私の戦争の記録 ~昭和20年6月17日の空襲体験から~ 2017年6月17日(土)

2017年

昭和20年、下荒田に住んでおられたS・Mさん(当時5歳)の空襲体験を聞かせていただきました。

以下は、S・Ⅿさんが、ご自分の体験を文章にされたもので、当日のお話もこの内容からでした。

B29の襲来と疎開

あかりをつけましょ、雪洞に お花をあげましょ桃の花・・・
昭和19年の春までは、桃の節句も5月の節句も床の間の上までの大きなひな飾りで楽しく祝ってもらっていました。

昭和20年になると鹿児島にもB29が襲来する様になり、私と兄も祖父母の疎開先に身を寄せる事になり、兄が一年生、私が5歳の春でした。母は長男の嫁として醬油屋の家業を継ぎながら、隠居や留守宅を守るために鹿児島市内(下荒田)に残りました。
我が家には長年飼っていたポインター(犬)の“ぴす”も疎開先に預けました。

しかし、私たちが伊集院に着いた時には、“ぴす”の姿はありませんでした。ぴすの名前は、Peace(平和)と言うのが本当の名前でしたが、可哀想なことをしました。食糧難や危険防止の為に、鴨池動物園でも多くの動物も犠牲になったそうです。

疎開先での暮らし

私たちも祖父母のお伴をして、山に焚火の枝を拾いに出かけたり、寒い朝にも麦踏の手伝いをしました。
山菜取りに行っては、兄は耳がハゼ負けになり、薬もなく痛々しいでした。兄と私が畑からの帰り道に戦闘機が突然現れ、低空飛行で機銃掃射を受けました。
私たちは、道端の脇に目と耳をふさいで伏せました。
弾は、麦畑をバサバサとなぎ倒して前の方には牛を引いたおじさんと驚いた牛がいななきながら暴れて走って行きました。
幸いにもその時は誰も負傷はしませんでしたが、後からとても怖い思いをしました。
日ごとに食糧も日用品にも事欠く様になり、疎開していても恐ろしい思いをするので、一度母のもとへ帰ることになり、久々に晴れた6月17日に我が家に帰りました。

我が家・・・そして、夜の空襲

前日まで、雨ばかりで我が家の防空壕は水浸しだったので、豪の中の物を母がすっかり出して洗って縁側に干してありました。

久しぶりの母との夕食を済ませ、寝ついて間もなく、ドドーンと物凄い爆音で目が覚めました。神棚のお札も落ちてきて工場の屋根にもバサバサと鋭い弾の音が聞こえました。
突然の事で母が布団を頭にかけて隠居の防空壕に逃げるように言いました。
私は兄に付いて母の言うように逃げました。
我が家は、工場の煙突も高く、工場の屋根も大きかったので狙われやすかったのでしょう。

母は、工場の方へ行って肥料カマスを水につけて消火に励みましたが、焼夷弾の威力は早くすぐに火の海をなりました。
二中通りで隣組の方達と体操や防火訓練など懸命に訓練していた母達、欲しがりません、勝つまでは・・・・贅沢は敵だ・・・・一億火の玉・・・母達の血のにじむような懸命な努力と献身的な行いは、一夜にして轟音と共に空しく消え去ったのです。

防空壕の中で

祖父宅の防空壕の中は昨日までの雨水が、私の膝まで溜まっていましたが、雨水のおかげで窒息せずに済んだかも知れません。
足も冷えて、私はおしっこがしたくなり、母に言うと、「防空壕の中でしなさい」と言われて、水たまりではとてもできなくて我慢しました。外はまだもうもうと火が高く、爆撃も激しく防空壕の上にも激しく爆風が渦巻いて、壕の中は蒸し暑く、溜まった水で顔を冷やしました。
少し、爆音も遠のいて来て外へ出ました。我が家もまわりは焼け落ち、柱が黒々とくすんで元の姿は何もありませんでした。
西駅(中央駅)の方はまだ焼夷弾を落としていて探照灯が空しく照らして真っ赤に空まで火の粉が舞い上がり、B29の攻撃は凄まじい有様でした。

救出 瓦礫の中を・・・

やがて夜もしらじらと明けてきた頃、外で声が聞こえる・・・・
隣組の方の知らせで警防団の方がバケツの水を頭からかぶり、防空壕へ迎えに来てくださいました。まだ、私の背丈より高く火の手はあり、おんぶしてもらって道路へ出ました。

兄と私が帰って来ていなければ母は、我が家を守って犠牲になっていたかもしれません。私たちも母がいなければ、今の私もいないでしょう。母と兄と私はむなしい思いで焼け跡を後に母の実家の上町を目指して歩きました。
焼け残った家も少しはありましたが、武之橋を越えようとした時、橋の上に手押し車の小さな消火器が空しく放置されていました。

