『五歳児の記憶 ―昭和20(1945)年 6月17日鹿児島大空襲から終戦後へー』

2023年

4月20日(木)、坂口ケイ子さん(仮名)76歳(昭和14年10月生)のお話を聞きに、ご自宅へ伺いました。
事前に、ご自分の体験をA4用紙にまとめておられました。以下は、坂口さんの書かれた文です。

昭和20年6月17日の夜

当時、易居町に住んでいました。私は五歳で、父は徴用にとられ、母と二人暮らしでした。

夜、寝ていましたが、起こされて、いつも枕元に置いていたモンペに着替え、防空頭巾をかぶり、いまでいうポシェット(小さな布の袋)を肩にかけて、退避の用意をさせられました。

袋の中には、いつも炒った大豆とカンパンが入っていました。非常用の食べ物だったのでしょう。

体全体がふるえていました。空襲警報が鳴ったり、空襲がくることを知らされると、自動的に全身にふるえがくるのです。

その夜は、空襲警報が鳴らないままのいきなり攻撃だったらしいですが、たぶん、人々の声で空襲を知らされ、家を飛び出ることになったのだと思います。

まもなく、自分の家が焼けるのを見ました。自分の家専用の防空壕が、自宅庭と市役所前の大通り公園付近(仏壇も安置され、大事なものは運び込まれていた)と、ふたつありましたが、その夜は入ることができませんでした。
まさに海のイワシの大群のように、大勢の人々と逃げ回っていたのです。
どこといって避難場所はなく、ついに力尽きた母(当時32歳)が「ここで一緒に死のう」と息を切らして座り込んでしまいました。「いやだ、いやだ」とわめきながら、私はありったけの力で、母を引っ張ったのを覚えています。

 その日の爆撃は、午後11時過ぎ、焼夷爆弾(13万個 推定)投下と記録されているようです。市内は火の海となり、市民は阿鼻叫喚、右往左往して逃げ回ったと記録されていますが、まったくそのとおりでした。

長崎へ

家を失い、その2ヶ月後の8月、父が徴用されていた長崎に引っ越すつもりで、汽車に乗っていました。ところが、久留米付近で列車が爆撃され、着の身着のまま逃げ出して避難、そのために、8月9日、長崎の原子爆弾を避けることになりました。

列車の破壊ですべての荷物を焼かれ、知らない町をさまようことになり、そのあいだ、焼夷爆弾攻撃もあり、人の家に飛び込み(家人は避難、無人)畳を上げて、隠れていたりしました。また、大きな川辺(たぶん、筑後川)で休息したりしていましたが、そこでも空襲に遭い、いつのまにか靴も失い、親子3人裸足で、雨の中を歩いていました。

ところが、行きずりの女の人にわらじをもらったのです。後年、あの人は観音様だったんじゃないかと大真面目で話したことがありました。

たぶん、イモなど、何か食べ物もいただいたのかもしれません。3日後には、鹿児島の姶良郡横川町に帰るために汽車に乗っていました。

ほぼ、3日間、何も食べなかったようで、私は眠りつづけていたようです。

もうすぐ、田舎に着くというところまできたのですが、父は私がそのまま空腹で死ぬかもしれないと思ったようです。ある田舎の駅に停車したとき、父は駅長室に飛び込んでいきました。

事情を話し、少しでもいいから、娘に食べ物を分けてもらえないかと頼んだそうです。すると、ジャストタイミングで、駅員さんが大きなお皿に山盛りにおにぎりを持って入ってきたのです。

昼食の時間だったのです。駅長さんはいたく同情して、父に好きなだけ持っていってください、とおっしゃってくださいました。が、父はもうすぐ田舎に着きますから、娘のために一つでいいのです、といただきました。それを私の口にもっていくと、無意識に食べ、生き返ったように目を開いたということでした。

桜島の大噴火

1945年8月、終戦となりましたが、その7か月後、1946年3月9日夜、桜島の大爆発がありました。この噴火は溶岩を流出した最新の噴火のようで、死亡者も一人出て、山林や農地に大きな被害をもたらしたようです。

ちょうど家を建てようとして、空き地に材木を積み重ね、そこで寝泊まりしていましたが、トイレもなかったので、夜中の小用はその辺りだったわけです。灰も、ものすごく降りつづいて、噴火口は闇夜を真っ赤に染め上げていました。

西郷さんの銅像は日の丸の鉢巻きをしていましたが、国民のがんばりもあえなくついえて、戦争で焼け野原になるは、桜島は大噴火するで、大変だったわけです。

会話から・・・

・自宅庭の防空壕には、1人しか入れない大きさでしたが、大通公園の防空壕は広く仏壇も置いてあったので、そこの防空壕に入ると安心しました。

・逃げまどう時は、本当に海の中のイワシの群れがあっちに行き、こっちに行き、と動く流れと同じように人々が、目的がなくどこに行くかわからず動くのです。

・アメリカの飛行機がやってきた時、日本の飛行機も一応対戦のために、飛んできたようですが、すぐに落ちていたのを覚えています。

・日本が負けた時、よかったと思いました。なぜならば、私の周りでは、日本の兵隊さんはとても威張っており、嫌われていました。
汽車などに乗ると、一般国民はひもじい思いをしているのに、兵隊さんは周りに見せびらかすようにおにぎりを食べ、横暴な振舞いも多々見受けられました。母も時々不平を言う事もあり、こんな兵隊さんでは勝つはずがないと思っていたようです。

・戦後、自宅に戻ると商売小屋(易居町周辺)が立ち並んでいました。人間はたくましいと思いました。

・新制小学校の一期生ですが、イスを抱えて小学校へ通っていました。

Q:自分の家が(むざむざ)焼かれていく様子を見て、どう感じられましたか?

A:日頃から、空襲警報もなり、防火訓練もあったので、火災がおこったことに、とうとうやられたか、というあきらめの思いだったようです。

話を聞いて・・・ 山下

6月17日の夜半、人々が逃げまどう中、座り込んでしまった母親。
「一緒に死のう」と言われ、「いやだ、いやだ」とわめきながら、母親の手を引っ張った。

そこで、坂口さんの記憶は、ぷっつり途切れてしまったらしい。
その後、どこにいたか、どのように暮らしていたか覚えていない。 

次に思い出される記憶は、長崎行きの汽車に乗ったところ。
またまた、爆撃に遭い、親子3人で知らない町をさまよいながら、心ある人の善意を得、どうにか親戚のいる横川町まで辿り着かれる。

坂口さんの話を聞きながら、私は、私の頭で坂口さんの体験を想像しながら聞き、相槌を打つ。

どんなにたくさんの戦争体験者の話を聞いても、その聞いている体験を想像している私の頭の絵図は、その体験をそっくりそのまま写し出すことはできない。

今も、8月の終戦日や3月11日の東北大震災の日、救急車のサイレンの音を聞くと、体がふるえる、という坂口さん。

「戦争はなくなることはないと思う」、と淡々と話される一方で、坂口さんの身体が、”戦争なんていや!”と叫んでいる。そのことが言葉を越えた訴えのように感じられた。

※桜島の噴火・・・昭和21(1946)年、3月9日南岳東斜面から溶岩が流出、約3ヶ月続いた。5月10日、第一古里川で土石流、1人死亡 南日本新聞桜島100年の出来事

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