明治維新から軍国主義まで       2019年1月26日(土)

2019年

 アジア・太平洋戦争の因は、何所にあるのか?
そんな疑問から、田頭壽雄さんへお話をしていただきました。
(配布資料は、下記をクリックしてください。)

配布資料 年表 表面   
配布資料 年表 裏面

はじめに

大きなテーマを貰いまして、私流の解釈で話します。ご批判をお願いします。配付しましたレジュメを中心に話します。年表の裏に、プラスアルファの資料は、今までの知識に加えた資料や新刊書です。
それを読んだ史料も加わっています。

今までの県立高校の社会科の教師としての知識に、これらのものが加わった話になります。地方の高校を廻っていますと、自分の専門だけの地歴(地理歴史)の免許だけの科目をやる訳にはいかないものです。日本史、世界史、地理、政治経済、倫理社会、それらを全部、広く浅くやらされました。ある意味では幅広い知識が出来たと言えますが、余り深くはなれないという要素があります。そういう私の中身で話をします。ですから一杯、反論が来るのを期待しています。

参考資料の中に『満洲暴走-―隠された構造―大豆・満鉄・総力戦』というのがあります。(資料裏面)
彼のその本を見ると、ほとんど日本の軍国主義はよく分かるようになっています。
私はこの本をメモしながらじっくり読んでいます。

私は終戦の時に小学3年生、ですから、ほとんど戦後の9条を持つ平和憲法の中で教育を受けて育ってきました。そういうわけで、私の少し先輩の人たちとは、かなり対立することが、研究会などでありました。私は戦前の軍国主義の感覚を肌では感じられないのです。ここには、私より若い人もおられますが、私より上の人は軍国主義時代のことをよく知っておられます。研究会の席で年配の人から「お前のいうのは少し違うのではないか」と批判されたこともあります。軍国主義時代に育った人は、我々が軟弱な世代に見えるのではないでしょうか。

出水の郷土史を書くときや、石碑を書くとき、メンバーの人たちがほとんど、50代の私より先輩でした。みんなを敵に感じていました。特に日露戦争の評価なんですね、記念碑を書いた時、年配の人と良く対立しました。それは「こういう考え方もあるのか」と、いい参考になりました。

1789(元文4)年 フランス革命 1853(嘉永6)年 ペリー来航

配布しました年表を中心に見ていきます。

最初のフランスの人権宣言、人権が認められ、王から人民に権力が移っていくという、このフランス革命とロシア革命なんかが、共通点があります。日本の明治維新も、薩摩側からの評価と、江戸幕府側からの評価ではがらっと違うのですが、嘉永6年、1858年ペリー来航の頃に日本の軍国主義のスタートがあるのではないかと私は捉えているのです。

なぜかというと、黒船4隻が来て日本はびっくりしたと、「上喜撰(じょうきせん。緑茶の種別銘柄で宇治の高級茶)たった四杯で夜も眠れず」という狂句があるように上キセン」、上等の茶を飲んだら夜も眠れないというペリーの蒸気船の軍艦と上等のお茶の上喜撰を掛けたものです。

日本にはいない軍艦が来て、びっくりするわけです。日本を砲撃したりして、力の外交で「日米和親条約」結ばせるわけです。幕末の人はこんなのをちゃんと経験しているわけです。これがトラウマみたいになって軍国主義に繋がっていくのではないかと考えるわけです。力で港をアメリカに開かせたというものです。

その後、各国と結ぶのが「安政の仮条約」、つまりアメリカ、イギリス、フランス、ロシア、オランダとの「五か国通商条約」、これは日本に不利な不平等条約です。何が不平等かというと、関税が自分では決められないというものと、もう一つは治外法権を認めるというもの。これを何とかせにゃいかん、というのも軍国主義の背景にはあるようです。西洋並みに力をつけないと馬鹿にされるというのがあるようですね。幕末の、こうした背景が軍国主義と繋がると考えます。

攘夷論が非常に強かった中で、こういう開国をした井伊直弼という人、反対する人がかなりいた。外国は打倒せというのが攘夷ですから、その反対の人を大量に処分したのが安政の大獄です。開国はけしからんという攘夷派の人を100人以上、を処罰したもの。