途中、伯父の家へ寄ってみましたが、あたりは全て瓦礫の山で廃屋の後はまだくすぶり高見馬場の近くで、土蔵がいきなり爆発したり、異臭の中で爆音を立てて燃え上がりました。
危ないので電車通りを3人で、とぼとぼと歩いて市役所に着きました。
昨夜の騒音に比べれば非常に静かな道のりでした。市役所で被災届けを出してカンパンの小さな袋を一つ貰いました。

防空壕での暮らし

途中、山形屋と市役所だけが無事にあり、桜島が近くに見えました。
ようやく母の実家に着きましたが、実家も焼けていて愕然としました。
稲荷川の橋の上で馬が死んでいました。母は出来るだけ悲惨な被害の現場を私たちの目に入らない様に歩いて行きました。

やっとの思いで祖母とめぐり合い、滝の神の防空壕に入れてもらい、しばらく過ごしました。
夜になると市内の焼け跡や鹿児島駅の列車の残骸が赤く燃えているのが何日も見えました。
母は、姉妹三所帯の家族10人の為に、近くの一軒家を借り、姉妹家族の生活の面倒をみました。

安心したのもつかの間、貴金属や金化の物は供出するようにと通達があり、先祖からの形見の
守り刀も涙をのんで出しました。

また、疎開・・・

あげくに、女、子供は米軍本土上陸のため、危険なのでもっと安全なところへ逃げるようにと知らせに、またまた山奥へ逃げることになりました。
家も焼かれ、着の身着のままで、又、山越えして吉田に逃げました。頼りの人もなくようやく、
離れの一軒家を借りて住みましたが、何が酷いかと言えば、家中にノミがはびこり、朝になると
毛布が血で赤くなるほど、ノミや蚊に悩まされました。
薬も食べ物も物資も無く、母は良く皆の面倒をみてくれたと感謝しています。

終戦・・・・母の死

やがて、終戦になり、下荒田の自宅の側に一軒家を借り、三所帯の生活の面倒をみながら、
母と兄と私は我が家の焼け跡(500坪)を毎日しました。
あんなに人も良く、自分の事を後にして、食事も何でも他人を大事にしていた母はついに体を
壊しました。
あと半年すればペニシリンが手にはいったのに、なかなか我々のてもとに届かず非常に
悲しくて悔しくて残念でなりません。
戦争がなければ私たちの人生は幸せにみち溢れていましたのに・・・・

悔やんでも悔やみきれません。

戦争は愚かなことです。

戦争は愚かなことです。罪のない人々にまで多くの犠牲と貴重な人生を奪ってしまったのです。
純粋は青年や多くの民間人、国策に翻弄された軍隊も資源の無くなった時期に、戦争の悲惨さに
気付き、傲慢な国策に楔を打てる勇気のある人の意見も聞かずに、指導者の傲慢さが、かけがえの
ない尊い多くの犠牲者を出し、取り返しのつかない混迷の時を余儀なくしました。

しかし、残された人々の汗と涙の懸命の努力と働きで、今の豊かな社会が築かれている事に思いをはせ、尊い命の犠牲者に感謝の念を忘れてはなりません。
出来ることなら、戦争の犠牲者の方々に今の平和で豊かな社会にご招待したい気持ちです。
もう、戦争はしませんと・・・・・

戦前戦後の荒廃から、大いなる犠牲をはらい、歯を食いしばり、がんばった先人の並々ならぬ努力のおかげで今の豊かな日本があるのです。

豊かになった最近の日本は、自由をはき違え、人間としての道徳や礼儀、たしなみなど日本の伝統的心のゆとりが足りない気がします。

勉強も大切ですが、人間として躾が、戦争を知らない世代に欠けている様に感じます。これは、核社会
の産物では済まされない家庭の躾が重要で、親を大切にし、兄妹仲良くする。友達と仲良く協力し、楽しく生きる術を幼い頃から母親が中心となり、身につけ、感謝の心を持つことが平和な社会、戦争の無い世界につながると思います。

いつの世も母親の愛が、賢く優しく平和を築く礎を育むのです。
世界のいろんな所で不幸な争いがおきていますが、貧困で乏しい己だけの傲慢な心の貧しさが他の人民に被害を与え、恐怖と混乱を招き、決して許せません、どんな時も戦争に正義はありません。

時を経て・・・2022年

この文章を読み直しながら感じたことは、当時、5歳だったSさんの空襲の記憶は、とても恐ろしいものだったに違いない、ということです。子供たちにそんな恐ろしい思いをさせてまで、日本は何を守ろうとしていたのでしょうか?

国を守ろうとするのであれば、この国を担っていくべき未来の大人、今の子供たちに恐怖や空腹を感じさせることのない国を作るために、大人は全てを注ぐべきだと考えています。

文責:山下 春美




 

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