を長く勤める。

2.幼少期の時代背景(時系列)

「私が生まれたのは、昭和6年、満州事変の年でした。⑥に青少年に賜りたる勅語 (昭和14年 1939年)というのがあります。これは、小学生から大学生まで全部に通ずる勅語。天皇に忠誠を誓うこと、国のために命を投げ出すこと、これが書かれた勅語。

国民学校令 (昭和16年 1941年)それまで、尋常小学校だったのが、なぜ、国民学校になったのか?それは、教育現場で戦意高揚のための精神を育てる、大日本帝国の将来を担う人達を育てるための学校制度になる。そうなると、学校で教える内容が今までとは変わってくる。

そして、⑩太平洋戦争(昭和16年 1941年)になり、⑪昭和20年に終戦となりました。私はその時、国民学校高等科の2年を終わりました。

皆さんもお判りのように、私は、生まれてから、小学校を卒業するまで、ずっと戦争の中にいたのです。

戦争というものがどんなに悲惨なものかということは、私たちが一番わかっているんです。

私達は、戦場には行かなかったけれども、厳しい国内の状態がわかっていました。

3.小学校・国民学校時の学校教育

尋常小学校に入学した国語の教科書の最初の文章は、「サイタ サイタ サクラガ サイタ」でしたが、時代が戦争に突入すると、その教科書も「ススメ ススメ ヘイタイ ススメ」や「ヒノマルノハタ バンザイ」などに変わりました。

●戦争中心の教育(愛国心教育)

大東亜共栄圏という日本が頭になってアジアをまとめていく、という、これを当然のように日本人に指導しました。私たちは、何も言えない、反戦に関わるようなことはなにも言えない、という状況でした。これは、小学生も、一般の人も同じでした。

●教育内容

  •  修身というのが、ありました。これは、教育勅語に沿った内容のもの。これが一番大事な教科で、天皇が中心であることを教えられました。しかし、いろいろな考えがあって、当時帝国大学教授の美濃部達吉天皇機関説を唱えた。簡単に言うと、天皇は鉄道の機関車、それを動かすのは国民である。最初は政党政治だったので、みんな受け入れていたのだが、段々軍部が強くなってくるとそうはいかなくなってきました。そして、京都大学の先生が全部辞めてしまったという、京大事件というのも起こりました。

なので、世の中の人全員が、戦争を支持しているわけではなくて、心ある人は、本当に世界の平和、日本の平和を考えるならば、戦争をしてはいけないんだよ、ということで、国民や人民が関与する天皇機関説を中心に、と考える人もいました。

 ・体育 軍部から司令官が来て、軍事教練というのをやらされました。行進ですね。手旗信号とか、モールス信号とか小学校のころから厳しく教えられました。

イは、イトウとか、ロは、路上歩行とか、ハは、ハーモニカとか・・・・。

小学校でこのように教えておけば、軍に入った時に、一糸乱れず訓練ができる、という狙いだったんだと思います。指導する先生は、軍服を着て、足には軍靴を履いて、巻足絆(まききゃはん)を履いて、ものものしい雰囲気の中で教練が行われていました。これは、小学校に入ってからすぐですよ。終戦になるまで、それはなされていったんですね。

男の子たちはそんなことで、女の子たちは、竹やり訓練などしていました。

中には、体も弱い子どもたちもいて、ぶっ倒れたりする子もいるんですが、頭から水をぶっかけて、また立たせて、もう一回やれ、というんですよ。いのちなどなんとも思わないような、そういう状態が小学校から行われていた、ということがありました。

そのころの先生の指導はどうだったかというと、「命は鴻毛よりも軽し」という言葉でたとえられるように天皇の為なら、いのちは惜しんではいけない、というような教えでした

 ・音楽 一番最初に習ったのは、国家「君が代」です。次に第二国家「海ゆかば」です。

第2国家の中に、「大君」という歌詞があるんですね、「天皇」とか「大君」とか言葉が出てくると、直立不動!小学校一年生に入った時からそうでしたから、天皇とかいう言葉が出てきた時に、休め、などしていたら、ぶっ叩かれる、と、大変なことでした。

 そして、軍艦行進曲。垂水市出身の瀬戸口藤吉さんが作曲した曲ですね。
♪守るも攻めるも黒鉄の 浮かべる城ぞ 頼みなる・・・・・♪

  •  4大儀式 拝賀式 四方拝とも言ってましたが、1月1日ですね。

紀元節 2月11日 天孫降臨

天長節 4月29日 昭和天皇が生まれた日

明治節 11月3日 明治天皇が生まれた日 

明治天皇は、16歳で即位し、日清・日露戦争を勝ってきた天皇なので、讃えられていたのだと思います。

4.当時の社会状況

隣組制度  在郷軍人会 国防婦人会 これらの3つの団体は、国家をかけた戦争に何らかの形で参加する。組織で思想統制をおこなう。これに反することを行ったら非国民。そして、警察とか、憲兵とか秘密警察に捕まる。

