「満州で暮らした話を聞こう」 2017年10月7日(土)

2017年

お話をしてくださった方

松田 仁宏さん 1937(昭和12)年 7月1日 関東州旅順乃木町生まれ。
父が写真館、『南満公司』を経営。軍隊の撮影で、軍艦の入港時には、記念写真撮影で賑わっていた。
旅順第一小学校。 (上記写真は、松田さん所有「満州寫眞帖しゃしんちょう 表紙」

松田仁宏さんのお話

小学校入学前から、2年生ぐらいの時に体験したことを思い出してみたいと思いますが、美しく誇大化したり、空想の世界に入ったりしていると、推察いたしますので、皆様のほうで修正しながら、お聴きください。

私、松田仁宏は、1937年、昭和12年7月、関東州旅順市鮫島町9番で出生したと戸籍謄本に記載されています。昭和12年7月、中国華北北京西南の盧溝橋で中国軍と日本軍の軍事衝突が発生したのが、日中の戦争の始まりでした。

父は、旅順市乃木町3丁目で、写真館、南溝公司を営んでいました。当時写真機は、金持ちの道楽用具であり、一般の人は記念写真撮りで写真屋に行ったようです。

事変のため、軍艦が旅順港へ入り、戦場へ行く前に記念写真を撮りますが、次々と入港して、昼夜なく忙しかった、と母が思い出していましたし、私は生まれた頃、広間の机に寝かされておれば、兵隊さんから可愛がられた、と喋っていました。

旅順は、日露戦争、明治37年(1904~1905)で、有名なところです。旧市街は、ロシア高級軍人たちの住んでいたところ、その後は、日本移民が商業地としました。
新市街は、日本帝国が工業を中心とする街、旅順工科大学などの教育関係などで発展しました。

日露戦跡、東鶏冠山北堡塁(とうけいかんざんきたほるい)、水師営、二〇三高地などがあります。1996年、平成8年に大連市旅順区の一部が対外開放され、また、2009年(平成21年)には、旅順口区全面開放と南日本新聞で報じられていましたが、軍事施設は立入禁止とのことでした。

鹿児島でも旧満州方面の募集もあり、訪れた方も多いことでしょう。現況を教えて下さるとありがたいとお待ちしています。

小学校へ入学前に馬車で家族旅行で戦跡巡りをしました。標高2~300メータ―程の草原ですが、山はなく、はるか遠くまで見えます。なだらかな上り傾斜ですが、小高い丘があり、日露戦争では、堡塁として周囲を塹壕で固めて、機関銃掃射されたと、ガイドの案内でした。

山頂の二〇三高地の掩体壕は、高さ7メートル中、5メートルもあり、突撃する日本兵は、突然に表れる穴に落下する始末、それをロシア兵は機関銃で殺傷したと説明されました。日露戦争の戦死者は、88,429人のうちに、戦闘で55,655人です。全面突撃の日本軍は全く残酷だったと思います。

私は、太平洋戦争の空襲体験がありません。住んでいた乃木町は静かなところ、旅順第一小学校へ入学してすぐの夏休み、誰もいない運動場に放置の回転用具、ブランコで一人遊んでいました。
街の動きがなく、時に警察官が、中国人たちに追いかけられており、不思議に感じておりました。

白玉山、旧市街の中心標高100メートルの旅順港も周囲堡塁も展望できる丘です。山頂の日露戦争勝利記念表忠塔があり、戦争犠牲者の22,000人余りの遺骨を納めた納骨祠がありました。

旅順 表忠塔≫
日露戦争が東郷平八郎を乃木希典が発案し、1909年に戦没者追悼のために忠魂塔として建立した。11月の落成式に乃木が夫人とともに参列している。当時は「表忠塔」と命名された。中華人民共和国となってから「
白玉山塔はくぎょくさんとう」と改名された。高さ66.8m。 
用:ウィキペディア

旅順白玉山納骨堂≫
旅順口と反対側にある現在は軍艦が置かれた場所には、1906年に鎮座した白玉山神社がある。かつて社があった下には2万2723人の日本人戦死者の遺骨が納骨されていた納骨堂が3か所残されていた。
社があった場所までのコンクリートの階段は当時のまま。ここに納骨されていた遺骨は終戦の混乱の中、大連を経由して、東京泉岳寺へ運ばれたと言わているが残念なことに詳細は不明なまま。

引用:大連ローカル 慶次郎 (都市ポータルサイト代表)

終戦となり、中国人群衆が日本への怨念の発露でしょうか、段に並んでいた遺骨を土面に撒き散らし、真白い山としました。日本帝国が負けたことを知る最初の体験です。

赤顔のソ連軍兵士は前線より配置されたのか、軍服は汚れ、無残な姿、又は腕には囚人印の輪状入墨、酒を立ち飲みして、空の電線にマンドリン掃射、恐ろしい出来事を2階のカーテンの隙間から見ました。

一週間ほどの後に、正式軍服のロシア兵と交代になり、無法状態から脱皮できました。
ソ連兵の胸にさげている勲章に「スターリン!」と言って、お菓子を貰ったこともありますし、街の通りが明るくなりました。大きな赤顔のソ連兵が、仏壇を持ち去りました。何かの美術品と間違えたもの、父は位牌文字を写し取りましたが、その姿を思いだします。