それには吉田松蔭や西郷と一緒に入水自殺を図った月照の、その弟もいたのです。吉田松蔭という人は、評価が分かれるようです。一般に高い評価を受けていますが、反対側の人たち幕府側、会津藩の人たちは全然評価していないのです。その徳川派を代弁して書いたのは、原田伊織の『大西郷という虚像』などです。

この本もかなりメモして持っているのですが、この作家の、もう一つ『明治維新という過ち』という本、この人は井伊直弼の出た彦根藩の出身、だから井伊直弼には親しみを感じているわけです。「江戸にはいいシステムがあったのに、それをぶち壊すのはおかしい」という視点があるようです。

この人の本も読む必要があると思います。向こう側から見た史実が判りますから。私は「西郷隆盛」の大河ドラマが始まる前から、西郷に関する本をかなり読みました。鹿児島では西郷べったりですが、そういうのと対極にある本が原田伊織の本です。大阪外大を出た人、あの有名な司馬遼太郎の後輩になる訳です。原田は司馬についても批判したりしています。私の話には原田の考えも入っているかも知れません、読みましたので。

1860(万延1)年 桜田門外の変

年表で「桜田門外の変」というのがありますが、安政の大獄の反動というようなもので、井伊直弼が暗殺された事件です。水戸の浪士が17名、それに薩摩の一人、有村治左衛門がいて、これが井伊の首を上げたというものです。それから7年ぐらい後に「大政の奉還」というのがあります。

その間にもいろいろありますが、このへんが明治維新の関連の中では、一番、劇的で、激烈で面白いですね。「王政復古の大号令」があります。この時の前に「御所会議」があり、天皇を味方に付ければ相手が朝敵になる訳です。賊軍になる訳です。天皇を味方につけようと薩摩も画策しています。

御所会議に西郷は入っていないのですが、公卿や各藩のメンバーなどが入っているのです。そこで、なかなか進まなかった会議が、徳川慶喜も加えてやるべきだという強い意見があったりして、どうもうまく進まない。その時に西郷が漏らしたという言葉「ドス一本あれば」、と暗殺をちらつかせて、テロを匂わせる。

江戸のテロ集団「赤報隊」を指導した西郷の姿が出ています。それが御所会議の中心人物に間接的に伝わる、ということになっているのです。王政復古をもう少し待つべきだという慎重に進めるべきだ、というような反対派や慎重派が、このテロ的発言に恐れをなして、御所会議の雰囲気がガラッと変わるのです。

この辺のテロ的、暴力的武力的な雰囲気が軍国主義の出発点になっているような感じがします。いうなれば、軍国主義というのは薩摩や長州からスタートしているような気がしてならないのです。こんなことを言うと鹿児島では袋だたきにあうのですが、皆さんも私を徹底的に批判してください。

最近、私が読みつつある本『西郷隆盛』というもの、2017年に出た本ですが、最近やっと私の手に回ってきました。何が特徴かというと、全部、第一次資料で判断している本です。「また聞き」とか、そんなのは一切なくて西郷本人の手紙とかで判断しようとしている本です。この著者は、「今後、征韓論など訂正しなければならないものが出てくるだろう」と書いています。

史料というのは一次資料が大事なんです。手紙とか日記、古文書など。誰かが意図して書いた本とか、伝説とかは信用度が落ちるわけです。このような資料を大事にしてみなければならない、一次資料のこと、南九州市の学芸員である新地浩一郎氏という若い人ですが、私はこの人のファンなんですが、一次資料などのランク付けをするという講演を聞きました。

『西郷隆盛』という本、ドス一本あれば、というあたりはまだ出てきません。西郷がそういったことを誰かが手紙に書いているというような表現です。

鹿児島には武に関する言葉が多いようです。ことわざみたいなものに「ナコヨカ、ヒットベ」があります。「色々、悩み考えないで、やってしまえ」というような行動力第一主義的なこと、ヒットベがそれです。ナクというのはいろいろ考え思慮をめぐらすことになります。「イッコンメ」というのもあります。「タチンコンメ」というのもあります。「相手がやってくる前に」が「イッコンメ」、「相手の太刀が来る前に」が「タチンコンメ」です。こういう「武」に関する言葉が薩摩には多いと識者が指摘しています。これが西郷の「ドス一本あれば」に繋がっていくということになります。

