鹿児島市在住、喜界島出身の平田静也さんが、2011年喜界島の自宅で、祖父、
平田武重さんの日記を見つけました。
そこには、戦争末期、喜界島で空襲に遭いながら、生活する苦しい日々が書かれてあります。
孫の平田静也さんは、祖父が米軍の激しい空襲を克明に記載した日誌を後世に伝え、平和学習になればと思い、2017年5月に冊子にして出版されました。
冊子は、A4サイズの横版で、右側に日誌原本の写真を、
左側に日誌をよみやすくするため振り仮名をつけて、活字化してあります。
その日誌をもとに、平田静也さんに、戦時中の喜界島の様子について話をしていただきました。
はじめに 平田静也さん
私が、1995年の夏に帰省した際、祖父平田武重の書棚に「戦時中の日誌抜粋」を発見しました。
それまでに戦時中の話を、祖父母や両親、きょうだい、地域の方々から聞いていましたが、
日誌を読むと今まで聞いたことが、そのまま記してあり、衝撃を受けました。
祖父は、喜界島などで尋常高等小学校の訓導をしていましたが、教員としての研鑽を積むために
神奈川県横浜市磯子尋常小学校へ異動しました。その後、太平洋戦争のため、1942年に
横浜市立磯子国民学校を早期退職し、喜界島に帰ってきました。
戦時中の家族は、祖父母(武重・梅)、両親(潔・ゲン)、子供4人(長女8歳、次女5歳、長男3歳、
次男)で暮らしていました。私は、終戦後の1949年に、三男として生まれました。
私の兄にあたる次男守利(当時7ヶ月)は、言葉を発し、ちょうど可愛い盛りの頃の
1945年5月9日の空襲で亡くなりました。家族がその悲しい出来事をよく話してくれました。
戦時中の日誌抜粋から浮かび上がることは、圧倒的な軍事力を持っている米軍、防戦の友軍、日米交戦の中で島民が死傷、家屋が焼失し、空襲におびえ逃げまどう島民、あわや友軍による島民の銃殺をいう
悲劇が起こるところです。
喜界島の悲惨な出来事を多くの人に知ってもらいたいと思い、昨年(2017年)冊子にしたところ、「喜界島でこのような惨事があったなんて初めて知り、大変驚きました」という反響がありました。
私たちの先祖は、大変な思いをして生きてきたのがよくわかります。
喜界島の戦時中日誌より 抜粋
※見つかった日誌は、1945(昭和20)年1月22日から8月16日まで。当時、平田武重さんは、56歳。
以下、冊子左側の表記してある文から抜粋しました。
1月22日 月曜 晴 北風
薪小屋の屋根普請をなすべく、親戚の武積を頼み午前9時頃、既に屋根に上らうとすると
樹間より望む。陣地(海軍喜界島飛行場)上空に数機の飛行機を認めた。瞬間、爆音、耳を
劈、漸く敵機なることを感じ、防空壕に入る。湾の湯屋(風呂屋)を中心に紬検査場の辺り、
爆弾による甚大な被害で、乾茂氏は、機銃掃射により即死。
大島人永行氏は、爆風にて一家全滅。小野津集落では、17名の即死者を出し、爆風及び破片
被害、目も当てられぬ状態であったと。当日の敵機は15機で爆撃なりしと。
1月24日 水曜 晴 北風
警戒警報解除。空襲警報の遅々なるを評すものあり、愚かな至りである。
民間(集落民)、はじめて敵機に襲われ、防空壕の必要を感じ、各自本気で防空壕を作る。
2月5日 月曜 晴 北風
池治集落の常会で時局談をなす、宮元部隊の浮村中尉が誘導路問題で、池治の補助を仰ぐべく
協議をなす。
2月8日 木曜 雨 北風
明日より、60歳以下の成年男女が、誘導路工事の奉仕作業出仕命令を受ける。
2月9日 金曜 曇 北風
本日、午前8時誘導路作業のため、町内の60歳以下の老若男女が湾国民学校に集合した。
1教室で大島中尉の訓辞があった。
大島中尉が壇上へ就くや否や彼は、よく聞かないやつは、殺してやるからなと短銃のケースを叩いて
威圧していた。はじめて乱暴の言に接した無垢な農民は恐縮していたが、言うこと成すこと、如何に
戦国の軍人とは言え専横極まる言動には、驚く外なく訓辞が終わって、校庭に整列し作業場
に向かった。
一兵卒が「若い方で、鶴嘴、シャベルを持ってください」と命令した。
大島中尉がそんな命令があるかと、横から飛んで来て3、4度討たれた。
