『満蒙開拓つれづれ草』~鹿児島からの満蒙開拓団ーその④~

2022年

鹿児島県内からの6つの「分村・分郷開拓団」のうち、前回の「伊漢通開拓団」の次に送出されたのは「隼人(はやと)開拓団」でした。この開拓団は『満洲開拓史』に拠れば、鹿児島県本土の大隅(おおすみ)半島の「肝属(肝付。きもつき)郡」より送出の分郷開拓団で、県内からの分村・分郷開拓団としては唯一の県本土からの送出です。

同団は昭和15年(1940年)から吉林省きつりんしょう盤石県ばんぜきけんと言うところに入植しています。在籍81人と小規模な団で、うち死亡等非帰還者12人、帰還者69人で、帰還率85.2%と規模は小さいながら帰還率の高い団です。『満洲開拓史』に拠れば、同団は満鉄「明城」駅の東方約1キロ付近に位置し、団の規模は小さいものの8月9日のソ連軍侵攻後、周辺の開拓団員ら約500人が同団に避難してきており、ここに更に100名近い日本兵が逃亡してきて、団員ら含め約700人がここに集結していたと言います。

その後、9月23日になって汽車で「明城」駅を出発、翌日には撫順ぶじゅんに着き、ここで分散して越冬したと記録されています。撫順では炭鉱作業等に従事し、ここで団員のうち11人が死亡、後の人々は翌年6月16日にようやく引き揚げ開始、6月27日に舞鶴に上陸したとあります(以上、『満洲開拓史』より)。葫蘆島ころとうからの引き揚げは当初段階ではその多くが佐世保と博多でしたが、数は多くないながら、この舞鶴など他の引揚港に引き揚げてきた人々もいます。この舞鶴が引揚港として有名になるのはこれよりも後で、後に引揚受け入れ港が舞鶴だけになってから、シベリアからの引揚者の上陸がここだけになったからでした。

ところで、この「隼人」開拓団の入植位置を確認してみようと、いつもの通り記念館で再編発行している「入植図」で探してみたものの、何故か同団の記載がありませんでした。実は、この入植図の作成の元にした地図自体に記載が無かったり、あるいは位置が違っていたり等の団が結構多くあり、その修正作業等は今も記念館スタッフの手により追加続行中です。この「隼人」開拓団については、私の手元にある『満州国省別地図』(康徳8年=昭和16年発行)の吉林省の地図を捲り、満鉄「明城」駅の近くを探してみたら、ちゃんと「隼人」開拓団の記載がありました(別添参照)。地図の真ん中よりやや上の辺り、「明城」駅のやや右側に赤字で「隼人」との開拓団名の記載があります。

ところで、この「隼人」、その団名だけで「鹿児島県からの開拓団であろう」と判る名前ですが、調べてみたら、この「隼人」とは「古代日本において、阿多・大隅(現在の鹿児島県本土部分)に居住したとされる人々のことを言う」とされています(『ウィキペディア』より)。「薩摩隼人」などとも呼称され、大隅半島など鹿児島県では馴染みある呼称です。この「隼人」開拓団を送出した「肝属(肝付郡」は、現在の行政区分としては、鹿屋市、錦江町、東串良町・肝付町、南大隅町などに相当する地域のようです。

さて、3番目の送出は「半截河熊毛郷(はんせつが・くまげごう)」開拓団で、当時の熊毛郡からの送出の団で、昭和16年(1941年)から三江省鶴立県の半截河と言う場所に入植しています。在籍110人とここもやや小規模な団で、うち死亡等非帰還者30人、帰還者80人で、帰還率72.7%となっています。この団については『満洲開拓史』でもこの程度の記載しかなく、これ以上のことは不詳です。

なお、この熊毛郡と言うのは、あの屋久島や種子島から構成されている郡です。鹿児島県からは島嶼部からの送出が多いので、島嶼部も含めた鹿児島県地図を参考として添付しておきます。聞いた話では、鹿児島県の本土部分の北の端から、県の最南端の与論島までは南北約600キロもあるとお聞きました。

4番目の送出は「敦化宇検(とんか・うけん)」開拓団で、奄美大島の大島郡宇検村(うけん・そん)から、吉林省の敦化(とんか)県と言う所に入植しています。在籍324人と団規模はやや大きく、死亡等非帰還者162人、帰還者162人と半々で、帰還率は50.0%となっています。この団については『満洲開拓史』でも少し記載があり、終戦後の昭和20年11月5日に貨車で「敦化」を出発、吉林、新京(現長春)を経て、11月12日に奉天(現瀋陽)に到着、市内の「満州計器」と言う会社を利用した避難民収容所に収容され、ここで越冬したとのみ記載されています。

5番目の送出はあの与論島からの「輿論(与論)」開拓団です。

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