1868(明治元)年 明治維新

それから明治維新、これは評価も色々あるんですが、原田伊織によれば、クーデターであるということになる。権力を江戸幕府から薩摩や長州が「おっとった」ものであるというもの。革命だという説もあるんですよね。所が後あとは、これが革命的に変わっているのではないかというのが私の考えです。

スタートはクーデター的であったかもしれないが、後では革命、例えば四民平等、この四民平等がなければ、今、私はここで立ってものが言えないんですよ。四民平等は江藤新平たちがよく言っていたらしいんです。私は農民の子孫ですから、世が世であればこんなところに立てないわけですよ。大体、武士が握っているわけですから。

この一点を見ても私は明治維新の政変は賛成ですね。これはフランス革命もロシア革命もこのような性質を持っていますし、カストロのキューバ革命も似ている点があります。そんな意味では評価できる、しかし、原田伊織はクーデターだという、そんなことをしなくても江戸時代の幕府は優れたシステムを持っていたのだ、交通も整い、回船という海上交通もあったのだ、それをわざわざこわす必要があったのか、というのを外国の人も評価していると言えるというのを原田伊織は指摘しています。

だから評価は色々あるんですよ。明治100年で鹿児島なんかかなりソド(:大騒動)しましたけれどもね、そういう評価もあるんですよね、一方では。

それから、明治維新の前に吉田松陰は若くして処刑されてしまうんですね。この吉田松陰が唱えた外交政策があるんですが、その通りに日本の軍国主義が進んでいますね。樺太とか対馬を「おっとれ」と言っているんです。朝鮮や中国にも出ていけ、南にも出ていけ、と言っているんですよ。そういうことをせにゃいかんよと松陰は言っているんですよ、その通りになっていますね。

太平洋戦争が終わるまでは、その通りに侵略しています。原田伊織は、松陰をコテンパンに評価していますね。彼を暴走族みたいな男だと評価しているようです。松陰を高く評価するのが一般的ですが、しかし原田伊織が言うようなことも史実から一面と、とらえられます。だからその両方を知っていて、物事は判断すべきなんですよね、私はいつもそんな姿勢です。

反対側もよく見ておかないといけない、喧嘩も両方の言い分を聞かないとよくわからない、夫婦喧嘩も離婚も両方のいい分を聞かないと真実が見えてこないというわけです。私の教え子が離婚して、男の側から情報が入ってくる、そうすると奥さんがぜーんぶ悪者になる、それと奥さん側からの情報がある、両方を聞かないとよくわからない、そういう面があります。

1871(明治4)年 廃藩置県

廃藩置県とあります。1871年ですね、この時に欧米派遣というのがあります。大久保利通はこの中に入っているのです。ヨーロッパでしっかり欧米の情報を身につけて帰るわけです。そこが西郷と違う決定的なものですね。西郷はこの時に留守番をしているわけです。内閣の留守を守っていたのです。

その中心が西郷です。その功績は大きいですね。ただ、その時の留守の政策が海外膨張政策であったということです。欧米派遣というものは、そのような意味があるわけですが、ただ海外で欧米をよく研究してきたら、力が大事だということなんですよ。

その力というのは経済力、その経済力に繋がる軍事力、そんな力をつけないと駄目だという、当時はそうです。それが今、当てはまるかは別ですね。今では9条の平和憲法の精神が世界では非常に大事にされている時ですから、そんなのは当てはまらないかもしれないが、その頃は、そういうことを考えているんです。

明治維新が成功したのも、かなり武の力があるのですよ。西郷が大量の薩摩藩を率いて威圧する場面が出てきます。それから赤報隊という江戸を混乱に陥れたテロ組織、それも西郷が指揮しているのです。それが江戸を引っ掻き回す、それに腹を立てた幕府側が薩摩屋敷を焼き打ちする。その時に西郷が「しめた!」と言ったという伝承があります。嘘か本当かわかりません。

挑発に幕府が乗ってくれたという「しめた」だったというものですが、伝承で本当かどうかは分かりません。西南戦争の時も似たような伝承がありますね。草牟田の武器庫を爆発した、その時に西郷は大根占のあたりで狩りをしていたんですが。その情報を耳にしたときに、西郷は「ちょっしもた」といったという言い伝えがあります。