昭和21年、強制で大連へ移動させられましたが、出発時は五台の荷馬車が、到着には3台と、途中消える不思議事がありました。大連では、家を転々とし、最後は小高い丘の五連結のビル、以前は日本住民の高級住宅だと思いますが、水道は凍結電気不通のランプ生活でした。

飲み水は、丘の下から、お釜の取っ手にひもを通し、天稟棒で運びましたが、最も困ったのはトイレ処理、大きい方は、山の如く凍結し、釘と石で削り取ったものでした。

食べ物は、コウリャンとジャガイモをいろいろと加工、薬はなく、腹が痛くてもニンニク、風邪もニンニクでした。今もニンニクは嫌いですが、この時の想いが強いからでしょうか。

日本引き揚げの通知があり、母は赤子を、私は弟を背負い、両手に袋、ずいぶん長い雪道を歩きました。途中、捨てられた赤子の姿も見ましたが、如何すべきなのか、自分の事で手一杯です。
当時のことを思い出すと、人間は無情悪が本質かとも考え、人間不信になります。

大連港の大型貨物倉庫が集合場所です。天井は高く広く、床はコンクリートで、その上に畳一枚敷かれた囲いもないところで、10日ほどの待機、遠い水平線に引き揚げ船が見えた時には、大声で喜びあった次第です。

昭和22年、ようやく日本に帰ってきました。
現在年寄りの手習いで、山形屋文化教室の木彫で彫刻とは異なる家庭で使う一般の用具を彫って楽しんでいます。

時を経て、2022年へ

(今回、ブログ記録集を作成するにあたり、松田さんから改めてお手紙の寄稿をいただきましたので、下記に掲載いたします。)

小生は、太平洋戦争の出来事は何も知りません。旅順は戦争の悲惨な出来事は発生していません。
小高い丘の上に在った第一小学校の校庭やグランドに兵隊さんの姿がなくなっても、唯回転運動具の鉄輪が残っているとか、日露戦争の忠魂碑の白玉山では遺灰が外に捨てられていたなどの記憶が全てです。

終戦直後、赤顔のロシア兵士が自動機関銃を空に向けて撃ったり、家の仏壇を持ち帰ったりしたことは
残っており、なんとなく日本が負けたのだと。現在のウクライナ報道と重なる面もあります。

昭和21年頃、内地帰還のために旅順から大連までの荷馬車移動ですが、先頭は父、二番目母と自分、三番目は使用人でしたが、目的地に到着までは満人の人達は逃げたのでしょうか。

居住場所は、幾度も転じましたが、最後の所は高級住宅街でした。今は珍しくないマンションですが、当時のビル建立は、すくなく、ほとんどが平家かアパートでした。でも、水道も電気もない高級住宅は最悪であり、水はバケツ天秤で肩に乗せ運びます。水洗便所は水がなく、便は凍結、金槌で打ち壊したりしました。

食べ物は、コウリャンパンやトウモロコシ、時々サツマイモは、最高品でしたが、苦しいとは思わず、唯腹一杯になるものはと探しましたね。薬はなく、頭痛も風邪も腹痛も筋肉痛もニンニクのおろしを飲んだり、貼ったりしましたので、現在もこの香りは嫌で、料理は素晴らしいのですが、ダメです。

遊ぶこともなく、一人歩きまわりました。大連の駅前大広場、大連ヤマトホテル付近など小学校2年生なのに、怖いもの知らずの少年坊主でした。引き揚げの集合場所は、大連港、雪道の中、背には弟を結び、弟の背間には、お金(日本銀行券)を父の実印と万年筆手には、風呂敷つつみを下げて、一日歩くのですが、途中には赤子の詰み衣も見ましたが、唯黙々と歩くだけでした。

大連埠頭は、最大貿易港であり、大きな倉庫が連建されていました。広大なコンクリート床に畳があり、唯、風は防げても寒さは厳しいものでした。一週間ほどの後に遠望視界の中に引き揚げ船の赤十字が見えた時は、歓喜の大合唱でした。

船の中の段々ベッド狭く、一人歩きの好きな坊主は、うろうろして船員さんの邪魔をしたり、おしゃべりをしたりして可愛がられました。佐世保の上陸では殺虫剤の散布は頭から身体中真っ白でした。

昭和22年日本へ帰還して熊本、天草、山口、周防へと転居して以来の思い出話を書きました。

令和4年5月7日

感想

2017年10月7日にお話をしてくださった松田さん。あれから4年が過ぎました。
今回、ブログ記録集を作成するにあたりご連絡したところ、快く、当時お話してくださった原稿と補足文を書いて送ってくださいました。

旅順と聞くと、日露戦争の戦闘の激しかった場所、というイメージが持っていますが、松田さんのお話で、日露戦争時の戦跡が残されていたことを知りました。

日中戦争が始まり、多くの日本人男性が応召され、満州におくられたようです。そして、記念写真を撮り、日本の家族に送っていたのでしょう。残された家族にとってはそれが最後の姿になるのかもしれない、そんなことを胸に秘めながら、松田さんのお父さんは撮影されていたのかもしれません。

その広間の机に寝かされていた赤ん坊の松田さんを見て、日本にいる自分の子供を想いだしながら、頭を撫でたり、声をかけられたりした兵隊さんもいたのかもしれません。

筆責:山下春美

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