顔に5本の指のみみずぶくれが出た。眼鏡は、2、3間前に飛んだ。余りの大島中尉の乱暴に
諦れた。
作業場に於いて一兵卒に尋ねてみた。兵卒は「私は入団して10日です。此の場所には、私の父
と母と同年輩の方が、大部分を占めています。私の父母を見るようです。どうして「持て」という
乱暴な言葉が出ましょう。「敬語を使ったら、殺すなら殺されてもよい。」と言っていた。
厳しさの中にも寛大さがあってはじめて、世の中の秩序はあるのではないか。日本の軍隊程、
無差別の乱暴はあるまい。老人組も10日間の奉仕である。
3月27日 火曜 晴 南
鄭安峯氏の製糖中、8時半、敵機現れ製糖を中止して待避し、午前中数回に及ぶ。午後は5時ごろまで
連続的に空襲。上嘉鉄集落外7ヶ所に火災を起こさせた。
晩は再び連続の空襲。上嘉鉄は再び火災となる。就床は1時であった。
3月28日 水曜 飛行機雲あり 晴 南
5時半頃、艦砲射撃の如く、火の棒が自宅の上空を走る。空襲続きで、体は綿の如くに疲れ切って寝ていたが、火の明かりに目を覚まし豪に走る。
8時頃 、6機が島の周辺を左廻した後、南方上空から這う様に陣地に突入、機銃及び爆弾を投下せり。
終日、3、4機での空襲があって、晝食の用意できず。12時頃は友軍の反撃によって、1直線に南方に走り、漸く晝食をなす。1時半また来襲、2機は見事に必中弾のお見舞いがあった様に認められた。
晩は無音。
4月30日 月曜 飛雲晴 南
早朝3時、既に敵機の爆音、陣地突入の機銃声に目を覚ました。毎朝毎晩の事で、身が疲れたのか、少し大胆になったのか、家族は待避豪へ入ったが、余は座敷を動かなかった。哀れ、制空権も米軍の手に入ったらしい。
然し、期を見て撃つのか、3機みるみる火を負って海に投じた。米軍が一飛行士の身命を
も残らず、之を救助して行く有り様は、日本の軍隊では見ない愛の奮闘である。
然し、本日の空襲は、昨日に比すれば至極簡単であった。
5月3日 木曜 雲あり晴 北 旧3月23日
昨夜は終夜、敵機爆撃せず。島の周辺陣地上空を飛翔し、友軍機及び御用船の制圧らしい。
午前8時から再び爆音があり、10時、数十機現れ南東上空から這う様に陣地に大空爆、全く生きた
気はしない。防空壕に爆風と小石を降らす。加島養豊氏宅の前後や久田豊広氏外宅地に爆弾投下された。被害は少ない。
当日大兄(平田常友)は老齢にて、待避豪で雨に濡らしたため風邪となり、然も医師の
診断も出来ず、食料も十分ならぬ有様で遂世を去った。当時、空襲が激しく親戚が集まるのも
出来ず、箱(柩)を作りつつも兄を残して待避豪に走る有様で、漸く暗夜に兄の骸を野辺に
送った。悲惨な兄の最後を今、偲ぶとき夢の様で、弟として任も果し得ず、茫然とならざるを
得ない。噫兄よ許せ。
之も彼も日本軍部の専横の犠牲となったのだ。残った、私なども如何になるやら見通しは
付かぬのだ。嗚呼守り給え。
5月4日 金曜 曇晴 北
午前3時頃、既に敵機現れ小島の周辺を飛翔し、薄気味悪いが床にいた。
6時、数機現れ陣地爆撃す。兄の墓前に礼拝していると、全く僕の上をかすめて突っ込んだ。
敵機の襲来と云うよりは、敵機の巣と云ってもよい。
敵のなすがままに振舞わせている状態では、日本軍は何所にありやといい度い。
5月9日 水曜 晴 北
午前6時、Bらしい爆音を聞くと思う間に、陣地上空に爆弾投下、耳もつぶれる程であった。
防衛召集の在郷軍人は、飛行場の修理をして午前2時に帰宅した。
11時半頃、4機現れ形ばかりの空襲をなして去る。午後3時、数十機襲来、猛烈な爆撃を陣地へ
なした。
4時頃、南の方へと引き上げて帰ったが、直ぐその後を追って、4機が機銃掃射をはじめた。
帰って去った積もりに農民が、安心しているところを掃射され、その機を逸せず、油脂焼夷弾
を東方(6.7.8号、5.4.3号)に投下され、みるまに荒木集落の半分は、火の海を化して、馬40頭、120戸約480棟が灰儘にきした。
当日、4時から飛行機も去ったし、夕食を早々と済ませて小麦刈りに行くべく、家族が夕食をしていると、愈機銃掃射に遭い、待避の期を失い、守利(当時2歳)を抱いてゲン(長男の嫁)が床下へ隠れているところを左手に摩傷し、守利(孫)を貫通し、右手腕に止まった。守利は、即死した。
