このお話は、社会福祉士の天羽浩一さんが成年後見人として関わられた男性との出会いを
講談風に語られたお話です。
私が、このお話を紹介するのは、桜太郎さん(仮名)が、昭和20年6月17日の鹿児島大空襲でお母さんと妹さんを亡くされているからです。
鹿児島も昭和20年の3月18日に始まる空襲は、8月まで断続的に続きました。
その空襲で受けた被害(悲しみやその後の人生への影響)は、市民にとってどのようなものだったのでしょうか?
桜太郎さんという一人の少年の人生を語り聞かせていただく中で、戦争を起こしてしまうことの罪業を自らに問うていきたいと考えます。
素人講談「桜太郎物語 成年後見人との出会いの一節」
「講談師、見てきたような嘘をつき」と申しますが、ドキュメンタリーをベースに調味料を振りかけたようなもの、まあ映画で言えば、「この映画は実話に基づいたものです」と解説される、そのような代物と言っていいでしょう。本日読み語りますのは、戦災孤児として辛く苦しい人生を歩んできた桜太郎さん(匿名)を主人公にした物語であります。
講談とはいいましても私自身、講談について特段の知識があるわけではなく、あくまでも講談のような感じで勝手に真似てみるというだけのことでありますが、二十分そこそこの時間で読み終わります。本来落語や講談で台本を配布することはありませんが、素人講談であり、また寄る年波で滑舌も悪く、「何を言っておるのか分からん」では困りますので、あえて台本を配布いたしました。読みながらお聞きいただければ幸いです。
それでは恥ずかしながら一席講釈を読ませていただきます。
主人公 桜太郎さんの人生を語る
・1935年出生 現在87歳
・父は昭和17 年南方戦線で戦死(病死・餓死)
本日の主人公は桜太郎さん、当年87歳となるご老人であります。時は昭和10年7月の1日、桜太郎さんは鹿児島市照国町にて生まれました。折しも満州事変や、515・226事件、そして無謀な中国大陸への侵攻が始まり、鹿児島でも人々の生活に戦争の影が忍び寄ってきた頃であります。
昭和17年、桜少年7歳の時、すでにアメリカとの戦争は始まっておりましたが、父は赤紙一枚で南方戦線へと送られます。「万歳」「万歳」の叫びのなか、父は恐ろしい顔をして出征していきました。
戻ってきたのは白木の箱、箱の中には名前が書かれた紙きれ一枚と、小さな石ころが一つ入っていただけです。その白木の箱をひしと抱き寄せ号泣していた母の姿が忘れられず、桜さんの人生での一番古い記憶となったそうであります。
勝ってくるぞと勇ましく誓って国を出たからは手柄立てずに死なりょうか 進軍ラッパ聞くたびに瞼に浮かぶ旗の波
というわけでありますが、お父さん実はマラリアにかかり、そのまま餓死したということであります。当時の日本の兵隊さん、亡くなった原因の多くは病気や飢え死にだったそうであります。
桜太郎少年 ひとりぼっちになる
その桜少年、追い打ちをかけるように 9 歳の時、鹿児島大空襲で母と妹をなくし、独りぼっちになってしまったのでございます。鹿児島市に対する空襲は昭和 20 年、8 回にわたって合計死者 3329 人、なかでも 6 月 17 日に行われた空襲は鹿児島市内一円を襲い、市内全域焼け野原となってしまったのであります。
まさにその 6 月 17 日、激しく火の手が上がるその中を、妹花子を負ぶって逃げる母の手、それをしっかと握っていた桜少年でしたが、いつの間にかその手が外れ、母を見失ってしまいます。
「かあちゃーん」
「たろうー」
という悲痛な叫びが猛火の中で次第にかき消されていきました。
その夜、桜少年は運よく助かりましたが、母と妹花子は亡くなったと聞かされ、
「母ちゃんが死んだ、花子が死んだ」
と激しく泣きじゃくるばかり、9 歳の少年に遺体を探すことなど到底できようはずもなく、桜少年は父方叔父の世話になることにあいなりました。
桜太郎少年 大阪へ行く
叔父を頼ったはいいが、何しろ食糧難の時代、叔父の家も食うや食わずのたけのこ生活ですから、桜少年迄食べ物が回ってこない。空腹のあまり、畑のイモを盗んだり、よその庭に忍び込んでトマトやきゅうりを齧ったりということもよくあったそうであります。
