『相星雅子の「引揚げ文学」とその反戦平和思想』 疋田京子著 

2024年

 今年の3月に鹿児島県立短期大学を定年退官された疋田京子さんの『相星雅子の「引揚げ文学」とその反戦平和思想』論文を読みました。                     山下 春美

鹿児島県立短期大学 地域研究所『研究年報』第55号(2023)
『相星雅子の「引揚げ文学」とその反戦平和思想』 ← クリックするとPDFデータで読めます。

 今年の1月20日、サンエール鹿児島であった「女たちの100年・女たちの反戦文学」の講演会で初めて相星雅子さんの本のことを知りました。その時、相星雅子さんの短編小説「柳行李」(やなぎこうり)がB5用紙に一枚印刷されて、配布されました。
 その内容は、私の人生において喉にひっかかって取ることのできない魚の骨のように、その後疼き続けるものとなりました。

 「柳行李」の主人公の女性は、満州からの引き揚げ時の混乱の中で自分が犯してしまった加害的事実の罪を、ずっと奥深くしまっていたにも関わらず、晩年認知症という記憶の忘却によってその事実が表出させられた話でした。

 私は介護の仕事をしており、認知症の高齢者の方々と多く接する機会があります。そのような方々の中で、『認知症』という自我をも忘れさせてしまうような病気を併発することで、それまでの自分の人生を受け止めているのではないか、と感じる方が時々います。 その一人がこの「柳行李」の主人公の女性でした。

 それは、正気では受け止めることのできない自分が犯した罪を抱えながら、まだ、生き続けていかなければならない人間への救い、なのかもしれません。

 ぜひ、多くの方に疋田京子さんの論文を読んでいただき、鹿児島の郷土作家相星雅子さんの本に関心をもっていただきたいと思います。

標記の論文を読み、その中から、私が心に付き刺さった言葉や文章などを少し紹介します。

ーここ鹿児島にも、旧満州の日常や満州からの引揚げと戦後日本への違和感など「帝国時代の記億」ににこだわり、多くの小説を書き残した作家がいる。(中略)相星雅子である。

ー相星が描く人間は、被害と加害が複雑に交錯している。

ー相星は、善か悪かの二分法で人を裁く正義感の偏狭さから抜け出し、善悪に分離できない人間の複雑さを理解する「少し大人」になっている。

ー「光景」という小説は、引揚げ者として差別された被害者としての自分も、生きて帰れなかった人たちの記憶を封印したまま生きてきたのだという、自らの加害性を見つめる批判的想像力によって書かれている。

ー引揚げの中で「女性の身体」を生きるということ
 敗戦後の混乱の中、真っ先に性暴力の標的になる未婚の女性たちが性被害を防止するために、「仮の結婚」をして既婚者を装ったという証言である。その特異な世界とは、敵国兵士からの直接的な暴力ではなく、自国の社会的・文化的な構造的暴力であり、家父長的なジェンダー規範のなかで「女の身体」を生きる大人の世界の性的緊張(セクシュアリティ)と言っていいと思う。

ー生きるために死なせる女の尊厳:「敗北」(1979)「旅姿・赤ん坊」(1991)
ー「女性の身体」に刻印される性被害:「下関花嫁」(1989)
ー身体化された「恥と汚辱」の記憶:「文字の花嫁」(1989)

ー家族という単位の中の加害と被害の体験
 家族ほど力関係が渦巻き、支配をめぐる暗闘が繰り広げられる世界もない。

ー「引揚への旅を楽しんだ」という罪悪:「転生」(1977)「賤民」(1987)

     「」は、本の題名、()は発刊年。

 感想

 なぜ、このように相星雅子さん、そして、疋田京子さんの論文が、私の心に留め置かれるのか?
それは、人間として存在している自分の本質に目をそらさずに、受け止めている。それを小説の中の主人公に言葉として語らせているところに、人間の真実を見るようで、清々しさを感じるのかもしれません。また、その相星さんの小説の背景や解説を疋田さんの論文を読んだことにより、自分の加害性についても目を閉じっぱなしでいられなくなりました。           

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