負傷した二人の介抱を燃え上がる馬小屋を始末し、潔(長男)は、ゲンと守利を待避豪で
看護した。
夕刻になって、守利の野辺の送りを待避豪から出したときは、残念であった。悲惨な最後も軍の横暴の結果だと考えたとき、字中(集落)を通る兵卒すら憎まざるを得なかった。
5月16日 水曜 晴 北
午前4時、数機現れ陣地突入。家族は寝床を蹴って待避豪へ走る。日中は無音で何だか薄気味悪い。
沖縄島に7万人上陸されたと、民心は生きた気はしない。喜界の上陸も近々にあるものと噂がパット上がる。西武積と潔(長男)両人は、川嶺集落に借家すべく晩立つ。8時、2機現れ機銃掃射をなす。
5月19日 土曜 早朝曇10時頃より雨 南風
早暁から爆音なく、小麦刈りに行き終えて帰るころは、大島に爆撃の音物凄く、見参りを受けるかと思うと気が気ではない。
正午、川嶺集落に21日までの三日間の中に疎開すべし、疎開せず滞留するものは、銃殺にするとの命令が下がった。4時、1部分と荷物は疎開させ、余は8時頃、川嶺集落へ住み慣れた家を去った。
誰かは、涙なき者があったろう。
5月20日 月曜 雨 南
昨夜、川嶺集落の野上宅に一宿をなし、明日は、早朝から待避豪の選定である。
荒木字(集落)民の作った豪は、既に満員、8人の家族を入れる余地はなかった。それで、知らぬ山中の洞を探し、漸く見つけ出して移った。泥土の道、降る雨は頻りなり、煮炊きは出来ず、洞穴で夜は暮れていく。全く豚の巣というか、哀れ、座したまま明日を待ったが、待つものの心苦しさ限りなく、一睡もせず明かした。潔(長男)は防衛に召集された。
5月22日 火曜 晴 北
昨夜は降雨のため先ず、人間生活として無き雨洩り。空洞生活、座り寝しながら、着物は濡れ、
語るも、話すもの涙の玉で目は光っていた。哀れ哀れ斯くまでに至るとは・・・。昨夜苦しく立
濡れをしたので、笹を刈り来りて、小屋を葺く者、種々に働いていた。干し物の人。但し、敵機に見えぬ所と云う命令であった。馬草を刈るため丘の上に行ったが、霞がかかった荒木集落の姿を見たとき、
「噫噫と父母が眠る荒木よと叫ばざるを得なかった。
5月23日 水曜 曇雨 北
今日で、川嶺集落疎開は、5日目である。洞窟の中の生活、しかも林の中の生活。勝つためだというが、私はそう思ったことはない。今迄の日本軍の処置を考えるとき、只上陸に備えるためだと、若し、
上陸ということになれば、おそらく喜界島民は、玉砕(全滅)という尖名の下に死なねばならぬ。
然名字疎開して心配しているのに、川嶺集落民は、煙を立てて炊事をしている。
6月16日 土曜 晴天 西
11時頃より来襲し、2機陣地に突入し爆撃したが、遂に撃墜される。其れを知らずに米子(姪)の当原に芋蔓を植えんと馬耕していると、20数機のシゴロスキー・グラマン機現れ、2機の援護爆撃、機銃掃射である。遂に援護範囲を拡張され身の働きも取れず、馬諸共機銃掃射を受け、馬は驚き隠れ場を失い、漸く漸く字(集落)近くへ逃げ去ったとき、私たちも走り去った。全く生きた気はしなかった。
晩は、一機また2機とリレー式に機銃掃射をした。敵と友軍の機銃弾の交戦は、全く花火のようで、恐れてはいるものの、見たさに待避豪の入り口で見ていた。
6月27日 水曜 晴天 西
早朝、敵機現れ上空から陣地の偵察らしい。偵察帰りには、時々荒木集落に機銃掃射をするので、其の辺のことは、字民(集落民)総てが心得て、待避生活をするのだ。何時だって、南方から敵機が飛来するので、沖縄の情報が悪いことは、口々に話をしている。
陸海空の制権は独専されている。今日、日本の戦闘力の薄弱さが察せられる。哀れ哀れ。
7月5日 木曜 快晴 西無風
早朝から爆音はするが、近寄らない。何れにせよ沖縄に、敵はいるのだから、喜界島の友軍が
如何程に頑張っても無駄である。何れ上陸も免れない。不安不安で暮らしている。
7月8日 日曜 大雨 西
本日は敵機の爆音なく芋植え。畠に堆肥を運んだ。大雨降り無駄にして中止した。爆音
を聞かない日は、面白い精神状態で、淋しく不安を感じる。
7月14日 土曜 快晴 西
終日平穏であった。沖縄の情報、既に知る由なし、上陸によって玉砕(全滅)した。将士のこと