5.軍国少年少女?の様子

①「ほしがりません、勝つまでは」贅沢は言うな、戦争に勝つまではなにも欲しがってはいけない、ということを厳しく子供たちに教えられた言葉。私たちは、とても貧乏で、学校に行くのにカバンもなく、風呂敷に教科書やノートを入れて、腰に巻いて、登校しました。

服装も洋服ではなくて、着物を着て、袖も破れたのを着ていました。今では、ジーパンなど破れたのがいいみたいに着ているようですが・・・。

靴はなかったので、わらぞうり。それも足の半分くらいしかなかったわらぞうり。だから、足の半分は、裸足。しかし、それも冬だけでした。春から夏は、みんなはだしで通っていました。

そして、儀式のときだけ、服を着て、正装をしました。

  • 健康状態ですが、田舎だからなんでもあったのかというと、そうでもなくて、田舎だから何もなかったんです、食料が。だから、野山で木の実とかあんなのを拾って食べたり、ちぎって食べたり、していました。だから、みんな痩せていました。

農家だったからお米があるでしょ、と思われるでしょうが、供出米という制度があり、自分の家で食べる米が、ようやく、ようやくだったんです。よく、日の丸弁当と言いますが、日の丸弁当を持てるのは豊かな家だけ。普通の家は、唐いもを弁当に詰めて、梅干しはあったので、それを真中に入れて、という感じでした。

そして、皮膚病、私たちは、“かさばぃ”といっていましたが、そんな子供が何人もいました。目はトラホームで、赤目で、目ヤニがいっぱい出ている子供もいました。

また、集落全体で、「からいもの日」というのがありまして、その日は唐芋が主食。
唐芋以外、米はたべちゃいかん、ということで、隣組で厳しく見張りを立てられました。

・遊び 男の子は、チャンバラやすもう。強いものが勝つ、という遊び。私の家は海岸でしたので、海で泳ぐ競争もしていました。

女の子は、上は着物で、下はもんぺをはいていました。

6.地域での出来事


①出征兵士を送る会

 出征兵士を送る会というのは、「鎮台上り(ちんだいのぼり」と呼ばれていました。
鎮台、というのは、例えば熊本鎮台、軍隊が常駐する場所が鎮台、鹿児島は45連隊。

(以下、←山下幹雄さんが書かれ、自分で製本・表装された本の一部を朗読されました。)

「明治以来、我が国は日清・日露戦争と多大な人命を失いながら戦争に勝利してきた。そして、大正時代の世界大不況を経験し、急激に侵略戦争に突き進む軍閥政治は広大な中国大陸に目をつけ、国際連盟から脱退し、孤立感を深め、その矛先を大陸に向けていった。そして、私が生まれた年に、満州事変を引き起こし、これからは国民総動員というプロパガンダを国策として掲げ、満20歳になると徴兵検査が義務付けられ、この検査に合格した者は、軍役に服するということで、鎮台(連隊の駐屯地)に召集させられた。これにはだれも逆らうことはできなかった。ましてや反戦という言葉など絶対禁句であった。

戦争が深みにはまり込み、たくさんの兵が必要となり、病気や肢体不自由者を除き、成人したものは、50歳未満であれば、召集令状が届き、有無を言わさず、従軍させられていった。子供たちはそれなりの教育を受け、我が国の侵略戦争を聖戦という美名に置き換えられ、戦争に行くのは、男子の本懐、と教えられてきた。中国への侵略戦争は、昭和16年に真珠湾攻撃という先手攻撃で米英との第2次世界大戦に突き進んでいった。

私の郷土でも次々に若者に召集令状、赤紙がきた。それを受け取った家庭では、出発の前夜、出征の送りを“鎮台のぼぃ”といってお祝いとしての“おしょよ”(御馳走が出る宴)が自宅であった。男の人たちは、酒盛りをして、女の人たちは、その料理をするいろいろな仕事に携わった。そして、最後は太鼓や三味線で踊りまで出て、賑やかな出征の送りでした。しかし、こうして送り出された若者たちの何人が、生き延びて帰って来たのだろうか。

