第八章
いよいよ囚われの身へ
10月9日になって、「本日をもって公主嶺を出発する。」とソ連の通訳より告げられて、行き先もわからないまま満鉄輸送貨車にまるで家畜輸送同様に、詰め込まれソ連武装兵の監視の中、黙って乗り込むしかなかった。
貨車の中央入口部分のみが通路で、八十数名が五列で足をのばし、身体をくっつけ、窮屈な姿勢で乗っており、小便はともかく、大便は途中で止まって行うこともまれではなかった。
次第に脱走する者があらわれ始めて、用便にも降ろさなくなった。
そこで隅の板を切り抜き、用便に利用するようになった。
その後、ソ連側から「ウラジオストク経由で日本に帰す。」といわれ、貨車に乗り込まされた。
移動の準備をしていたところ、残っていた大尉、中尉が大隊長に推されて就いた。
こそこそと小声で「これで内地に帰れるんだろうか?」と囁く者もいれば、「南に向かえば内地に帰れるだろう。」と期待している者もいたが、実際はそうではなかった。
誰かが「北上してるぞ!」と貨車の隙間から外を覗いていてわかったようで声を出した。
このことは我々に大きな落胆をもたらした。
帰れるかも、とのかすかな希望が、帰れないかも、という、落胆と不安が一斉に広がった。
その後の線路は関東軍がソ連軍の使用を阻止するため満州鉄道を爆破しており、徒歩での移動にならざる得なかったこともあり、線路のあるところでは乗車し、線路の途切れてるところでは降りて、行軍の繰り返しだった。
そんな中を行軍中のある日、午後3時ごろ雨模様だったのだが、激しい土砂降りになりその中を行軍、夜半に大休止となったが、暗くて何も見えない。
炊事をするにも燃料に事欠いており、未だ青い高リャンを切り、通信紙や保革油(革製品の手入れ用油剤)、石鹸等を燃やして炊事をして食事を済ませ、水溜りに高リャンガラを敷いて抱き合って寝たりした。
次に貨車に乗るまで約100キロの道程を、内地に帰すと騙されながら、これを信じて皆が歩いて行った。
やっと貨車に乗れてもギュウギュウ詰めの車内では、体調を崩す者が出始めた。
栄養失調と水がないため沿線の泥水を飲んでかかった酷い下痢が多くなった。
移送中の死亡者の遺体はみんなで別れをした。
佐賀県出身の鳥越くんの遺体は毛布に包み、走行中の貨車から投下した。
ほかにも熊谷、松枝君たちは行軍、野営の中死亡したので、河原の灌木の下の凍土をわずかに掘って埋葬した。
ここまでの行程で死亡や入院で多くの兵が隊から外れた。
帰国だ、帰国だと騙され続けて、こんな未開の地で、その上極寒、荒野、人の住める地ではない此処に我々は居続けるのだろうか?と不安と祖国への望郷に悩まされた。
12月に入り、黒河を越えたのだが、それまでは続々到着する日本兵団は中隊ごとに幕舎を張り、渡河の順番を待つことになったが、持参の食糧も底をつき、残余の満州紙幣を集めて満州人より野菜を求めたりして腹を満たしたりした。
渡河で乗船した船は木造の大型船で、船の中央両輪に水車がついていて、エンジンの始動と同時に後尾のスクリューとともに水車が推進力になる仕掛けで、かつて見たことのない船だった。
その船で黒河を渡河してソ連のブラゴベシチェンスクに到着してから隊は分かれて、我々の乗った貨物汽車の向かう方向は、どうやら東ではなく西へ向かっているようだった。
駅から駅へ汽車で進むうちはいいが、汽車から降ろされて行軍させられて体力のほとんどを費やして鈴木大尉ほか、金子も死亡した。
さらにほかの隊がブラゴベシチェンスクからどこへ行ったかはわからなかったのも不安の材料だった。
すべてソ連兵の監視の中で整列から行軍にいたるまで、まるで囚人のような扱いだったので、休憩になるまで私語も話せず一切の情報も届いてこなかった。
貨車に乗り込むと、永遠に続いてるのではないかと思うほどのまっすぐな鉄路の先に、海が見えてきたようだった。
誰かが「海が見えてきたぞ!」と叫ぶと期待を込めて、「ナホトカじゃないか?」という者もいたが、地理に詳しい藤原という男が「あれは海じゃないはず、方角的に見て西に進んでいるから、海は見えてこない。」「それじゃ、あれはなんだ?」とほとんどが思ったはず。
私もナホトカであれば、その先は日本海であり、日本に帰れる港があるだろうと思った。
藤原は「おそらくバイカル湖じゃないだろうか?」と言った。
私もそれをちらっと貨車の隙間から見たが、水平線まで続く海そのものだった。
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