満州引き揚げ体験者の話を初めて聞く  2016年2月27日(土)

2016年

前回(2015年12月17日(土))、参加してくださった赤崎雅仁さん。
各参加者が感想を述べ合う後半部分で、自己紹介と満州からの引き揚げ体験を簡単に述べられました。その話をもっと詳しく聞きたいと思い、今回は赤崎さんの話をじっくり聞く、というテーマで開催しました。

赤崎雅仁さん プロフィール

「私の歩み」をクリックしていただくと詳しくご覧いただけます。
「私の歩み」①
「私の歩み」②

1936(昭和11)年 満州国 間島省 琿春にて出生
          父 信之 琿春にて写真館2店舗開業
1943(昭和18)年 在満国民小学校に入学

1945(昭和20)年 3年生以上は、勤労奉仕従事。ソ満国境付近塹壕掘、鉄類などの回収、校庭脇に
          ヒマなどを植える。

   8月9日  ソ連不可侵条約破棄で、ソ連軍の琿春侵入、早期県令により間島(延吉)に列車で
         避難命令を受ける。図們駅付近でソ連機による機銃掃射を受けるが死者なし。
         無事延吉に着く。収容先は日本人学校校舎

  10月    ソ連軍の命により再び琿春へ 徒歩で野宿をしながら山中を7日間位かけて帰る。
        その時はすでに自宅には、現地人が住んでおり、ソ連軍監視の下、ホテルに収容され
        厳しい生活が始まる。

1946(昭和21)年 妹二人 栄養失調、伝染病が蔓延し、亡くなる。
1947(昭和22)年 前年、母親が八路軍の被服廠に留用され、自分も軽微な仕事が与えられた。

1948(昭和23)年 母親が被服廠からたばこ工場に転職、図們に移動する。この時期に朝鮮からの
          引き揚げがあったが、引き揚げ名簿から外される。
          まもなく、たばこ工場で働くことになる。職場で中国語を覚える。

1950(昭和25)年 朝鮮戦争が勃発し、工場とも長春に疎開、母は工場へ、自分は総務課に配属
          される。母、結核のため病状が悪化休職。

1951(昭和26)年 母、8月9日死亡 享年42歳 中国人に混じって夜学に通う。
1953(昭和28)年 帰国の準備 会社の人々が盛大に送別会をしてくれる。秦皇島から舞鶴港に
          帰ってくる。

         17歳で加治木中学校に入学するもわずか2ケ月で結核のため休学。

1954(昭和29)年 2年に復学、 生徒会長に選ばれる。
1955(昭和30)年 3年に進級したが、再発で再び休学入院。

1959(昭和34)年 郵便局入局
1955(平成7)年 退職
                       赤崎雅仁さん著『私の歩み』より抜粋

赤崎さんと参加者との質疑応答

(以下は、翌月4月18日に開催された「集い」最初の部分で交わされた質疑応答からです。)

Q:現地の人との交流はどういう状況でしたか?

赤崎さん:日本人以外の人との交流は全くなかった。お風呂に入れてもらった、という人の話を聞いたことがある。

現地で、日本人が馬に乗ってお金を払ったのを見たことがない。戦後は朝鮮人が多いところにいたが、その集団が威張り、憲兵が真っ先に引っ張られていき銃殺刑。日本人の市長も銃殺、日本人はそれを見に行かされた。日本人に協力した人も連行して、しごかれ、皮のバンドで縛り、鞭で叩かれていたのが、毎日のようにあった。民衆裁判。

琿春へ再び帰った時は、家のものはすべて盗まれていた。日本人の家は全てそうだった。朝鮮人の親しい人に会ったら、日本語で話さないで下さい、と言われた。

雑用の仕事をして小銭を貰ったこともある。赤痢が流行り、妹二人も亡くなり、荷車で2~3キロ先の所の穴に投げ込み、私の下の妹は生まれて3日位で母の乳が出なくて死んだ。向こうの人に助けられ、収容所ではなく、かくまわれて帰還した人もいる。大半の人は着の身着のまま帰った。

関東軍の兵隊は、私たちとは反対の方向に行き、乾パンを投げてくれたりした。

参加者の声

・赤崎さんの自叙伝に感銘、海外生活者の特別な文、関東軍のこと、守ってくれるのは何か、が判る。戦備拡大が戦争の前触れ、関東軍をボロクソに書いた本もある。ビール瓶に火薬と詰めてソ連に向かう訓練など、軍備についての考え方、同等の軍備では戦争はしないという学者の見解もある。

