昭和の日に寄せて 瀬下三留
4月後半から待ちに待ったGWが始まります。
その中でも4月29日は「昭和の日」です。
「昭和の日」とは元々昭和天皇の御誕生日でした。
今の若い人たちには昭和天皇は馴染みが少ないかもしれません。
昭和天皇は先の大戦で重要な立場に立っておられたと思います。
「昭和の日」にあたって、昭和天皇の平和に対する想いが伝わって欲しいと思って、昭和天皇とご親交のあった因通寺住職の調寛雅(しらべかんが)氏の著書「天皇さまが泣いてござった」より本文を届けます。
昭和天皇の涙
ふたつの位牌を手にした少女
昭和21年2月に始まった昭和天皇の御巡幸は翌年12月に中断されましたが、昭和24年5月に九州への御巡幸として再開されました。
佐賀県では陛下とご親交のあった調寛雅(しらべかんが)氏が住職を務める因通寺に足を運ばれたときに、胸の詰まるような「奇跡」が起きてます。
因通寺には洗心寮という引揚孤児の寮がありました。
戦争孤児や引揚者の境遇を気にかけておられた昭和天皇は、佐賀県で最初の御巡幸先にここを望まれたのでした。
寮に入るなり、陛下は子どもたちに親しく声をかけつつ、進まれました。
子どもたちも、この優しい紳士をいたく気に入ったらしく、ゾロゾロと後をついて回りました。
陛下は弾定の間と言われる部屋の前で足を止め、三人の女の子を見つめて時を忘れたように佇まれたのでした。
侍従長は心配になって,胸が高鳴りますが、やがて陛下は引き込まれるようにして、陛下を待ち申している三人の真ん中の女の子に話しかけられました。
見ると、女の子が手にしていたのは位牌でした。
「お父さん、お母さん?」陛下は話しかけます。
位牌は二つでした。
「はい、これが父と母です」と女の子は答えます。
「どこで?」
「父は、ソ満国境で名誉の戦死を遂げました。
母は、引揚の途中で病のため亡くなりました」
「お淋しい?」
女の子は首を横に振って口元を引き締めました。
「いいえ、淋しくありません。私は仏さまの子どもですから」
陛下は少し驚いて女の子の目を見つめたが、女の子はひるまずに続けました。
「仏さまの子は父にも母にも、お浄土でもう一度会えるんです。だから父や母に会いたくなったら、私は仏さまに手を合わせます。
そして、父と母の名前を呼ぶんです。すると父も母も私のそばにやってきて、私をそっと抱いてくれるんです。私は淋しくありません。私は、仏の子です」
陛下は女の子をしばらく見つめたあと、部屋に入り右手の帽子を左手に持ち替え、空けた右手で女の子の頭をゆっくり時間をかけて撫でつつ、なおも話しかけました。
「仏の子どもはお幸せね、これからも立派に育ってくださいね」
と言うなり、畳の上に大粒の涙が一つ二つ雫れ落ち・・・ました。
すると、ふいに女の子が叫びました。
「お父さん•••」
そこにいた大人たちは言葉を失くして顔を覆い、海千山千の新聞記者までもが、嗚咽を禁じ得ませんでした。
陛下は剛の風を備えた武人の一面もありましたが、この時ばかりは溢れる涙を隠そうともしませんでした。
皇居にお帰りになった昭和天皇は、この時のことをこう詠まれております。
「みほとけの 教へまもりてすくすくと 生い育つべき子らに幸あれ」
著書「天皇さまが泣いてござった」より要約しました。
写真を、下記サイトから参照させていただきました。
佐賀りあん
調龍叡(後編)【戦後の混乱期戦災孤児を救った】
▲昭和24年5月22日、昭和天皇は因通寺洗心寮に行幸になった。
陛下はご自身から子供たちに親しく接せられた。
コメント
女の子が、天皇陛下に「お父さん」と叫んでしまった、という部分は、今、読んでも涙が流れ出してしまいます。救いは女の子が、天皇陛下の赤子だと言わず、「私は仏さまの子です。」と答えたことです。きっと、天皇陛下も戦争におけるご自分の責任はわかっていたことと思います。その天皇陛下の抱えていた罪をこの女の子は、「仏さまの子どもです」という言葉によって受け止めてくれたのではないかと。天皇陛下の涙はきっと懺悔の涙だったのではないかと思います。南無阿弥陀仏
今日は、昭和天皇のお誕生ですね。これまでほとんど意識することなくこの日を迎えていましたが、今回のブログ記事のおかげで、今日を意識することとなりました。と、考えていたら、昭和天皇が亡くなった日は、昭和64年1月7日で、私の21歳の誕生日でした。二階で寝ていたら、階下からそのことを伝えるテレビニュースが聞こえたことを覚えています。昭和天皇といっても、一人の人間には変わらないと思います。この世に誕生したお命と生涯に思いを寄せたいと思う今日です。