『戦争体験を話さなかった親を通して感じたこと、考えたこと』 2022年1月15日(土)

2022年

                                    

2022年、最初のテーマは、

「戦争体験を話さなかった親を通して感じたこと、考えたことです。

 瀬下三留さんとHさんのお二人にお話をしていただいた内容から、以下のことを記事にしています。
 

  • お父さんの生年月日
  • お父さんのことについて、調べてみようと思ったきっかけ
  • 戦争体験を話さなかった親を通して感じたこと、考えたこと。

  ※お二人には、今回、改めて文書で寄せていただきました。有難うございました。

瀬下三留さん 60代 男性 鹿児島県薩摩川内市 出身

 父、瀬下深志は大正四年七月十日、現在の薩摩川内市東郷町に生まれました。

昭和17年、27歳の時に3歳下の女性と結婚して満州の鞍山市に渡りました。

住所があった所が満鉄の子会社の「昭和製鋼所」の社宅の番地だったので、昭和製鋼所に勤務していたのだろうと推測しています。

満州に渡った理由はわかりません。

結婚して夢を持って新天地を目指したのかもしれません。

これらの事実は聞いていなく、後年調べていく中で判明した事です。

調べてみようと思ったきっかけは?

ファミリーヒストリーの真似事で自身のルーツを知りたいと思った事がきっかけで、その中で避けて通れないのが父の戦争体験でした。

父は、比較的に戦争の事は、子供だった私に話してくれていた方だと思います。

シベリア抑留のこと、海のように大きいバイカル湖のこと、起床ラッパや就寝ラッパのこと馬(たぶん軍馬のこと)が食べる雑草は食べられるとか、ベルトや靴は美味かったとか、捕虜の時にロシア兵にマンドリン銃を突きつけられて死を覚悟したことなど聞いた事を覚えています。

満州で召集されてどこに配置されて、どこの隊に所属して、どこで捕虜になってどこを通ってシベリア抑留(のちにモンゴル抑留とわかりました)されたのか等の具体的な事実は調べていく上でわかってきたことでした。

親の話さなかったことを通して感じたこと、考えたこと。

私たちの世代までは親が、戦争を体験している世代です。

人の数だけ戦争体験の数があるわけで、悲惨だった戦争を話したくない体験者は当然です。私の父の話も銃撃戦等の話はあまり聞いた覚えはありません。

ただ夜になって宿営地に池か川かの水場があり、その場で水を飲み、翌朝その水場を見たら死体がいっぱい浮かんでいたとの話は、子供心に恐ろしかった覚えがあります

シベリア抑留から帰ってやっとの思いで母親(私の祖母)と会った時、母親は父を見て幽霊かと思ったと言っていたと聞きました。

もうぼろぼろの姿で幽霊のように帰って来たのでしょう。

ここからは私の推測ですが、祖母はたった一人息子の消息が戦後二年もわからずに、もし亡くなっているのなら幽霊になってもいいから会いたいと念じていたのかもしれません。

そして会った時、口から出た言葉が「幽霊かと思った」だったのかもしれません。

父も祖母が生きているかどうかもわからずに帰ってきたと思います。

自分の妻が鞍山で病死していたことも知らなかったと思います。

Hさん 60代 男性 宮崎県出身

 父は、昭和3年3月24日、宮崎県佐土原で生まれました。

 昭和17年3月 14歳 内原訓練所入所(栃木県水戸市)池田中隊

昭和17年6月、下関~釜山~安東・奉天・新京~哈爾濱(ハルピン訓練所)

 昭和17年12月、奉天(満鉄教習所)

 昭和18年 満鉄 安東 電気通信区配属

 昭和19年 退職で帰郷(病 栄養失調?)

 昭和20年1月 本土決戦体制 西部1439部隊(熊本)入隊

 昭和20年8月 17歳 終戦 (~平成12年 72歳没)
  (父親の若い頃は、残された写真でしか想像できないです。)

履歴を調べてみようとしたきっかけは?

まさに『語り継ぐ集い』に参加したことです。

 生前、戦争のことについて父が語っていたこと、後から知ったことですが、

私が、成人した頃に少し話しかけたことがありますが、膝を付き合わせて話す機会はありませんでし た。

(私に日頃の平和ボケ生活のなかで、興味を示さずじっくりと聞き出す余裕がなかったのは確かです)

昭和17年のわずか14~15歳の義勇軍ですから、おそらく自己の判断力など無しに、教師の案内・誘導や周囲に流されて参加したのだと思います。

まだ、子供の年齢です。戦地に行くタイミングであれば 最前線に行かされ、命は無かった確率が高いですね。病を患い、幸いと言うか満州鉄道勤務から3年弱で帰国して終戦を迎えていますので、今の私があるのです。今父が生きていたら、いろんなことが聞き出せたでしょう。(20年以上前に他界しましたので……)

後から知ったこともほとんどなく、義勇軍教習所内の上下関係のパワハラ・いじめ・体罰や、中国人(満州人)に対する蔑視、暴言、暴行は頻繁にあったようです。

 

親の話さなかったことを通して感じたこと、考えたこと。 

私の場合、父はS19年に帰国し、熊本の部隊で終戦で実戦は無かったと思われます。母は近くに新田原基地があり、空襲爆撃を経験したことを聞いています。ほとんどの日本人は、何のための、誰のための戦争なのかも理解できていなかったのではないでしょうか。

「満蒙開拓青少年義勇軍」に参加した人々の歴史にはシベリア抑留をはじめ、いろいろな惨劇があったとの記録があります。

母方の父(祖父)、実妹の義父、妻の父(義父)など身内が、少しづつ時期は違いますが、満州に渡っていて、幸いにも帰国出来ていますが、今となっては他界していて状況を聞き出すことも出来ません。これも、聞くところによると、「生き残りの会:名称不明?」には参加していたようですが、家族には満州での実態を話したがらない様子であったと思われます。

これまで、多くの体験者のお話を拝聴し、そのご苦労を知れば知るほど胸が痛みますが、満州・他の戦地から生きて帰れなかった人々、大変な苦労をして帰還してこられた人々の思い、また加害者としての日本人、被害者としての日本人のこともこの会の記録として積み重ねていくことが出来たらいいですね。

(日本の戦争の記録はNHKアーカイブなどで結構残されているようです。毎年夏が来る頃や開戦12.8の頃には、再放送、新レポートなどがありますね。これは、大変参考・勉強になります。また、映画館では世界の戦争の新作ノンフィクション作品も結構あります。知らないこと、知らされないことが沢山ありますね。)

まとめ

戦争体験者がいなくなる、と昨今、しきりに耳にします。確かに、体験者自身から生の話を聞くことは、聞き手が疑似体験させられるほどに生々しく、感じることができると思います。

幸いにして、私たち人間には、想像力という力が与えられています。直接聞くことができなくても、戦争体験者の記録集や小説、映画、DVDなどで戦争について知ることができます。

それらを見聞きし、トラウマになるほどに戦争の悲惨さや悲しさに想像力をふくらませることが出来るのではないかと思っています。

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