文章も何も証拠もありません。それはいかんなぁ、挑発に乗ってしまったなぁ、若い人たちが、という意味なんです。西郷は手紙意外に文章を残していないそうです。口頭で言ったというのです。西郷の特徴は「テゲ」というのがあります。「テゲ、テゲ」のテゲです。

これは伊藤博文が言っていることで「テゲの精神」、あまり細かいことは言わない。うまく行かないときには最後に一喝する、それが西郷らしさと伊藤は言っているのです。だから、そういう姿勢が大物に見える西郷の虚像を作っていったのではないかと、そういう評価もされています。

西郷は文章を残さない、西郷の「しめた」も「ちょっしもた」も本当かどうかは分からんですね。この焼き打ち事件で戊辰戦争が始まります。戊辰戦争を指揮したのは西郷です。これで勝って明治維新というのが出来ていく、こういう武の力で成功していく、このことが軍国主義に繋がっていくという風に私は捉えています。

大久保の大米派遣、大久保という人は「戦争をやってはいかん」と言う人、『大久保利通』という本に出てきます。なぜかというと、戦争は相当にゼンがかかる、ゼンがかかると国が疲弊する、それでは外国に力を示せないんだ、だから西郷の征韓論などに対しても、あちこちの戦争に対しても、しちゃいかん、という立場であったと、この本には出てきます。

けれども、一つだけ武力をやったのは何かというと、奄美大島を過ぎて沖縄をおっとったというもの、なぜ大久保はあれをやったかというと、これを言うと長くなるのですが、琉球というのは中国にも所属し、薩摩にも所属していました。それを両属関係(板書)と言います。

大久保は、それを何とかかせにゃいかん、という人だったんです。私は漂流記を暇を見て読んでいますが、中国漂流記には、薩摩の船が中国に漂流した時に、琉球の人が乗っていたりすると、その名を改名させたりして、絶対に薩摩が支配していること、おくびにも出さないということをしているのです。

それをしたら両属を知られる、中国に属している形から琉球は中国に朝貢(板書)します。帰りに大量の土産を持ってくる、その土産を薩摩は、おっとるわけです。これが密貿易の利益ということですから、両属は知れたら、これができなくなりますから、薩摩が琉球を支配していることを中国には絶対、知られたらいかんという姿勢、マニュアルがあります。

向こうから、こう質問されたら、こう答えよ、というマニュアルです。そんなやり取りが漂流記の中に出てきます、非常に面白いです。漂流者が長崎に送還されて帰って来て、また取り調べを受ける、そこで送って来た中国人がそばにいる時の答えと、帰った後の答え方がガラッと変わっているのです。

「先程は中国の人がいたので言わなかったが」と、いうような長崎奉行所での場面も出てきます。そういうように非常に気を使っているのですが、中国は先刻そういうことはご存じだと、そういう説もあるのです。スパイのような人がいて、そんなことは知っているが、それをわざわざ荒立てる必要はないと、そんな利益にもならないことをしても何にもならない、それが中国の大国としての立場だというのです。

私は、その説が信じられると思います。知らないはずがない。大島から米を積んで帰ってくる船が中国の舟山列島に漂流した、その説明に「江戸に向かう途中に漂流した」と答えている。その頃、中国はある意味では、世界の情報にもっとも通じた国ですから、詳しく聞いていけば、それ(漂流者の答え)が嘘だというのは分かるわけですよ。

米漕ぎに行った船が7日間漂流する、非常に面白い、「鹿児島を出て江戸に向かう途中で風に流されて舟山列島に流されて来た」と答えているのですが、詳しく突き止めていけば、風の状況とかで、それが嘘だということはばれるはずです。そんなのを中国は詳しく追及していないのですよ、中国は。テゲでよかがと、あばき立てたら、お互いにろくなことはないから、という立場なんですよ。

長崎にいたスパイのような人物がいるんですよ、その人は自由に外に出られる人なんですよ、外へ出たら中国と関係の深いお寺などに行って、そこで日本に関する情報を集めて帰ってくるわけですよ。その人は何年かに一度中国に帰るわけで、そしたら必ず王様に会いに行く、ということで、情報を伝える役、だから(薩摩のそういう)情報は中国に伝わっている、そんな関係なんですよ。(板書「両属関係→琉球処分)琉球の両属関係をなくしていきたいというのが大久保の考えであった、これが唯一、大久保がやった武力だ、とこの本には書いてあります、なるほど、大久保も全部が全部、武力否定ではなかったということです。

