「通州事件」 第2回

2024年

広中一成著「通州事件」志学社においては   瀬下 三留

上記、著書においては、まえがきでは以下のように記されている。

憎しみの連鎖を断ち切るには、実証的に知ることが必要だ

盧溝橋事件による日中戦争開始から約三週間後の1939年7月29日、北京にほど近い通州で、日本の傀儡政権である「冀東政権」麾下きかの中国人部隊・保安隊が突如反乱を起こした。(中略)
 現在の日本国内における通州事件に対する認識と議論は、残念ながら日本居留民の殺害のみに着目し、中国人兵士の残酷さを強調し、ひいては中国そのものへの憎悪を煽るプロパガンダ、あるいはヘイトスピーチの水準にとどまるものがほとんどである。

 広中氏の通州事件研究目的は、ともすれば、
『事件で日本居留民が猟奇的に殺害されたことだけに注目し、刃を向けた中国人兵士や、さらには中国人そのものに恨みや憎悪の念を向けがちだったこれまでの感情的な議論に警鐘を鳴らし、事件発生の原因や、その背景にあった日中関係の分析など、冷静な学術的検証を試みるべきであると訴えるためであった。』
と述べている。

 また保守派の
『「新しい歴史教科書をつくる会」は、集会を開いて「寸鉄を帯びぬ無辜の同胞が無慈悲に惨殺された慟哭の7・29を忘れるな!!」をスローガンにしていた。

『南京大虐殺」が世界記憶遺産に正式登録された事への対抗措置として、通州事件のユネスコ世界記憶遺産登録を目指している。
保守派の目的が通州事件で日本居留民がいかに残虐に殺されたのかを示す事にあり、彼らの編集史料には学術的価値は認めるが、使用にあたっては注意を要する。』
と警告している。

 通州事件の現場写真といわれる残虐な場面が残されているが、広中氏の解説によると、
『8枚のうち「北支慰問」の2枚以外、通州事件の写真であると断定できるものがない。』
としている。

 現場に遭遇した生存者の証言として、二人の姉妹に聞き取りをしている。
それによると、

『当時幼かった姉妹で両親を亡くした妹は、読売新聞で「悲劇の孤児」として登場した。
満洲国人「何鳳岐」に救われた美談として取り上げられていた。
さらに、「中国人に対して憎しみなんてない。要するに戦争は駄目、憎しみを煽り立てる愚かな事をもう二度としては駄目です。そうした行いが、もはや戦争の一部に違いないのですから」と、中国人批判のプロパガンダを批判した。』

 広中氏は、ほかにも数名インタビューを行っている。

『通州特務機関員だった甲斐少佐は、事件発生時に軍刀を手にして敵軍を薙ぎ倒したが、力尽き軍刀を構えたまま打ち倒れた。というように当時の新聞に取り上げられている。

 その甲斐少佐の孫娘にあたる嶽村久美子の証言では、甲斐の娘である嶽村の実母は甲斐の死のことを、「天皇陛下のために亡くなったとしても、自分なりに解決して生きてきたのだろう。
 死後、特進で中佐になったことに影響されたのかもしれない」と感じた、と述べており「祖父は『肥後の甲斐ここにあり』と勇敢に叫びながら亡くなったというが、妻や子どものことを思って亡くなったのではないでしょうか。天皇の名の下に命を奪われ、今度は中国たたきに利用される事は、祖父の死を踏みにじるものだと思います。」と非難した。』 

保守派に利用された通州事件被害者もいる。

『浜口茂子の手記「通州事件遭難記」によると、通州事件が起きる三日前頃から、通州城外で不穏なうわさが流れ始めていた。
 事件が発生すると、茂子は右背部盲管銃創と右肺負傷を負ったものの、命は助かり、妊娠中だった胎児も無傷で済んだ。
 その時に茂子の胎児だった加納満智子は、保守派主催の国民集会に登壇する機会を与えられる。
その集会終了後に広中氏が加納に国民集会の様子をインタビューしている。
彼女は「遺体の状況などの事件の残虐性を強調する雰囲気に違和感を覚えた。」と不満を露わにした。そして、通州事件についての率直な思いを次のように語った。

「満洲に渡った当事者たちは純粋な気持ちだったと思うが、結果的には中国を侵略したことになる。純粋な気持ちが純粋なまま受け取られたか、というと違ったかもしれない。私は事実としてだけ知ってもらいたい。それ以上でも、それ以外でもないんです。」

加納は、通州事件に関心を持つ多くの人々の前で、ただ率直な思いを伝えたかった。だが集会の目的は彼女のそれを裏切るものだった。』
と広中氏は捉えている。

※1 上記本の記述に、2ヶ所誤植があるようでした。
  事件は、1937年なのに1939年と裏表紙に記載されています。
  また、調雅の事を調とも誤植があります。      書き添えておきます。

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