上町の歴史は、南北朝時代から江戸時代幕末までの薩摩藩島津氏を中心として語られることの多い地域です。
しかし、介護の仕事で知り合ったお年寄りさんが語って下さった話は、70年前に自分の身に起こった避けることの出来ない戦争という体験でした。
東郷京子さんが、大学ノートに記した「私と戦争」という自分史から昭和20年6月17日に見舞われた大空襲の体験を、語っていただきました。
プロフィール
東郷京子さん
当時の住まいは、現在の鹿児島駅前小川町郵便局前 行屋通りと呼ばれていた通り沿い
鹿児島市大龍尋常小学校 卒業
昭和18年 3月 鹿児島市立女子興業学校 卒業
昭和18年10月 鹿児島女子師範学校附属幼稚園保育見習科 入学
昭和19年 3月 同上 卒業
昭和19年 4月に付属幼稚園の保母になるが、戦争の影響で数か月で幼稚園が閉鎖される。
その後、鹿児島駅前にあった日通に勤め、昭和20年鹿児島大空襲に被害に遭う。
炎の中で~昭和20年6月17日 鹿児島大空襲~
灯火管制の暗い電灯の下で夕飯を済ませた私たち(母、妹、弟)は、いつもより早めに床についたが、心の緊張もあり、なかなか寝付けなかった。
(灯火管制とは、電灯に黒い布をかけ、戸外に灯りが洩れないようにし、空襲警報が発令されると消灯すること)
夜半、11時を少し過ぎた頃だった。
無気味なサイレンが警戒警報を告げ、続いてサイレンは空襲警報に変わった。
今まで、警戒警報と空襲警報が同時に発令されたことはなかった。
不安におののきながら、私たちは何かにはじき出されたようにフトンから一気に飛び出した。
そして、恐怖心にかられながら胸騒ぎを覚える。
鴨池のほうから、こちらへ飛んでいく飛行機の爆音が夜空にひびき渡った。
空襲警報が発令されると鴨池航空隊では飛行機を待機させるとひとづてに聞いたことがあったので、多分それでは無いだろうか、と思った。
敵機の来襲に備え、それに応戦する飛行機は残してあるのだろうか。
空襲警報が発令されるとみんな防空壕へ入るように指示されていたが、頼みの我が家の豪は、昼間、水を汲みだしたにもかかわらず、又、水がたまっていて中へ入ることは無理。
私たち一家4人は帳場に腰かけ、解除になるまで待つことにした。
深海灯の光が数本、夜空で交錯しているのを窓越しに見たが、それも消え、高射砲が2~3発夜空を揺るがした。
ピューン、ピューン、ガラ、ガラ、ガラ、
グラマンの機銃掃射の弾丸が容赦なく屋根に突き当たり、屋根瓦が割れて、屋根から突き抜けてくるのではないだろうかと恐怖に怯える。
とある所では、屋根を突き抜けて畳まで弾丸が通ったことを聞いたから。ラジオ放送もとっくに消え、グラマンの爆音も遠のいた。
「竹之内さぁ~~ん、今のうちに逃げましょうや~~~」
小島タカさんというオバさんが大きな声で逃げるように誘ってくれた。
「まだ、危ないですよょ」
母は家の中から声をかけたが、タカさんは小走りで私の家の前を鹿児島駅前の広場へとかけて行った。
ザッーと汽車が走り込んでくるような音がした。
タカさんが駅前広場へ着いたか、どうかの時間だった。
(このザッーという音は、B29が油を撒いた音だったと後日聞いた)
私たちのまわりは急に昼間より明るくなった。
バリ バリ バリ バリ
家の中のあちこちで異様な音がした、かと思うと、白色灯の色をした炎が、シュー、シューと音をたて、音と共に一気に燃え上がった。
束になって落とされたという焼夷弾は数本に分かれ、それが火柱となって、シャーシャーと奇妙な音を出し、家の中の数か所で燃え上がり、おまけに風が起き、一段と火は燃え盛り、消火するにも手のつけようがない。
燃えさかる炎の間を通り抜け、表の方を見に母は行きましたが、表の方も火の手が回っていたと言って、引き返してきた。そして、私たち子供3人を連れて奥の居間の方へ行った。
頭から、綿入れ袢纏、薄いフトンなどをすっぽり被り、恐怖におののく側ら、母子4人はしっかりと抱き合った。
その時、”これでこの世ともサヨナラ、だと思った。
「このままでは、本当に焼け死んでしまう、逃げられるだけ逃げよう」
逃げる時、不覚にも私は大事な貴重品が入ったバッグを落とし、慌てて拾おうとしたが熱くて火の中では拾うことは出来なかった。