1873(明治6)年 徴兵令公布

そのあと1873年に徴兵制が施行される、そして4年後、西南戦争、これも評価が色々ありますね。ここに出てくる年表を一つ一つ説明していたら、それこそ何時間もかかるわけです。だから私はかなり走っているわけです。

1894(明治27)年~1895(明治28)年の日清戦争

ここからが日本の軍国主義の具体的なスタート。

その理由は、清が朝鮮に力を示してきた、だから口実としては「朝鮮の独立と東洋の平和を」というのが日本の言い分ですね。そして勝つわけです。地図があればわかるんですが、日清戦争の「日清」というと清という大きな中国と戦ったようなことになりますが、朝鮮のごく一部の地域での戦いです。

日露戦争も似たようなものです。「日露」というと、あの広大なロシアと戦争をしたようなイメージですが、ごく一部なんですよ。これに勝ち、先程言いました不平等条約の一つの治外法権がなくなるという、これもその力の証であると評価される。

1904(明治37)年~1905(明治38)年の日露戦争

これはロシアの勢力が満州から朝鮮にやってくる、これを懸念したということで日本とロシアが対立するわけです。それで戦いが始まって日本では、勝った、勝ったと喜んでいます。出水の海岸に米ノ津というところがあって、その海岸に乃木大将が凱旋してくるわけですよ、その凱旋してきた時を書いた資料がありますが、杉で門を作って盛大に歓迎し、近くの国道の米ノ津橋の所から人力車に乗って鹿児島に向かう。

日本は「勝った、勝った!」を日本政府は最大に利用するわけですよ、日本海海戦の東郷平八郎、多賀山に記念像があります、この時、バルチック艦隊に勝利します、この時に生き残ったロシアの軍艦オーロラ号、現在、ロシアのサンクトペテルブルグに係留されています。私はそこに行き、中を見学して来ました。そこからレーニンはロシア革命の指令を出しているのですよ。

私は「日ソ親善不戦の誓い訪ソ代表団」という総評系のツアーの一人として行ったものですから、向こうでは大事にされ歓迎されるのですよ、そのオーロラ号ではずらーっと観光客が並んでいるんですが、我々はパトカーの先導で、着いてすぐ真っ先に入れてくれました。「あの長い列で並んでいるのは?」「フランスからの観光客のようですね」。それぐらい人気のあるオーロラ号では、中をじっくり見て回りました、レーニンが座っていた椅子や机があるんですよ。

1917(大正6)年 ロシア革命

レーニンというとロシア革命を成功させた人ですよね。日露戦争は(日本にとって)日本海海戦の時が限界だったといわれています。もう、それ以上戦ったら負ける、それがロシアの作戦ですよ、ずーっと中まで入らせて弱るまで待て、という作戦、国土が大きいから、そこまでも退却できるわけですよ、攻め込んできた相手が補給などが途絶えて弱った頃に叩くという、ロシアの伝統的戦法です。ナポレオンもそれにやられて負けますね、ヒトラーもそうです。

そんなわけで日本は、続けていれば負けたんですよ、もう限界で、アメリカにどうにかしてくれと仲裁を、斡旋を依頼している。このへんは日本ではあまり言いませんよね、勝った、勝った、ばかりで、内情はこんなことをしているのですよ。そして、その結果、賠償金は取らないことになって、満州に権利を得ますね、そういう結果が出てくるのです。

これは非常に日本中がソド(:大騒動)した戦争ですから、その戦費は、この年の日本の総生産に匹敵する額と言われています。物凄く金もかかったわけです、勝ったからよかったようなものの負けとったら大騒動だったでしょうね。そのために政府は、全国に記念碑を造るわけです。

その裏を見てください、その資料を載せました。「日露戦争の記念碑」、全国に普遍的な記念碑、どこにでもあるというもの、「大国に勝った」と宣伝し、軍国主義を教化し、精神的主義的神話、白兵戦至上主義、弾がなくても勝てる、などを作り出すのに大いに利用した、と。