昭和 25 年、敗戦後の厳しい生活が続く中、口減らしのために桜少年、15 歳で大阪の鉄工所に就職。
多くの人々で混雑する鹿児島本駅、しかし桜少年には誰一人見送る人とてない寂しい旅立ちでありました。それからの人生、いくつもの仕事を転々としながら、それでも懸命に働き続けていったのであります。
月日が過ぎて昭和 40 年、桜さん 30 歳を過ぎたころ、縁あって一人の女性と知り合い、所帯を持つことができました。翌年には長男が生まれ、桜さんにもようやく人生の幸運が舞い込んできたかに見えました。
しかし、折から襲った不景気、働いていた下請け零細の日雇い仕事が壊滅、たちまち生活苦に陥り、夫婦仲が険悪になってまいりました。
猛火の中を逃げ惑う母と妹花子、そして白木の箱で帰ってきた父のことが恐怖の中で何度も何度も蘇っえてきます。
「おいだけがいつも辛か思いばしちょる。」
桜さんは辛かった、怖かった思いを、肴に真昼間から酒を飲んでは妻に暴力をふるうことが多くなり、妻はかわいい盛りの 3 歳になる長男を連れて実家に戻ってしまうということにあいなりました。
勿論桜さん未練たらたらですが、「男がおなごのケツを追っかけられるか」
とやせ我慢、それに仕事を見つけなくては食ってはいけない、結局そのままひとり暮らしと相成りました。
その後はお定まりの酒とギャンブル、稼ぎは全部使い果たし、息子の養育費を送るなどというしゃれた考えはこれっぽっちも浮かばなかったようであります。
「ないごてオヤジが死んだのか、ないごてオフクロが、花子が死んだのか、オヤジやオフクロが死んだから、オヤジやオフクロがおいを置き去りにしたから、おいがこげな辛か思いをしてきたんだ。」
と自らの不運を父や母を恨むことで紛らわしていたのであります。
その後一・二度、酒の上での喧嘩でおまわりさんの厄介になったり、あまりに腹が減ったのでたった一度だけですが、スーパーで焼肉弁当を万引きして逮捕されたこともありましたが、起訴されることもなく、前科がついたわけではありません。何とか道をそれずに生きてきたのです。
桜太郎少年 60歳になる 鹿児島へ戻る
月日が過ぎて平成 7 年、桜さん 60 歳のころ体が弱ってきたものですから、大阪での仕事に見切りをつけ、鹿児島に戻ってまいりました。
何とか細々と働きながら、アパートで一人暮らしを続けていったのであります。鹿児島に戻ったころ、一度だけ叔父さんをたずねたことがありました。その当時 80 を超えていた叔父はいたって元気でしたが、たずねて行った玄関先で
「今頃帰ってきて何ね、この恩知らずがー」と罵倒され、さらに追い打ちをかけるように
「おまんの親の墓なんぞはなか」と告げられ、
「あー、なんとおいは親不孝者なんじゃ、父、母そして花子の魂は成仏せずにさまよっているのか」
と自分を責め、毎夜ひとりアパートで号泣していたそうであります。
更に 10 年が過ぎ平成 17 年、桜さん 70 歳のころ今までの無理がたたって、体を壊し病院通いが続くようになりました。治療費が払えず、病院のSW(ソーシャルワーカー)が福祉事務所に掛け合ってくれました。
とりあえず日雇い仕事を続けながら病院に通い、治療費を生活保護で補填することになったのであります。国民年金はといえば、保険料未納期間が長く、手にする支給額はほんのわずか、雀の涙のようでありました。
そうこうしているうちに桜さんに脳梗塞の後遺症とみられるマヒが出始め、地域包括支援センター、鹿児島市では長寿安心相談センターと申しますが、そこからSWがやってきて、桜さんに福祉サービスが入るようになりました。
もちろん桜さんは介護保険や福祉のことについては何の知識も持ってはおりません。そんな桜さんにケアマネジャーさんやヘルパーさんはとても親切にしてくれました。
しかし桜さんは、
「どうせこげな親不孝もん、そのうえ妻も子も打っ棄ってしもうたやっせんぼのおいなんぞ、いずれどこかで野垂れ死んでしまえばそれでよか、おいのことはもうよか」
と思うばかりの日々でありました。
