第4回 「あの日を忘れない~ 3・18鹿屋空襲に寄せて~」

2023年

2023年3月18日(土)13:30~15:45

鹿屋市中央公民館で開催された「第4回 あの日を忘れない ~3・18鹿屋空襲に寄せて~」の集まりに参加してきました。

1.開会のあいさつ

鹿屋平和学習ガイド・調査員連絡会 会長 迫 睦子さん

  • 自分たち自身が鹿屋の空襲や戦跡の存在を知らずにいたので、そのことを自分たちから学習し、周りの人々へ伝え、未来へ繋ぐ平和の活動としていきたい、ということが活動の始まり、ご挨拶くださいました。

2.講演会

慶應義塾大学教授の安藤広道先生

演題 「第5航空艦隊司令壕が残っていることの意義~今の世界を見て思うこと~

〈私が聞いてこころに残ったこと〉

・鹿屋の基地は、沖縄戦をめぐる航空戦を支えるものとしての任務があった。

・何故、鹿児島が空襲が多かったのか?米軍の沖縄戦に向けた準備として、特攻基地のあるところを叩いておく必要があった。アジア太平洋戦争の犠牲者数でフィリピン戦の犠牲者が、米軍16,000人、日本兵518,000人、現地のフィリピン人が約110万人と、両軍の戦死者の約2倍近い死者がいたことに、何とも耐えがたい慙愧の念にむしばまれた。

・第五航空艦隊司令壕は、戦争を何とか終わらせたいと模索しながらも、一方ではどんどん戦死者を増やしていく、という状況を止めることができない人々、いわば終わらせることのできない象徴としての第五航空艦隊司令壕。

それは、戦争をやめることがいかに難しいかを物語っている。

「戦争は、起こすのは簡単だがやめるのは極めて難しい」
     (『ギリシア・ローマ名言集』岩波文庫)


 人類は、残念ながらまだ戦争の終わらせ方を知りません。

防衛費の増額以外に、戦争の抑止力はあるのではないだろうか。それが、この司令壕ではないだろうか?

3.鹿屋「昭和20年 8月5日 花岡地区への空襲」

小手川清隆さん

・鹿屋市花岡町は、垂水市との市境に位置する。

・昼食後、アメリカ軍機が焼夷弾をバラバラと落としていった。

・約1時間で33件余りの住宅が燃え尽きた。

・終戦前の花岡にあった軍事施設は、

機関銃の陣地、探照灯、観測鏡、野戦病院、松根油をとる兵隊海軍航空廠

8月5日空襲の証言

・前田文夫さん 家族総出で高台にある畑にいた。目の下を爆撃機が通過、自宅周辺に焼夷弾を落としていった。

4.戦争遺跡に設置されたVBの紹介

 南日本新聞2023年3月19日(日)でも紹介されましたが、

鹿屋平和学習ガイド・調査員連絡会の皆さんが、慶應義塾大学教授の安藤広道先生と

共に戦跡や戦争体験の聞き取り調査された情報をデジタル地図上に集約したものを作成され、その活用などのお知らせがありました。

下記、南日本新聞社のホームページをクリックすると、『鹿屋アーカイブマップ』が出てきます。

そこをクリックしていただくと、鹿屋の戦跡や体験集など見ることができます。

ぜひ、ご覧ください。

南日本新聞社 https://373news.com/_kikaku/kagoshima_war/map/

5.米軍の高須地区への上陸 展示パネルより

昭和20年9月4日の正午近く、鹿屋市鹿児島湾内の高須海岸、金浜に米軍約2,500人が上陸した時の写真です。
当時、上陸地点とされた高須地区では、警察から9月4日にアメリカ軍が大白浜に上陸するから山手の方に避難するようにと連絡があり、人々は親戚や知人を頼って方々に去り、高須の町はひっそりとしていたそうです。そんな中でも踏みとどまって上陸作業を丘の上から見ていた男性は、豊富な物資と近代科学の力にものを言わせるアメリカ軍の行動に、ただただ驚くばかりで「これでは勝てるはずがない」とつぶやかれたそうです。(「高須町民合同文集」より)

左記、写真からわかるように上陸用船艇から荷物をおろす作業中の人間が、とても小さいです。当時、米軍がもっていた軍機の巨大さを知らされます。

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