総力戦で、戦死者が8万8000人、明治36年のその年の国民の総所得と同じ戦費、身近に必ずと言っていいほど戦死者が出た、これだけ死ねば身近な人も多かった。私の出身地区、出水市米ノ津今釜に記念碑があります。私は、これを全部くまなく書き取っています。

書き取った後にコンクリートが剥がれて壊れましたので貴重な資料になっているのですが、その中に田頭というのが出てきます。私の縁戚かもしれません。多くの戦死者、だから、その悼む気持を反戦に向けないで、国家のために作ったのが、この日露戦争記念碑であると研究者が書いています、それを研究している人などの本を4・5冊読んで、この資料を作ったのです。

いい加減に書いたわけではありません。「碑を読む」という資料などをよく読んで、そのエキスをここに書いたわけです。これを私は『出水の石造物』という本の日露戦争碑の解説に載せようとした時に、私のずーっと先輩たちに猛反発を食らいました。このあたりが戦前派と戦後派の違いだと感じました。

余り反対するもんですから「私は、これこれの本を読んで、これを書いたのですよ、どこがおかしいか、一人ひとり意見を書いて出してください、それと私の意見とどちらが正しいか、それによって、今後、いろいろ対処を考えます」と言ったんですよ、余りグジグジと、こんなのは載せるな、と言うものですから、そしたら、「それほど、あなたが言うのなら」と言って、『出水の石造物』にも載っています。

新しく出た『出水郷土誌』にも、そっくり出ています。これは専門の研究家が書いた成果ですから、私は自信をもって載せたんですね。「身近に戦争犠牲者が出たので,その気持ちを国家に引き付けるために碑の建設を奨励した」物なんです、後からは在郷軍人などが中心になったようですね、「国家への忠誠心養成」、国家というあたり、国民ではないんですよ、人民に対するのではないのですよ、「戦争以下、銃後協力を国民に醸成するための機能を果たした。

太平洋戦争の犠牲もこの延長線の上にあることが分かる」、精神主義的神話というのは戦争の記録の中にいっぱい出てきますね、代表的なのが、あのインパール作戦を指導した牟田口廉也という人、あの人は徹底した精神主義者、面白いことを言っていますよ、「弾がない、弾がないなら素手で行けと、腕がやられたら足で蹴れ、足がやられたら噛みつけ」と、そんなことを言っているんですよ。

完全に精神主義ですよ、最後まで死ぬまでそんなことをせよと言っている、彼は日本で言えば軽井沢のような所にいて、現地の兵に、進め、進め、とそんな指令を出している、現地と指令の乖離がひどい、そしてインパールの現地と日本の中央の参謀との乖離もひどい、これが日本の戦争の特徴だ、というのですね。

そういう日露戦争の記念碑です、今では使わない、何とか卒とか、それから輜重兵とかの文字が出てきます。その日露戦争の碑文の中に出てきます。いうなれば、素晴らしく美文です、私は美文はあまり好きではないのですよ、ありのままに、書いた方がいいです。形容詞や副詞が非常に多いです、誇張して書いています、そういうのが日露戦争の記念碑です。これはどこの集落にもありますから一度読んでみて下さい。

1918(大正7)年 シベリア出兵

シベリア出兵というのがありますね。各国が撤退した後に日本だけは居座っているのですよ、日本はロシアが満州で不可侵条約を破って攻めて来たと、そればっかりソドいいますね、日本は、それをよく言いますよね、日本は、その前に、このような内戦干渉もしているのですよ。

そんなことは全然言われない、私はソ連に2回と、ロシアになってから2回と4回行っています。その時、向こうのお偉方や説明者によく質問しました「日露戦争を知っているか?」と、「知っています、ロシアは負けました」と答え、そのあとに必ず付け加えます「だけど二次大戦では勝ちました」と、必ず付け足します、私が訊いた全ての人が例外なく、そう答えます。

それで、私は次に「尼港にこう事件は知っているか?」と訊きます。それについて質問した人では、今まで誰も知りませんでした。これはニコライエフスクナアムーレという今の名前ですけれども、極東の樺太の北の、少し西側の大陸にある都市なんですけれども、そこで起こった事件なんです。