更に何年かたった頃、桜さんに認知症の兆候が見られるようになりました。お金の管理、衛生管理、部屋の鍵や通帳の紛失、ガスの火の消し忘れなど、生活上の不都合がではじめたため、長寿安心相談センターのSWが鹿児島市の長寿支援課に相談、桜さんに後見人をつけてもらうよう、手続きをとってもらうこととあいなりました。
後見人 天羽浩一さんとの出逢い
鹿児島市が申立人となって家庭裁判所に後見申し立てを行い、家庭裁判所から審判を受け平成 30 年、社会福祉士の天羽さんが受任することになったのであります。(家庭裁判所の判断は桜さんに判断能力が残されているという見立てから後見類型ではなく保佐の審判でありました。)
さて、保佐人に就任した天羽さんは桜さんと初めて出会い、桜さんの話にじっと耳を傾けます。
そして今まで桜さんを支援してきた病院や生活保護の担当者、長寿安心相談センターのSWやケアマネジャーさんと連携をとり、支援者会議を開いてもらって今までの桜さんのことについて色々教えてもらいながら、保佐人は何をする仕事なのか説明をしていきます。そして、支援者と連携しながら桜さんの今後のことについて桜さんご本人と一緒に考えていきました。
桜さんは、
「おいなんぞ、どうしようもないヘタレだから自業自得よ」
と、口癖のように言います。
しかし桜さんはまぎれもない戦争被害者であり、戦後社会の底辺労働者として安い労働力として都合よく使い捨てにされてきたんです。
それでも桜さんは桜さんなりに必死で働いてきたんです。
税金も納めてきたんです。
確かに国民年金保険料の未納が多かったのも事実です。
酒も飲んだし、パチンコもした。
せっかく結婚して、子どももできたのに家庭を壊してしまった。
しかし戦争トラウマに苦しみ続けてきた桜さんの人生、それを「桜さんの自己責任だとか、自業自得だ」とか冷たく言い放つことができるでありましょうか?
保佐人天羽さんには到底そのような言葉を発することはできません。皆様よく御存知の「男はつらいよ」の寅さんなら、必ず次のセリフが入るでありましょう。
「おいちゃんよー、おばちゃんよー、自己責任?それを言っちゃあおしまいよ」
桜さんは戦災孤児として、選びとる余地なく底辺生活を強いられ続けてきたんです。
その桜さんに残り少ないかもしれない人生、その人生に伴走するのが保佐人の仕事なんです。
桜さんは最近、
「父や母や花子の供養をしたか。」
「じゃどん墓もなか、骨もなか、仏壇もなか、どげんすればよかとか」と尋ねてきたり、
「死ぬる前に別れた妻と子に謝りたい。生きとるかどうか、どげんすればよかとか」
と大きな気持ちの変化があった様子。
何とか桜さんの気持ちにこたえるすべはないか、天羽さんは考えます。
桜さんがほっと安心し、少しでも笑顔が出る時があればと願わざるを得ません。
そういうわけで保佐人天羽さんは奮闘します。
しかしその天羽さんもすでに 77 歳。後期高齢者医療保険のお世話になる身の上となりました。
当然にも心身の衰えが来ております。足腰の痛みはもちろん、頭のハゲや顔のシミ・シワも留まるところを知らず、今朝も出がけに鏡をみては「Who are you?」おまん誰け?
しかしグッと気を引き締めて、わが老体にピシーリ一鞭加えるや、ハーィヨーッ、パッパッカ、パッパッカ、パッパッカ、パと走り出すのであります。
さて、その後、桜さんに笑顔が見られるようになったのか、父母妹の供養の方法は見つかったのか、はたまた桜さんの別れた息子はどうなったのか、話を続けたいところでありますが、お時間がやってまいりました。
この続きはまたの機会にということで、本日は「桜太郎物語 成年後見人との出会いの一節」、お粗末ながらこれにて読み終わりとさせていただきます。ありがとうございました。
社会福祉士 天羽浩一さんの語りでした。
縁起の存在としてのわれら
「自己責任」「主体性の確立」「近代的自我」
人類の歴史の流れと今を生きている人や時代とが織りなす関係性(縁起)に因って存在しているわれらに責任を負える自己が成り立つのだろうか・・・・ 文責:山下春美
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