福岡県 二又トンネル爆発事故

2022年

4月18日(月)19日(火)の両日、所属する宗門の研修会がありました。
講師は、福岡県田川郡添田町落合にあるお寺の住職で、11年前に京都の学校で習った先生でした。

その講師は、お坊さんになりたくなくて、なりたくなくて、大谷大学在学中にひどいうつ病
で苦しんだ、という経歴がある方です。(生まれは1948(昭和23)年)

それは何故か?というと、実家のお寺は福岡県英彦山の麓にある消防ポンプ小屋で、ひどい貧乏
だったらしいのです。一生懸命勉強して、お坊さんになっても、実家の極貧の消防ポンプ小屋の坊さんにならなければならない。そのことが、どうしても受け入れられなかったそうです。

さて、本題は、その講師がなぜ、消防ポンプ小屋に住んでいたか、ということなんです。

この話は、11年前在学中にも聞いた話だったんですが、今回、そのことが戦争関連に関わる話だったことがわかりました。終戦後にこんな出来事があったことを知ってほしいと思い、記事にしました。

昭和20年(1945年)11月21日(終戦後)、福岡県英彦山の麓に二又トンネル(鉄道線路は未開通)というトンネルがあり、そのトンネルの中に日本軍が火薬を多量に保管していました。アメリカ軍が当トンネル内の火薬を焼却処理しようとし、トンネルの両方から火をつけたところ、火の粉が飛び、近隣の村の屋根に火が付き、人々は必死になって消火活動をやりました。

しばらくして突然、大爆発が起こり、山ひとつがふっとび、多くの民家が吹き飛ばされて死者147人、負傷者149人、家屋135戸が被災する大きな事故がおこりました。当時、この大惨事は公に公表されませんでした。

(上記、講師の話を参考引用)

講師の父親は、その惨状を見て、その村の消防ポンプ小屋に住み着き、昼間は村人と共に復興作業をし、夜は、親を亡くした、子を亡くした、夫を亡くした、妻を亡くしたというどうにもならない悲しみや苦しみを抱えながら、消防ポンプ小屋のお寺にやってくる人々とともに、親鸞聖人の教えに生きた人だったのです。だからこそ、決して村人より贅沢な暮らしはされなかったのでしょう。

今回、その事故が『福岡県二又トンネル爆発事故』だということを知りました。
生存者が語る二又トンネル爆発事故(青い文字の上でクリックしたら、詳しい説明が出てきます。)

この事故は、戦後占領軍による被害の中で最大最悪のものとなったそうです。

講師の実家のお寺には、二又トンネル爆発事故の犠牲者の慰霊碑が建っているそうです。

機会をつくり、ぜひ行ってみたいです。

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