・今回で2回目の参加。昭和10年撫順近くで生まれ、現地の国民学校、満州帝国が出来た後、
撫順線で2年間、汽車通学。日本人、満州人、朝鮮人の区別乗車、満人の匂い(日本人が人間扱いせず)、8月15日以降、日本人が日本人扱いされず。ソ連、次いで八路軍、昼は戦争、夜は休む、というもの。”戦争は負けてはいけない”から、”してはいけない”に。
軍人勅諭をマインドコントロールみたいにしていた。
トン、トン、ツーを小3で教えていた。引き揚げで、親は相当に苦労したと思う。古いことはよく覚えている。

・昭和18年、3月に満州で生まれた。引き揚げたのは赤ちゃんの時。母が5人の子供を連れて帰ってきた。
なんで、こんな愚かな戦争をしたのか。儒教から出発した、死ぬのが一番、という名誉哲学。朱子学、それが最高の目的、一億総玉砕が大本営の目的、メチャクチャである。
日本人は、なんで素直に言うことを聞くのか。考えることが嫌い。忘れることが善。中江兆民。
権威への従属精神、それに弱い国民、ラインシャワー、和を愛する国民、侵略されていない国、この性格は直らない。どうしたら日本を守れるのか、空き巣にしたらすぐに外国が乗りこんでくると思う。
侵略されないようにすることが大事。

・日中不再戦の誓い、という訪中団で、南京に行った。虐殺記念館で写真集などを購入。
帰国後、集落の親子会でそれを見せたら、子どもたちがショックを受けていた。南京事件や盧溝橋の現地の経験者の話も聞いた。上陸したときから虐殺は始まっている。政治家などを中心に、事件がなかったことにしたいような人もいる。

・私は、小学3年で終戦、校門を入って奉安殿という天皇の写真が入っているところに最敬礼、これは
こんな風に手が膝のところにくるまで頭を下げるものだった。それから回り右をして、反対側に二宮金次郎の銅像があり、それにも礼をする、そうして教室に入るようになっていた。
先ほどは、帰るときもそのようにしたと言われていましたが、私は帰るときは、そのままだったように思う。
出水は航空隊がありましたので空襲もありました。空襲注意報、警戒警報、空襲警報、という順番でサイレンが鳴っていた。
私は小中学校、高校、大学の同級生たちに終戦の日のあたりを中心に経験を書いてもらってまとめている。女性は、なかなか書いてくれませんが、電話で取材するとよく話してくれます。

それをメモして文章化して送ると「よくまぁこんなにベラベラと喋りましたね」と言いますが、その中でこれ、これに、ついては分からないので書いてくれるように言いますと、詳しく書いて送ってくれます。終戦の時、小学生だった我々は、微妙な位置にあります。

しかし、私の中では完全に新憲法下で平和主義に育っています。私より上の人がいる研究会では意見が対立することもあります。そんな戦前派とも戦中派とも違う様な微妙は位置ににありますから、記録に残しておきたいのです。

・戦争については聞いていない。教科書でうけたことだけ。

・尖閣列島のこと、問題提起。向こうの人は政府の言うことを信じない、日本は信じる、政府を信じるかどうかが違う。

・8月15日を期して朝鮮人は、隠しておいた国旗を出して、万歳(ばんせい)と叫んだ。

・私の父は、38歳で戦病死した。

・伐採をしたり、あとで畑作業をしたりした、と父は言っていた。

・上から、女性は坊主になれという指示で男装した。

・私は関東軍の一員で、予備士官学校の生徒、肋膜で南方へ行かず残留。満州では現地の日本人などが徴集された。女子供が、「兵隊さん、助けてください」と言っても、どうすることも出来なかった。残留孤児もいる。

まとめ

2016年から、シベリア抑留や満州・朝鮮からの引き揚げ体験を語る人、聞く人の参加者が増えていきました。
それ以来、「集い」は、『外地』での体験をされた人の話が主なテーマとなり、今日まで続いています。

その後、「シベリア抑留絵画展」や「満州国切手展」、「望郷の鐘」の映画上映会、「戦争遺物展示会」の開催等、外部に向けたアピールもしていくようになりました。

  2022年5月7日     協力:記録メモ・田頭壽雄さん 筆責:山下春美

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