この鎮台のぼぃには、悲しくもせつない裏話があった。私が5,6歳ごろの話であるが、“おしょよ”のごちそうは、自前で調達することになっていた。だいたい一升瓶が60本、ぶりが6匹、もみがかますで4俵、そのほか、トーフ、野菜、揚げ物用の油、調味料など、どんなに安く見積もっても150円かかり、大変な出費を強いられた。もちろん、自宅に蓄えがあるところは問題ではなかったが、殆どの家は日暮らしで蓄えなどあろうはずもなく、金持ちの家に相談に行き、工面して間に合わせるという不都合な話であった。

ただ、出費のなかで餞別をもらう、それだけが唯一の収入となったが、これは3分の1にもならないもので、働き者の若者を国に差し出し、残された家族は挙句の果ては、借金の返済に追われ、どうしても返せない人たちは労役をして借金の肩代わりをするなど大変な目にあったのである。当時の賃金は男が日給で一円という時代であるから、推して知るべしである。

のちのちには、結婚して子供のいる人まで赤紙が来て、召集されるようになり、残された家族の労苦は言葉にならないものがあったと思う。さて、前夜のお祝いの片付けもそこそこにその翌朝、辺塚神社に集落の人々が集まり、武運長久を祈る神主の神事をして、励ましの挨拶とか、本人からの覚悟の挨拶があり、これが終わるとみんなで軍歌を歌いながら、佐多へ向かう時は部落のはずれにある柴山とか、田代に向かうときは“なんだばっけ”(涙畑)まで行列をつくり、万歳三唱で送り出した。姿が見えなくなるまで、みんなで日の丸を振って別れたことを思い出す。」

このようなお祝いをして、出征兵士を送り出す、と、こういうことだったんですね。
※ 参照150円は今の180,000円位。
(資料:レファレンス協同データベース 昭和19年 1円 1195円)

  • 農家の供出米制度

これは、自家用米を除いて、残ったのを国に供出するということでした。しかし、これは各家庭耕作面積に応じて供出する量が決まっていたので、それに応じて供出していたので、それに応じて家にお米が残っているか、どうかということでした。出した分にはほんのわずかでしたが、国からお金がきました。

  • 二十三夜待ち

出征した兵士の家では、二十三夜待ち、というのがありました。旧暦の23日、お月さんが夜中の12時か1時頃、出てくるんです。その時間まで、親類縁者みんな集まって二十三夜の月が出るまで待っている、最後にお供えをして終わり、と。これは戦場に赴いた自分たちの家族、主人とか息子とか、その人たちの武運長久を祈るということが名目でしたが、本当は子供が無事に帰ってくるように、主人が無事に帰ってくるように、ということでこれがあったんですね。

7.戦争を実感した例

①海軍機墜落事故 昭和17年6月〇日でした。梅雨の真っ最中、鹿屋から飛び出した静岡の大井海軍航空隊の9人乗っていた飛行機が、鹿屋を飛び立って、佐多岬沖から太平洋をずっと通って静岡に帰る途中だったんですが、霧が深くて、稲尾岳にぶつかって全員死亡しました。これはほんとに悲惨なものでした。

私の集落から4キロ位離れた山の中に落ちたんですが、みんな見に行きました。

  • 海軍舟艇への米軍機の攻撃

昭和19年の頃、佐多の間泊というところに人間魚雷の基地をつくっていたんです。

日本はやがて米軍が、志布志とか鹿児島湾とか吹上浜とか上陸するというのがわかっていましたので、人間魚雷で敵艦をつぶそうということで、人間魚雷の基地をつくっていたんです。この基地は完成する前に戦争が終わりましたので、その基地から出撃した者はいませんでした。しかし、つくるのに材料が必要でしたので、その木材は私の集落の針葉樹を切り倒して、製材し、船に積んで、間泊まで持っていき寄ったんです。このためには相当な労力が必要でした。海軍の工兵隊の人たちとかたくさん舟艇でやって来て、運搬船を持ってきて。ある日、授業の2時間目位でしたかね。沖の方で大変な音がして、グラマンがその舟艇をめがけて撃沈しようとして大変な打ち込みをしたんです。その時、私たちは何人乗っていたのか、それは絶対言うな、と教え込まれたのですが。たくさんの兵士が亡くなりました。それをようやく港に引き返してきて、息のある人は手当をして、自分たちの港のある舟艇に乗せて、連れて行きました。

  • グラマン機の機銃掃射

また、鹿屋や鹿児島の航空基地に米軍機が来て、爆弾を落としました。B29が来て、それを補佐するのにグラマンという戦闘機がきて、このグラマンというのは、とても軽快な飛行機でしたから、私のところでは後ろが山だったので、海上から来ると、低空で来るんです。そして、低空で来て、人の姿を見つけると、片っ端から機銃掃射をするんです。だんだん戦争が激しくなると、機銃掃射は多くなりました。幸いに人命には被害はありませんでした。