「バックが、 大事なバッグを落とした!」
私は夢中で――――――バッグを落としてしまったことを泣き叫んだ。
「早く逃げよう、命あってのことだから」
(その後もバッグの件に関しては、母は一言もいうこともなく)
“宝より命が大事”ということを、母は無言の中で私に教えてくれたのだろう。
「竹之内さぁ~~ん、どこへ逃げたらよいのでしょうか?」
私の家の裏口の方で永山のオバさん一家は半泣きの状態で、竪馬場の方の石垣を超えようとしていた。
「竪馬場も火の海ですョ」
母は火の中を走りだした。
「早く、早く走らないと衣服に火がつくョッ」
みんなが家の露地を走り抜けた時、後ろの方で、バシャッ、メリメリと音を立てて、家が崩れ落ちた。
無我夢中で私たち母子は手を取り合い、名前を呼びながら風下の方へ走った。
一緒に難を逃れた筈の永山のオバさん一家とははぐれてしまった。
電車通りの路は、アスファルトが燃え、火の海。星一つない夜の空は異様な光を放ち、投下された照明弾の光と深紅に燃え盛る街の火の色とが、まるで地獄の絵を見るようだった。
逃げまどう人の影に加えて、照明弾は昼間より明るく照らし、尾を引いて落ちていた。
城ケ谷へ 城ケ谷の防空壕へ (じょうがたにへ)
どよめきひしめく群衆の中でしきりと“城ケ谷”へと大きな声で叫んでいる男の人の声。
私たちも城ケ谷へと思ったが、人波にもまれ、右往左往しながら手を取り合い、お互いに名前を呼び合い、無事を確認しながら、祇園之洲へ逃げた。
親を探し泣きわめく子、子供の名前を呼びながら半狂乱になって探しまわる母親。
火の手を逃れてこの情景は、まさに地獄、そのものだった。
B29の波状攻撃に家を焼かれ、火の中を逃げ回った私たちの悲惨さもさることながら、逃げまどう群衆めがけてグラマンが情け容赦なく撃ちかけてきた。
街中を焼き尽くしただけではこと足りなかったのか、グラマンまで現れて機銃掃射。
”これが戦争というものだろうか!”
グラマンが飛び立った後、今度はロッキードのお目見え。キーンという金属音をたて、ロッキードが飛んできた。
パン パン と2発。機銃掃射を発射して、すぐに飛び去って行った。被害の状況を偵察に来たのだろうか。
戦争の悲惨さを目の前に体験した私は、この世の地獄を感じたが、それでも日本の勝利を信じた。
稲荷川は上流から流れてきた〝火の玉”で川の水が火の川となり、橋の下や川に飛び込んだ人が焼死体となって、数多く浮いていた、と聞きました。私たちも逃げる途中、〝川の中へ“という人の声を聞きましたが、川へ飛び込まないで良かった。機銃掃射を避けるため川の中へ飛び込んでいたら・・・・・・。
私たちは磯の両棒餅屋で夜の明けるのを待たせてもらった。
長い長い夜だった。
悪夢のような長い夜も東の空がしらみ、海面が金色に輝き始める頃、私は睡魔に襲われた。
体がとろけていくようで考えることすら億劫になる程、疲れ切っいた。
母も弟、妹もぐったりして眠っていきました。全てを忘れたように・・・・・。
6月18日 罹災証明を貰う
「被災者の人に通告します。」
吉野地区の警防団の人の声で目を覚ましました。被災者の人は、自分の校区の小学校へ行くように指示だった。私たちの他に数人の家族連れの罹災者が居たが、両棒餅屋の人に励まされ、お礼を言って別れた。
大龍小学校へ行く
数年ぶりに訪れた学校。校舎も校庭も榎の大木も昔のままだったが、思い出にふけることもなく、また、なつかしいと思う気持ちは起こらなかった。
雨期には珍しく、6月18日の朝は好天に恵まれ、陽の光がギラギラ目にしみて眩しかった。
“おにぎり“と戦災証明書を貰う
「この証明書を見せると疎開先までの交通費を不要。また、いろいろな配給物も、この証明書でもらえるので大切に保管するように。」
入れ違いに校門の所で、ウドン屋のオバさん一家と出会った。オバさんは、モンペは着用せず、浴衣の寝間着のままだった。
「蒸し暑い夜で寝苦しかったので、モンペは着ずに浴衣の寝間着のまま床についたの。まさか、こんなことになるとはネ。」
人に会う度、「恥ずかしい」と言っていた。
姿はどうであれ、お互いに無事に生き延びたということが、何より嬉しかった。
どちらも急ぐ身、オバさんと母は二言三言話して、私たちは別れた。
”再開を約束することなく“
