「シベリア抑留体験者の話を聞く 1回目」2016年4月18日(月)

2016年

シベリア抑留体験者であるU・Kさん。
毎回「集い」に参加され、最後に必ず自身の体験を体全体で、語ってくださっていました。
                                 (2021年9月逝去)
実体験者から聞く「シベリア抑留」は、私たちに強烈は印象を残してくれました。

2016年4月と6月の2回にわたり、話をしていただきました。

              (この記事は、参加者の「記録メモ」を参考に、作成しております。)

Uさん

大正13年 中種子で生まれる。旧制中学校に在学中は、校門に入ると奉安殿に最敬礼。
教室の前の上には天照大神のタイマ、最敬礼して授業。

昭和19(1944)年10月、召集がかかり、広島で入隊、下関、釜山(関東軍と分かり)、
満州、石頭へ。1月、一面雪)初年兵経験。翌年、関東軍が南方転進。自分は残留。

昭和20(1945)年、8月9日にソ連が日ソ不可侵条約を破り、満州に侵攻。「戦闘態勢にはいれ」
「国境に行け」「後方支援せよ」などと命令あり。国境で600人位玉砕。
毎日の訓練は戦車に飛び込む訓練、戦わずして終わった。
ロシアの重戦車(日本の戦車は軽自動車なみ)が来て、反抗することは、皆無。
終戦を聞き、武装解除。

8月22日、現地にいた日本兵はソ連の捕虜となる。
シベリア鉄道工事などで4年間、抑留。昭和24(1949)年、9月に舞鶴港に引き揚げてきた。

今の日本の状況は、かつてのその頃に似ていて心配だ。

シベリアでは、カラマツの伐採などをした。山の横穴を50ほど掘り、火薬を入れて爆発させることもあった。
落盤事故もあり、土を除く役を3交代、1時から8時、零下30度~40度、炭鉱では露天掘り、
ブルドーザーで上の土を除き、穴を開け爆破、貨車につないで走る、作業をした後、ロシア兵が査定に来て、ノルマが達成していないなら営倉に入れられ、寒くて走るのみ。
(営倉とは、旧軍隊で、罪を犯した軍人を拘禁する、兵営内の建物)

-30度位まで働かされた。凍傷は鼻が気付かずに怖い。日曜日はトイレ内の排便のピラミッドを壊し、
溶けると臭い。体力がないと勤まらない。

仕事の完成率のノルマの%は厳しく、一日の終わりに頃に検査がある。成績が悪いと営倉に入れられ、寒くて一晩中、走っていなければならない。死ぬのは栄養失調。病院は、あったが、薬はなく、寝ているだけ。

台所のむいたジャガイモの皮を食べたりしている人もいた。1日350gのフスマの入った黒パンと
コウリャンのスープだけ。黒パンは柔らかいのは美味しい。

亡くなったら放ってあるから、冬ならカチカチに凍って丸太みたい。手押し車に積んで墓場に運ぶ。
凍った土に火を焚いて溶かして、少し掘って置いてくる。夏になり、埋めなおした。

作業は、場所によって違う。栄養失調になると、先ず太り、そして痩せていく、腹だけ出て。
50万人の抑留で5万人位死んでいる。

ハバロフスクに日本新聞、40人教育。
レーニン、スターリンのことをやらされた。断れない。寒さなどについては機会があったら
また話します。

質問

・南方に転進した後、ソ連が攻めてきたことは、関東軍の動きを知っていたからか?
  ・よくわからない。ドンパチするにも兵器がなかった。

参加者同士の質疑応答

Q:戦後、先生たちは手のひらを返したようにしたのではないか?

A:授業では黒く塗った教科書を見た記憶がある。戦前と戦後で先生が教えることが変わったが、特に 違和感、疑問には思わなかった。5~6年生の時、戦前的な先生はいなかった。

A:知り合いの80代の男性が、小学校時代、軍国主義的な先生から、ひどい暴力を受けたそうです。戦後、その先生が手のひらを返したような戦後教育者になり、そんな先生とは一生会いたくない、と言っていました。

A:個人的に持っている思いは様々なようである。個人的に自責の念を持っている人もいる。今でも声を上げられない点は似ている。植木等さんの父親は僧侶で、戦争反対により牢獄に入った。そういう人もいる。

A:鹿児島の有名な歴史家の伯父さんが、中学校で習ったが、天皇陛下を、テンチャン、テンチャンと言っていて、受け入れられなかった。時代は自然に流れているから、歴史を見るべき。

参加者の声

・先ほど、Uさんが戦前に今が似ているようで心配だと言われました。司会者が、ものを言えないような状態という発言もありました。
急にそんな時代になるのではありません。少しづつジワリと進のです。日本史の先生が言うように、
気が付いたときはどうにもならないことになっている、そんなことにならないように小さな芽のうちに声を上げなければなりません。

・父が満鉄で、撫順で生まれた。行く前から帰るまでの記録が出てきた。父とは、意見が合わない。満州では匪賊が出て、日本人を襲った。訪中団で15回中国に行った。ほぼ中国全域を廻った。中国侵略、目を覆いたくなるような話を多く聞いた。すべてまとめている。民間交流で、去年は南京のいろいろな人と、戦争の捉え方、未来に向けてどうあるべきか、加害と被害の点で不一致。未来に向けて大学に先生がまとめてくれた。

中国も変わってきていて、戦争の侵略を知らない人もいて、どういう交流をすべきか、傷跡を強く感じた。

・戦争体験者の話を聞いたことがある。人の肉も食べたと言っていた。略奪で食べたことも。ミャンマーに行った時、父がここで死んだ、という人が参加していた。涙を流していたが、こんなところまで来て、と驚いていた。

伯父の引き揚げの時、女は坊主頭で、胸にはサラシを巻いて帰ってきた。死んだ人は海に投げ込んだ、とも話をしていた。

・伯父はレイテ島で戦死。戦跡めぐりの後、ショックで不思議な気がした。自分が、今、のうのうと生きていることが・・・

・母が満州からの引き揚げ。聞いた話は生活が一変して大変だったこと。

・昭和10年生まれ。小、中学校時代空襲が多かったし、学校へ行ってもすぐに帰ったり。戦後の教育で戦争反対を吹き込まれた。

まとめ

Uさんには、次回6月11日(土)も話をしていただきました。下記、記事も続けてお読みください。

『シベリア抑留体験者の話を聞く 2回目』

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