戦争で南方へ行った父 柚木京子
1919(大正8)年生まれの父は貧しい農家の10人兄弟姉妹の長男でした。家の手助けと島根県の紡績工場で働いていました。しかし、第2次世界大戦で召集され、南方(フィリピン)へ行きました。父は、戦場の話をよくしてくれました。父の思いはどうだったかはわかりませんが、・・・。
その中で、ジャワ島での話が多かったように記憶しています。何日も食事がとれなかったこと、戦場の移動のため、寝らずに何日も歩いたこと。―ただ歩いただけでなく、ジャングル地帯やうっそうとした草原地帯、道なき道をさまようように。(どんな時でも相手国の人と争いはあるわけで。)
それと、南方なので日照りは強いし、温度も高い、食料は限られている。何日も身体を洗うことがないので汗臭いし、色んな虫がたかってきたようです。腹ペコで、常に緊張感と恐怖感の中での戦い、そんな中でマラリヤにかかったそうです。(帰国してからも時々高い熱を出していたようです。)
最終的にはカンボジアに行ったようです。
それと、指揮を執る人がいなくなって、父が執ったこと。
父を送り出した実家では、毎日息子を心配して湯呑みの蓋につく露を見ながら、無事を祈っていたそうです。(母親は、無事に帰国した息子には会えなかったのです。)
父は、終戦から2年経って広島に帰ったようです。戦地からどうやって帰ってこれたのでしょうか?
どこかに集合する場所があったのでしょうか?
鹿児島の実家に帰り着いた父には悲しい出来事が2つありました。最後まで息子の無事を祈っていた母親の死と、自家の放火です。食べ物が不足していた時期なので、放火されたようです。父の人生は苦労の連続です。
父が亡くなるとき、叔母が吐き出すように言った言葉が脳裏から離れません。
「この人ほど苦労した人はいない。ゆっくり休ませてやらんか。」
父は今、安らかに眠っているでしょうか?
父が生きて帰って来たので、今の私がいるのです。でも、生きて帰れたということは、相手の人の命を奪ったということでもあるのでは、と考えてしまいます。そのことは忘れてはならないことだと思います。
おすすめ本

「PTSDの日本兵の家族の思いと願い」PTSDの復員日本兵と暮らした家族が語り合う会 編 (2023)あけび書房
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