“焦土に立って”
私たちは焼失して何も無い我が家の焼け跡を見た。
家と家との境界も瓦礫で埋もれ、赤レンガで囲った風呂場と赤レンガで作ったカマドに、鉄製の鍋がチョコンと座っていた。
アルミ製の鍋、釜は、小さな塊と化し、ガラス製の食器・コップ等は、飴のように固まり、陶器類は粉々に砕け、瓦礫の下から顔を覗かせていた。まだ燻っていて、熱くて手は付けられなかった。“焼夷弾の威力の強さに驚くばかり”
行屋通りの踏切(鉄道)のあったと思われる所に黒い影が見えた。動かなければ人とは思えないくらい小さく、近づくと人の気配を感じたらしく顔を上げた。
今まで泣いていたらしく、目が真っ赤にして泣き腫れていた。
「大野さん」
声をかけられた大野のオバさんは、力なく立ち上がり、昨夜のことを泣きながら話した。
「中風で体の不自由なオジさんは火の手が回った時、何度も何度も怒るように言いました。『早く逃げろ、逃げてくれ。俺にかまうな。早く逃げろ』どうして私は逃げたのでしょう。
私も一緒に死ねばよかったのに。」
オバさんは、さめざめと泣いた。
子供の無く、一人ぼっちになったオバさん。
母も私も可哀想で、貰い泣きをした。
その後、オバさんはどこに行ったのか・・・消息は誰も知らない。
一夜のうちに瓦礫を化した市街地は、全てを失い、山形屋、県庁、図書館などのビルが黒く煤けて、残骸の如く焼け残り、遠いと思っていた照国神社の鳥居が間近に見えた。
朝、夕、親しく遊んだ幼友達、町内の人たち、どこへ行ってしまったのだろう。通学に買い物にと歩いた道も、赤のポストも、遊んだ広場も、みんな瓦礫の下に埋もれてしまって、影も形も無くなっていた。
山形屋の地下室では、非難した人たちが死体となって発見されたとのこと。
焼死だけでなく、煙にまかれて窒息が多かったと聞く。火の手から逃れるため、地下室へ避難した人達だったとか。
疎開
心身ともに疲れ果てた私たちは、桜島にある母の実家に身を寄せた。
“桜島が危ない”との懸念もあったが、とにかく心を寄せる所が欲しかった。
同じ6月17日の夜、罹災した中島一家と徳三叔父の一家も母の実家へやって来た。実家は、一辺に多人数となり、翌日から賑やかな日々が続いた。
いつまでも、この状態では実家の嫁たちにも迷惑と思い、母は、三熊叔父の牛小屋でもと相談した。数日して、私たちは牛小屋の二階に移り、牛と同居の生活が始まった。
そして私は、ここから会社に船で通勤したが、度重なるB29のお目見えで、間もなく船も欠航となった。
病後の私には、体を休めることが幸いで、欠航ということが心中嬉しかったが、母は生活費のやりくりに懸命だったようだ。
昭和20年6月17日鹿児島大空襲について 鹿児島市戦災復興誌より
昭和20(1945)年6月17日。この日は鹿児島市民にとって、呪われた日となった。鹿児島市に対する前後8回の空襲のうち、最大にして、最も悲惨であったのは、この6・17空襲である。鹿児島では6月13日頃から雨が降り続いていた。いわゆる梅雨の最中。その17日午後11時5分、突然深夜をついて爆音が響き始め、ついで、大きな雨音のようなザーッという音が鹿児島市を覆った。焼夷弾が無数に投下される時の音である。この時、鹿児島を襲った米軍機は百数十機の大編隊で、しかも今までの爆弾攻撃を変更して、深夜に全市を焼き払う焼夷弾作戦の第一弾だった。空襲警報は発令されていなかった。
米陸軍航空隊公刊戦史第5巻「太平洋作戦─マッターホーンより長崎まで」によると、地方都市の焼夷攻撃について次のように述べている。「大都市に対する焼夷弾攻撃は6月15日終了。翌16日にルメイ少将は、17日夜大牟田、浜松、四日市、鹿児島を攻撃することを4司令官に命令した。離陸した総機数は477機、攻撃したのは456機。7,000~9,000フィートの高度からレーダー爆撃したが、日本軍の抵抗はほとんど無かった。投下した爆弾は3,058トンという大量なものであった。」
