第8章
次のセレベ煉瓦工場へ
私たちの班は、このような果てしないボンボトの木材伐採労働を1年半ほど従事させられた後に、昭和22年6月21日には作業場が煉瓦工場に移動になった。
移動はトラックの荷台に立ったままで、みんな落っこちないようロープにつかまり、座るような余裕はなかった。
立った人がうずくまったと思ったら、そのまま亡くなっていた。
トラックの移動中に亡くなった人は何人かいたけれど、遺体は途中に置いてきた。
その遺体には土もかけられなかった。
着くまでに何人、亡くなったかわからない。
そうやって着いた先はボンボトよりウランバートル市に近く、東北方に3キロのところにあるセレベ煉瓦工場だった。
またここから命を削るような労働が始まるのかと、絶望的な思いが込み上げてきた。
セレベ煉瓦工場での労働
外蒙古の首都であるウランバートルもその頃には、我々と同じ日本人抑留者の労働で新しいビルヂングが建ち、道路や広場は美しく整備され、中央の銅像は今にも馬が動き出しそうに見事だった。
寝ても覚めても食糧のことしか考えられない頭が、昼になって飯盒にスープが配給された時、やはり期待は裏切られた。
そのスープは葉っぱが二、三枚浮かんだだけの塩の汁だった。
今度の収容所はシャフィーン トインボルド バートルトという名前らしい。
これからここを寝ぐらにして、煉瓦工場へ行くようだ。
翌日5時には作業出発の鐘が鳴り、いつもの硬い黒パンをさいの目に切り、粥に浸して食べ、整列したあとは作業出発の行進するのみだった。
煉瓦作りの作業は、作って日干しして、それをかまどで焼き上げて製品にするが、作るためにまず用土を掘り出す断崖の下を掘り下げ、石のない粘土を採取し、ふるいにかけ、それを平地まで運び上げ、水を入れよく練りあわせたものを、団子にして型の木箱に投げ入れて、砂をまいた平らな所に持って行ってひっくり返し、その箱を取り上げ、うまくできればいいが、なかなか上手く出来ない。
食糧も、栄養も、足りてない身での煉瓦作りは大変な重労働だった。
用土を掘り出し、ふるいにかけて運搬するだけで午後までかかる。
次は、その用土を小山のように積んで真ん中に穴をあけて、水を入れ足で踏んで練り合わせる、よく練り合わせないと、よい団子が出来ない。
練るのに足で踏んでみそ玉を作るような要領で用土を練る。
それでも用土の小さい山に一時間ほどかかる。
次は、それを大きい団子に一つ作っては、型箱に入れるのだが、力強く入れないと箱の隅によく入らない。
箱は二個入るようになっていて、さらにそれをひっくり返して炬形(きょけい)の煉瓦のナマができる。
しかし、そうそう、うまくいかない。
それを並べて二列にする。
一日のノルマは一人、二十個のはずだったが、すぐに三十個に増やされた。
ノルマを達成しないと終わるまで宿舎に帰れないので、終わった組はできてない組の応援をして達成していた。
終わらないと蒙古兵の歩哨(ほしょう)が、自分が早く帰りたいのでやたらと、銃剣をちらつかせ、ダワイ、ダワイ(早く、早く)と怒鳴りつけてきていた。
一日一日と日を重ねるにつれ、毎日の長時間労働は次第に身体を侵し、体力の弱い者は次々と倒れていく。
戦争が終わってやっと爆撃や銃弾の恐怖が過ぎ去ったと思ったら、今度は日本から地の果てというような異国で囚われてもう2年になろうとする。
いったいいつまでここにいてこんな過酷な労働が続くのだろうか?
早く日本に帰りたい。生きて日本に帰りたい。
みんな同じことを思っていた。
朝の点呼でまた一人倒れた。
私も気力はあっても身体の自由がきかない。
体力の消耗を減らす以外に生き残るすべはない。
忍耐あるのみだった。
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