シベリア出兵の余波と書いていますが、そこには日本企業とか日本人とかが行っていて漁業関係で稼いでいて活動しているんです、その人たちが皆殺しに遇うんです。(ロシア革命の中の赤軍や白軍やコサックなどの複雑な関係の中での戦争の)の事件です。これは、いうなればロシアの恥部ですよ、知られたくない、だからロシアでは教えていないなぁ、というのを私は感じました。

「尼港事件を知りません」というのですから、「日露戦争には負けました、しかしロシアは第二次世界大戦では勝ちました」という人たちが、そう答えるのです。

レーニンは革命の中心人物、トロツキーという人がロシア革命の当初では目覚ましい活躍をしています、赤軍を作ったのもトロツキーです、レーニンは革命が成功した後、脳梗塞で倒れるんですよね、あとをスターリンが引き継ぎ粛清が続くわけです、その粛清の一環としてトロツキーはメキシコで暗殺されます、これについてもまだいっぱい語りたいのですが。

1925(大正14)年 治安維持法

それから治安維持法が1925年に出来ます、悪法と言われています、今、似たようなのがチラチラ出てきつつありまますよね、それと、こんなこととを比べてみなければいかんのですよ。

その年に普通選挙法が公布されていますが、納税条件が廃止されました、税金をこれだけ納める人が選挙権があるよというものでしたが、これが廃止されましたが、男性だけに認められた選挙権ですから、ある意味では制限選挙です。男子25歳以上ですから。

それから満州事変が起こります、これはでっち上げもでっち上げです、関東軍の石原莞爾という人が中心になって起こしたでっち上げ事件です。これは線路はほとんど壊れていない、爆発音だけを非常に大きくした、そのしばらくあとにも急行が通っているそうですから、大きな爆発音を指して、こんなことを中国はするんだということを宣伝、それを口実に日本軍がどんどん中国大陸に攻め込んでいきます。こういう口実はちょいちょいあります、盧溝橋事件も似たところがあります。

北京郊外の盧溝橋で発砲事件がある、それで日本軍が本格的に泥沼の中国戦線に入っていく、私は柳条湖には行っていませんが盧溝橋には行って来ました、そこで実際に戦った人が来て話もしてくれましたけれどもね。

1933(昭和8)年 5・15事件   国際連盟脱退

1933年、このあたりが、日本軍国主義の頂点ですね、犬養首相が暗殺された、犬養首相は軍事予算が増えることを警戒していた人なんですよ、それで軍部からにらまれ、青年将校たちが軍部に忖度した感じで殺害する、それが五・一五事件。二・二六事件もあります。

これは死亡者は出ていません、天皇が奉勅命令を出したからですね、この二・二六事件は私が生まれた年ですから、私は軍国主義時代の真っただ中に生まれて、(小学三年生で終戦を迎え)そして戦後の平和憲法の教育を受けて今の私になったというわけですよね。

1933(昭和13)年 国家総動員法

そして1938年、国家総動員令、全ての国民、物資が統制、大変なことですよね、こういうもの以外に小さいことが出てくるときに気が付いて、つぶしておかないと、戦前の人に「どうして、そうなることに抵抗もしなかったのか」というと「気が付いた時にはどうにも身動きができなくなっていたのだよ」と言われる、そうでしょう、今もそんなことが起こっているかも知れない、注意していきたい、以上です。

感 想

『1次資料が非常に大切である』ということを強く言われました。なぜなら、証拠もないことを噂話や憶測で話し、その話がいつのまにか歴史の真実のように人の口から口へ、後世へと伝わる。そのことが、真実を歪曲したり、脚色したりしてしまうことになるからです。

常に、物事は両者から見なければならない。私たちが学んでいる歴史観は、為政者に都合よく作られて
いるものである、という理解のもとに学ぶことが必要だと感じました。

参加者の方々から、歴史に対する見方がかわった、という意見も多くあり、今日の参加をきっかけに一方的な見方から多面的な見方で考え、思考していく人が増えていくことを期待しました。

昨年は、明治維新から150年ということで、お祭りのように多くのイベントが開かれていました。

お祭り騒ぎが終わった今、明治維新とは、一体どんなことを今の私たちにもたらしたのか?ということを考えてみたいと思います。               文字おこし:田頭壽雄 筆責:山下春美

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