米軍機は一時間以上にわたり、波状的に焼夷弾の投下を繰り返した。鹿児島市に投下された、この夜の焼夷弾は13万個(推定)(「鹿児島市史」)とみられ、わずかの時間で鹿児島市内は火の海と化した。市民は阿鼻叫喚、右往左往して逃げまどった。紅蓮の炎は一晩中燃え続けた。一夜明けると、鹿児島市は一望千里の焼け野原と化し、余じんがくすぶり、焼けこがれた死体が累々と連なる悲惨な姿になっていた。見渡す限り、ただ瓦礫の街、電線は焼き切れて垂れ、電車線は折れ曲がり、焼けた電車、自動車が哀れな残骸となり、切断された水道からは水が噴き出ていた。肉親、知人の姿を求めて、焼け跡を掘る人、ぼう然と死体を焼く人、病院、薬を求めてさまよう人々が痛々しかった。
後に、被災者の体験談、体験記から見ると、この夜の空襲による災害には特徴的なことが幾つかある。午後11時5分という時間で、ほとんどの市民が寝入りばなであり、警報の吹鳴も無かったため、対処に戸惑った。服装も寝間着や着流しの市民が多かった。長雨で防空壕は水浸しになっていて、腰までつかる状態であった。4・8空襲は爆弾主体であり、防空壕に避難することが効果的であったため、この夜も防空壕に退避、周囲が火の海になってから、脱出しようとしても、熱風のため扉を開けることが出来ず、そのまま焼死または窒息死した例が多かった。助かった人々の例では、城山や甲突川に避難したり、疎開跡の大きな広場に逃げこんだ─などがみられた。
焼夷弾にも、M69型といわれる普通焼夷弾のほかにナパーム性油脂焼夷弾、黄燐焼夷弾、エレクトロン焼夷弾などさまざまな威力を持ったものがあるが、中でも「モロトフのパンかご」といわれた大型焼夷弾は親爆弾に38本、または72本の小型焼夷筒が収められていて、空中で親爆弾が爆発すると中の小型焼夷筒が一面に散りながら落下して火災を起こす仕組みになっていた。また焼夷弾の中の固形油は、一度屋根や壁にへばりついたら、なかなかとれず、発火しやすい上に高熱を発し、長時間燃え続けるため、それまで、隣組などで訓練してきた゛火たたき゛やバケツリレーの消火ではほとんど役に立たなかった。木と紙の日本都市家屋には火攻めが効果があるとみた米軍の戦略であった。(南日本新聞「鹿児島空襲」昭和47(1972)年8月8日)
この空襲のあと、西部軍管区司令部は18日午前10時、次のように発表した。「マリアナ基地の敵B29約100機は6月17日23時頃より18日4時20分頃のまでの間、一部をもって関門地区ならびに鹿児島市付近に、主力をもって大牟田市付近に侵入、関門地区には機雷を投下、鹿児島市、大牟田市付近には主として焼夷弾による攻撃を実施せり。大牟田市、鹿児島市およびその付近に火災発生せるも、軍官民の敢闘により18日6時頃までにはおおむね鎮火せり。重要施設の被害軽微なり」
市営造物の被害は市庁内付属建物、交通部、公会堂、中央卸売市場、歴史館、市立病院。学校関係で鹿児島、山下、松原、草牟田、西田、中洲、荒田、第二、八幡の9国民学校。中等学校で女子興業、女子商業の2校。青年学校では鹿児島、松原、荒田、紫原、洲崎、西田、交通の7校。交通機関において電車焼失27両、残35両。自動車焼失37両、残1両。庁員罹災者市長以下178人、ほかに死者2人。交通部罹災者71人、死者9人。水道においては配水地、配水管には被害はなかったが各戸引き込み線に多大な被害を受けた。
6月27日現在、鹿児島市が調査した6・17空襲後における市民動態調では、空襲直前の世帯数3万4,868世帯、人口14万5,978人に対し、空襲後の世帯数は2万1,958世帯、人口9万3,032人となっている。うち罹災したまま残留している世帯数は5,921世帯、人口は2万3,032人だった。〔罹災状況〕
- 被災場所 市内一円
- 被災人口 66,134人 被災戸数 11,649戸
- 死者2,316人 負傷者3,500人
時を超えて 2022年へ
東郷京子さんが大学ノートに書かれた「私と戦争」を初めて読ませていただいた日から、7年が経ちました。その時は、戦後70年の節目の年で、戦争関連の新聞やテレビの取材が頻繁にTさんの自宅を訪れました。
年々、戦争体験者が亡くなられていく中で、7月、8月の戦争にかかわる記事は、新聞では、一面から地域版の紙面へ、テレビでも、ニュース番組後半の各地からのリポート、というふうな枠中で、戦争の事実が、私たちの日常から遠のいていっているようです。 文責:山下春美
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