8.終わり

・戦争を語り継ぐ意義

昨晩は、ノーベル平和賞の受賞がありました。被爆された人たちが、一生懸命戦争はしてはいけないよ、と、原爆は使っちゃいけないよ、核兵器は使っちゃいけないよ、と運動をされています。それもよくわかります。

でも、戦争というのは自分たちが被害を受けたばかりではないですね。自国だけではなく、相手にも多大な被害を与える。だから、自分たちだけが被害にあったということだけでは片付けられない問題があるのではないか、という。

私はそれを思って、戦争を始めたほうも戦争で被害を受けた人たちも伴に大変な目にあいますので、特にこれから先は核兵器が使われる可能性があります。ですから、何とかして戦争はしてはいけない、絶対平和を守らなければいけない、ということを私は痛感しているんです。戦後79年、日本は復興しました。それは、この憲法のおかげなんですよね。だから、この憲法を守る、ということが大事なことであると思います。

私たちは、本当の意味で戦争の恐ろしさ、戦争をしてはいけない、ということを痛感し、何らかの形でこのことを伝えてほしいなということを思っております。

感想 

山下幹雄さんのお話から、戦場に行った人たちだけではなく、戦争の影響により、悲惨な人生を送らざる得なかった人々のことを、具体的に知ることができました。
いつも戦争の話を聞く度に、やるせない思いを抱えます。今も戦争地帯ではこのようなことが起こっているのかと思うと言葉になりません。  山下春美

コメント

  1. せしたみつる より:

    山下さんが物心ついた頃は、日本が軍国主義が社会の風潮として”当たり前”の世界だったのでしょう。
    それがある日(8月15日)をさかいに”民主主義”という価値観に変わるという経験をさなった訳です。
    昨日まで教えられていた事が、まったく違う事だったと教えられる子供たちは戸惑った事でしょう。
    それまで”当たり前”だった事が”当たり前”じゃなくなる。
    戦争は正しい事と教えられてきた子供たち。
    人によっては、「なんだよ、先生たちは」と思う子もいたはず。
    何でも極端に変わる事は、世の中に戸惑いと分断を引き起こす、これは今の時代に言える事だ。

  2. 赤崎雅仁 より:

    山下さんのお話聞いて当時の様子がよくわかりありがとうございました。
    三歳年上ですが、当時のことあまり覚えていませんが、3年生になると勉強どころではなく
    対ソ戦に対し国境付近に塹壕掘りかり出され、校庭にはヒマシ油など植え、鉄類の回収校庭に積み上げられ級長をしていたのでどこのクラスにも負けないことでした。山下さんの話によると尋常小学校から国民学校にと変遷、軍事教練に似た教育を受けましたね。
    軍歌ばかり親父の前で得意になって歌っていましたね。食料事情はそんなに悪いとは思いませんでしたが、内地よりは良かった。日の丸弁当は月に何回か決められていました。
    その後の敗戦で惨めな生活を強いられ乞食生活、戦争はごめんです。
    話しはグッと変わって 昭和28年加治木中に2年生の時給食はありませんのでベントゥを持参でしたが、ある生徒がお昼になると家で食べてくると言って出て行きました。
    ところが木の下に隠れるようにしていました。朝鮮戦争の特需で景気は良かったと聞いていますが、まだまだ貧しい生活でしたね。叔父叔母のおかげで学校生活も楽しかったですね。感想にはなっていませんが、これで終わります。

  3. 春光 より:

    瀬下さん、赤崎さん、コメントありがとうございます。
    瀬下さんのコメントは、今の時代に引き寄せてのご感想で私もそう感じます。

    赤崎さんがお父さんの前で、得意そうに軍歌を歌っていた、というご自分の体験話は初めて聞きました。他者の話を聞き、自分の記憶が呼び起こされる、ということがあるんでしょうね。お昼休みにいなくなる子の話は、辛いですね。

  4. 赤崎雅仁 より:

    戦後1946年頃だったと思いますが、まだ日本人が技術者の子ども達が、かなりいて
    複式の学校みたいなところがあり、行っていました。そのときの話しですが。
    軍歌から一転してソ連の革命歌・労働歌を翻訳したものが主でしたが、歌うのが得意ではなかったですが、棒きれで指揮のまね事、赤崎は上手いからやれと言われと言われました。
    次にホテルに収容されていた頃の話しですが。戦前の軍歌集を持っていました。そのとき
    ソ連兵のお偉いさん日本軍人、軍刀を下げていました。慌てて軍歌集を隠したのを見て取り上げられた記憶がありましたがとられことはなかった。今考えるとゾッとします。
    いろいろとよみがえってきますね。