も思われる。それでも、日本は勝つと思ふのか。我々には、如何なる角度から、欲目で見ても
考えられない。 (将士:軍の将校と兵士)
7月17日 火曜 飛雲晴 西
平穏なり、沖縄占領に依って、南方は完全に遮断された。日本の策戦は崩壊された。米国
は、飲料水も不足の土地ではあるが、東洋に於ける要なる土地である。
軍備によって、将来、日本を抑える重要な土地とならう。沖縄のことを思い、日本の将来を
考えたとき、何だか、胸に何物かが打ちはさまってしまった。Bらしい爆音だ。危ない危ない。
7月19日 木曜 曇雨 南
60歳以下の義勇軍が組織され、其の待避豪を掘るべく、山田集落の山中に行き、午後5時まで
就業して帰る。
「泥棒を捕らえて縄をなう」の譬へだ。日本軍だから如何なる無理をなすかも知れぬ。こんな
豪に立てこもって、昔の弓矢の戦いを今に持ってきたような、未界の戦争ごっこだと思うが、やる丈けはやらんとね。
8月7日 火曜 快晴 南
早朝、Bらしい爆音を聞いたが、近頃、横着になったのか、慣れ過ぎたと云うのか、待避する
気にもならぬ。11時頃、何所から来たのだろうか、友軍機が日の丸鮮やかに飛来したが、惜しや
飛行場が爆撃されて穴だらけのため、故障を生じたと、之が日本の飛行機の最後の勇姿かも知れぬ。
字(集落)の上を低空して水天宮の森すれすれに着陸しようとしたとき、涙なくしては見て
いられなかった。
8月9日 木 晴曇 南
早暁、一機偵察らしく。7時ごろ、5、60機、北上の爆音を聞く。午後3時頃、小雨となる。
ソ連国午後1時日本に対し、宣戦布告せりと。
8月14日 火曜 曇アリ晴 南
午前8時、内地での空襲の北上中の敵機が威勢を揃えて去った。停戦条約中なりと。
8月15日 水曜 晴 南
昨夜11時頃、爆音に目を覚ました。然し、空襲なし。本日、無条件降伏をなしたと。哀れ
哀れ あの軍部の威勢は何所に。
8月16日 木 晴天 南
午前9時、北上の敵機、幾百そ。示威のためであろう、双発機が翼を並べている。
敗戦国の哀れ、働く気にもならぬ。身体中の骨を抜かれたようである。
戦争は、あらゆるものの破壊である。
感想
平田さんの話を聞いて、初めて戦時中の喜界島の様子を知りました。祖父、武重さんが防空壕や洞窟の中でも一日の状況を記しておられたことに驚くばかりです。孫の静也さんが発見され、読みやすく表記した冊子を出版されたことで、当時の様子が誰にでもわかるように届けられたことに感謝します。
日誌を読んで、考察される部分が 私は二か所ありました。
一つは、日本軍兵士の横暴な所業です。(福留利光さんの中国従軍日記でも軍内の上官からのビンタの乱発が書かれてありました。)そのような様子を見ていた島民たちの心は、日本軍の兵士たちへの嫌悪感しか生まれなかったことが日誌から推察されます。
二つめは、制空権が支配された、沖縄が占領された、という状況から、日本が勝つということがあろうか、という認識をもっていた、ということです。
市井の方の日誌から、当時の日本の戦争に対する考え方や国民に対する姿勢を知ることができます。
戦後77年を経て、この考え方は、変わってきているでしょうか?常に考えていきたい問題です。
喜界島では、空襲で461人の方が亡くなられたそうです。お一人おひとりの人生があったことを、記憶に留めておきたいと思います。 筆責:山下春美
お知らせ
平田静也さんは、「喜界島の戦時中日誌」を鹿児島県内の主な図書館に寄贈されました。
鹿児島県立図書館、鹿児島市立図書館、鹿屋市立図書館、奄美群島の市町村図書館です。
閲覧を希望の方は、上記図書館あるいはこのサイトのお問い合わせからご連絡ください。
今回、喜界島の戦中日誌との出会いから、喜界島に大変関心を持った有志で、2019年11月に喜界島の
戦跡めぐりに出掛けました。案内役は、平田静也さんでした。その時は、喜界島独自の行事「ウヤンコー」がある時で、それも体験させてもらいました。また、喜界島の戦跡めぐりの報告は、記事にしたいと思います。
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